諸葛喬編 第1話 「負の遺伝」
ここからは「父親失格 諸葛喬編」です。
1週間ほど前から、わが国の首相であり、僕の父でもある諸葛孔明(41)が部屋に引きこもっている。家の前にはマスコミが見たこともないくらいたくさんいて、母が説明に奮闘した。
そんな大変な週の最後の日に。
私立成都大音楽部2年の諸葛喬(20)はショパンの「幻想即興曲 嬰ハ短調 作品66」を弾いている。トリノオリンピックの女子フィギュアで金メダルをとった選手が、ショートプログラムを滑った時の曲。覚えている人は覚えている、はず。わからなかったら調べてください。
気持ちよく弾き終え一息ついたところに、一人分のささやかな拍手が送られた。
その方を振り向くと、弾き始める前はまだ部屋にいたはずの父、諸葛孔明が柱にもたれて立っていた。
「あ、父さん。すいません、起こしてしまいましたか?」
「いえ。もとから起きていました。…昔から思っていたのですが、喬はほんとうにピアノが好きなんですね。楽しそうに弾いてる」
「音楽は僕の一部なんです。初めてピアノに触れたときから、もう17年くらい経っているかな?母もピアノが好きで、小さいけど家にあったんです。遊びといえば弾くことしか考えられなくて、恪には女の子みたいだってけなされましたよ。本当はもっと乱暴な言葉でしたけどね。
負けず嫌いで意地っ張りな兄だから、きっと僕が弾いている姿が周りにほめられているのが、悔しかっただけなんでしょうけど。僕が人に自慢できるのはこれくらいでしたから、当然のように、この道に進もうかと。目立つのはいやなんですけど、楽しいというか、楽しませるのは大好きだから、死んでも弾いてるんじゃないかなぁ。
たぶんピアノを取り上げられたら、僕、この世から消えます」
最後のは冗談で言ったのだが、父さんは全く笑わなかった。そういう人だって、わかってはいるが。なんだか僕がすべってしまったような空気を作った父さんは、静かな中で小さくつぶやいた。
「小さい頃から打ち込めるものがあるというのは、いいことですよね」
「え、じゃあ父さんは?子供時代から好きだったこととか、あったんですか?」
「……」
顔の表情は変わらないが、目の光がだんだんと暗くなっている。
恵まれなかった時代を悲観しているのか、それとも。
「……」
自分の素顔を息子に知られるのがこわいのか。
僕は瞻と違って、どんな父さんを知ってもがっかりしない自信があるのに。
「僕には別に何も…
苦手なことがなければ得意なこともない、つまらない子供でしたよ。
大人達の嗜好に合うように育つことを嫌って反発しすぎたせいで誰かに愛されたり、可愛がられたり、同情されたりといったことがなかったものですから。もしあったのだとしても、当時の僕にそれらを感じる機能はない。好意的な感情よりも相手からの嫌悪に敏感で。
正直にことを話せば大人達の機嫌を損ねて怒られたから、なるべく黙って、喋ることを求められれば相手を一時的に喜ばせる『模範解答』を返す。出来なきゃまた怒られる。叱られるんじゃなく、怒られた。子供がみても呆れるほどの幼稚な感情を、十にもなっていない子供にぶつけて、思い通りになれば満足するし、ならなければまたぐずりだす。
要するに、両親以外、ろくな人間がいなかったんですよ。僕らの周りには。
瑾兄さんは扱い方を心得ていてうまく世渡っていましたけど、どうしても僕には納得できなかった。だからわざと感情を逆なでさせることを言って、負かしてみたりとか。そのおかげか僕、口喧嘩は無敗なんですよ。
…こんな生活を強いられていた所為で、肝心な自分の感情がなんと呼ばれるものなのか、わからなくなっていましたけど。」
いっとき暗くなっていた光は、話している間に憎しみの色を宿していた。
そうか。だから父さんは、国中に散らばっている大勢の親戚と、連絡をとろうとしないのか。例外は、同じおもいをしてきた姉兄弟だけ。
「何なのかわからない自分の一方的な感情で相手を困らせないように、今までなにも伝えてこなかったんですね」
特に深い意味はない、思い付きで放たれたつぶやき。ただ少し、なじるような口調になっていた。
それが今、父さんの持つ何かに引っかかったようだ。
「あ、すいません。わかった様な言い方して」
「…」
つっこまれる前に弁解する。僕なりの、人間関係を円滑にするための手段。
「でも、父もよく僕らに話してたんです。
家の話とか、当時の、父さんの話とか。だから―」
