044 魔女の箒
空気を焼き切るような青白い閃光が消え去り、規格外の激闘が、ついに終わった。
「加賀瀬君!」
松野楓は、崩落の危険も顧みず、ひび割れた純白の床を必死に駆け抜けていた。
彼女の視線の先には、力尽き、床へ倒れ伏した加賀瀬善嗣の姿があった。
松野は加賀瀬の傍らに膝をつき、血と埃に塗れた彼の身体を覗き込んだ。
「加賀瀬君! 加賀瀬君ッ!」
何度呼びかけても、肩を揺すっても、彼はピクリとも動かない。浅く微弱な呼吸だけが、彼が辛うじて生きていることを証明していた。
ギギギィッ……! ズズズンッ……!!
松野の悲痛な声をかき消すように、天空の要塞が不気味な悲鳴を上げた。
巨大なアトリウムを支えていた純白の柱に亀裂が走り、天井からは絶え間なく土埃や漆喰の欠片が降り注いでくる。ニーズヘッグの攻撃による外壁の損壊か、あるいは先ほどの加賀瀬の『青白い雷』による内部構造の破壊か。いずれにせよ、この第五階層が完全に崩落するのは時間の問題だった。
「このままだと危険だ! 早く逃げないと!」
遅れて駆けつけてきたドーモスが、松野の細い肩に重い手を添え、切羽詰まった声で叫んだ。
「でも、加賀瀬君が……!」
松野は涙目で加賀瀬の学ランの袖をぎゅっと握りしめた。自分たちを助けるために、ここまでボロボロになって戦ってくれた彼を置いていくことなど、絶対にできるはずがない。
ドーモスは、痛むように唇を強く噛み締めた。
医者としての経験が告げている。今の加賀瀬の肉体は、限界を遥かに超えた酷使により、完全にシャットダウンしている状態だ。無理に動かせば命に関わるかもしれない。だが、ここに留まれば全員が瓦礫の底に生埋めになる。
動かぬ加賀瀬を置いていくわけにもいかない。かといって、このまま黙っていれば全滅だ。老齢の彼にとって、意識のない屈強な少年を背負って崩れゆく回廊を逃げ切る体力は、とうに残されていなかった。
その絶望的なジレンマの中。
トテトテ、と小さな足音が近づいてきた。ドーモスの足元に隠れていたナランが、倒れる加賀瀬の顔元へと歩み寄ったのだ。
「おじいちゃん!」
ナランは、加賀瀬の血まみれの頬を小さな手でそっと撫でながら、振り返ってドーモスを見上げた。
「また、お兄ちゃんを助けないと!」
純真無垢な、一点の曇りもないその言葉。
ドーモスは言葉に詰まり、顔をしかめることしかできなかった。スラムで瀕死の彼を助けた時のように、また助けたい。その思いは痛いほど同じだ。だが、現実はあまりに非情だった。
――その、重苦しい沈黙を破ったのは、頭上からの声だった。
「安心しな」
「……!」
松野たちが一斉に声のする上方へ顔を上げる。
崩落しかけているアトリウムの遥か上層、第五階層の吹き抜けの縁から、二つの影が躊躇いもなく飛び降りてくるのが見えた。
数十メートルの高さを落下してきた二つの影は、松野たちのわずか数メートル手前の床に、まるで一枚の羽が落ちるかのように、あるいは重い岩石がめり込むように、それぞれ華麗に、そして力強く着地してみせた。
土煙が晴れる。
そこに立っていたのは、漆黒のチャイナドレスを翻し、悠然と煙管を咥えた長身の美女――麗香と、その後ろにそびえ立つ熊の魔族の巨漢――トウフだった。
「……ッ!」
ドーモスは即座にナランを自身の背後へと隠し、野獣のような警戒心で身構えた。松野もまた、得体の知れない二人の闖入者に怯え、加賀瀬を庇うように両手を広げた。
アルカディアの追手か。それとも別の化け物か。
ひどく警戒する彼らの様子を見かねて、麗香は鼻で笑った。
「敵じゃないよ。私はそいつの知り合いだ」
麗香が、煙管の先で床に倒れている加賀瀬をクイッと指し示した。
「加賀瀬君の……」
松野はハッとして、加賀瀬が先ほど口にしていた言葉を思い出した。
「もしかして、加賀瀬君が言っていた『協力者』って、貴方たちのことですか?」
松野が恐る恐る尋ねる。
「協力した覚えはないけどね。勝手に手のかかる世話を焼かされてるだけさ」
麗香はあっけらかんと答え、周囲の崩れゆく回廊をぐるりと見渡した。
「あの、私たち、ここから出たくて……! ドアルームに行きたいんですけど……」
松野がすがるような思いで訴える。この異常な強者たちなら、ロックされた部屋の扉もこじ開けられるかもしれない。
だが、麗香から返ってきたのは無慈悲な宣告だった。
「ドアルームはもうないよ」
「え?」
松野が目を丸くする。
「もうないって、どういうことですか?」
「文字通りさ」
「も、文字通りって……」
唯一の脱出ルートが絶たれた。その事実に、ドーモスの顔色も土気色に変わる。
「そんなことより――」
麗香は絶望する彼らを気にも留めず、背後に立つトウフの方を横目で見た。
「もっと良い脱出方法がある。そうだろう?」
麗香は、トウフの中に入り込んでいるはずの存在――『ファントム』へと問いかけた。
ところが。
トウフは、目をぱちくりと瞬かせながら、口を半開きにして呆然と突っ立っていた。
「……ん? あれ?」
トウフは自分の巨大な両手を見つめ、キョロキョロと周囲の景色を見回した。
「あれ、ここどこ? ていうかボク、何してましたっけ?」
「…………」
先ほどまでの冷徹な神の気配は微塵もない。そこにいるのは、正真正銘、いつもの少し抜けた心優しい熊の魔族だった。
いつの間にか、ファントムの意識は彼の身体から離れていたのだ。
挙動不審に首を傾げるトウフに対し、麗香は無言で一歩近づき。
バチィンッ!!