「んで、あやまるんです」
「え?」
「なんで、謝るんです。喬。」
今度は、僕が黙る番だった。
父子の間で、視線での冷戦が始まる。
こうなると僕の勝ち目は薄い。勝ち目はないが、負けを認める気分にはならなかった。この人に僕を責める権利はない。人を傷つけないための沈黙も、嘘も、本音をさらさないということに変わりはない。
他人にいい気を与えるか否かの違いだけだ。
「父さんは、瞻が自分みたいにならないか心配なんでしょう?」
さらりと言ってのけると、父さんは不快そうな顔をした。
しかし本当に不快に思っているんじゃなくて、その話はやめてほしいという意味での表情だ。
「喬、話を」
「もう救いようのない僕らよりも大事なことじゃないですか?瞻はまだ未熟だから。いくらでも染め直せます。」
「そういう問題ではなくて」
「瞻は父さんのことを、ただの情がない人間だと思ってますよ。
父さんが自分を想ってくれてるなんて微塵も感じてない。瞻はあまのじゃくだけど優しい子だから、いつか、自分よりも人の感情を第一にする可能性もある。このままじゃ、知らないうちに父さんと同じ道を辿ってしまうかも。本当の父さんを見せて、苦しんでいる事実を教えて、学ばせなきゃいけない。親子して、こんなことにならないように。遺伝っていうのは怖いですからね。
瞻も、父さんのこと嫌いだっていいながら、考え方が父さんにそっくりで。前車の轍を踏まなきゃいいけど…。あの子がどうなるかは、これからの父さんの行動が鍵を握りますよ。こどもは、親の背中を見て育つんだから」
「…」
「聞かなきゃよかったですか?ついでに言うと僕も、父の背を見てこうなりましたから。さっき父さんが話していたとおり、『模範解答』の達人でしたよ。あの人。他人の求めることがわかるのは凄いけど…他人に流されようとするのは悪いことですよね。結局父も、自分の感情なんて出したこともなかった。いつもヘラヘラ笑ってばかり」
「知っていた喬ですら回避できなかった『形質』だから、瞻にはその存在を教えるべきだと?」
「そういうことです」
「……」
「不満ですか?なにが?瞻にこうなってほしくないんでしょう?」
瞻には、他人を過剰に気づかうような窮屈な生き方をしてほしくない。自分自身のことも思いやってほしい。その想いは、本来ならただの従兄だった僕よりも、父親であるあなたの方が強いはず。
いったい、何がいやなんです?
自分の情けなさを知られるのが?
そんなの、あなたの勝手なワガママでしょう?
「確かに瞻の中の『諸葛孔明』像を壊すのはかわいそうですけどね…僕らと同じように生きる方がずっとかわいそうですよ。それに、瞻には似合わない」
「…似合わない、ですか」
「喬。瞻には友達がどのくらいいます」
「…え?」
「知っているのなら、教えてください」
「うーん、絶対にこの人数、とは言い切れませんが、5人くらいは絶対。」
「そうですか。なら瞻は大丈夫ですよ」
「どうしてです?友達がいるから?僕にだって友達はいましたよ。人並みに」
「瞻には僕の血が流れているんです。独りにさえしなければ、歪んだ心理にいくこともない。」
「……」
「瞻のことを想っているからだと言い張ってあれこれいうのも、十分な過保護ですよ。これくらいは、瞻も気づいているかもしれない。たくさんの人に、『過度に』心配されていると知れば、迷惑をかけてしまっていると考えてしまうでしょう?それに、僕一人欠けたくらいで…瞻が感じる愛が足りなくなることはない」
「ッ……!
瞻が本当に望んでいるものは、父さんからの愛だというのに?!」
部屋に戻りかけていた父さんが、ドアノブを握ったまま振り返った。
「分かってすぐにできるなら…苦労はしませんよ」
父さんの目が、また暗い色になる。
その色は決して、奥にある感情を透かそうとしない。
この人は、どれほどの人を愛して、裏切られてきたんだろう。
人を傷つけるのを恐れて。
自分が傷つくのを厭って。
此処まで来てしまった諸葛孔明の道は、これから、どんな風に延びてゆくのか。
瞻の道と、交われる日は来るのだろうか?
…いや。おそらくは…。
「父さん。最後にひとつ、いいですか?どうでもいいことですけど」
「…なんですか」
「父さんのほんとうの一人称は『僕』なんですね。
いつも『私』だったから、普段もそうだったのかとばかり思ってました」
「それがどうしたっていうんです」
「深い意味はありませんよ。ただ、僕らと同じだと思って。」