容赦なく、その毛むくじゃらの頬へ強烈な平手打ちを食らわせた。
「あいたッ!?」
トウフが涙目で頬を押さえる。
「ちょっ、師匠! いきなりなんですか!?」
「トウフか?」
「トウフですけど!?」
「……ったく」
麗香は忌々しげに舌打ちをし、大きなため息を一つ吐き出した。神の気まぐれに付き合わされる身にもなってほしい。
麗香は気を取り直し、再び松野たちの方へ顔を向けた。
「まあいい。そろそろ来るはずだよ」
麗香がそう言った、直後だった。
ビュォォォォォォンッ!!
「えっ!?」
凄まじい風切り音が鳴り響き、フロアの奥の暗がりから、妙な影が複数、猛烈なスピードでこちらへ向かって突っ込んでくるのを、松野たちは視界の端で捉えた。
「なんだ!?」
ドーモスが身構える。
空を飛んで迫ってくるそれは、ミサイルでもドローンでもなかった。
それは、十一本の箒たちだった。
松野たちの数メートル前で、キュッと急ブレーキをかけて滞空する十一本の箒。
柄の部分はごつごつとしたハシバミの古木でできており、節くれ立ち、幾多の持ち主の指の跡が黒く染み付いている。先端にはエニシダの枯れた枝が荒々しく束ねられており、カサカサと乾いた音を立てて、まるで生き物のように震えていた。
いや、文字通り、それは「生きて」いた。
よく見れば、束ねられた枝の根元あたりに、ギョロリとした黄色い瞳と、三日月型に裂けた口のようなものが、不気味に浮かび上がっているではないか。
一本の傷だらけの箒を先頭にして、それらは扇状にふわりふわりと宙に浮きながら並んでいた。
「……え、ええ?」
松野は完全に目を丸くし、信じられないものを見るようにそれらを凝視した。
ドーモスもまた、警戒を解き、物珍しそうに目を細めてその姿を観察していた。
「なるほど……『魔女の箒』か」
ドーモスがポツリと呟くと、松野が不思議そうに首を傾げた。
「魔女の、箒?」
彼女の疑念に答えたのは、麗香だった。
「魔女が空を飛ぶために乗る、あの箒さ」
麗香が浮遊する箒たちを指し示した。
すると、先頭のひときわ古びた箒が、裂けた口を動かし、いなせな野郎のような凛々しいダミ声を響かせた。
「アンタらが、姉御の言うお客たちかい?」
「ひっ……喋った……!」
ただでさえ空飛ぶ箒というファンタジーに脳の処理が追いついていない松野は、それがヤクザのような口調で喋り出したことに、口をあんぐりと開けて固まってしまった。
「乗りな。ここはもうすぐ崩れる。外にはヤバいバケモンも飛んでるし、俺たちもこんなトコにずっと居たくねぇからな」
先頭の箒が急かすように言うと、麗香も松野たちへ、乗りなと言わんばかりに顎でジェスチャーをした。
「ほら、お喋りは後だ。早く乗りな」
「の、乗る……? これに?」
怪訝そうに、そしてひどく恐る恐る箒を見つめる松野。
一方、ドーモスは状況の切迫を理解し、ナランを抱き抱えたまま一本の箒に跨ろうとした。
すると、先頭の箒が遮るように前へ出て口を開いた。
「おいおい、待て待て小僧。俺たちのルールを知らねぇのか? 俺たちは一人しか背中に乗せることが出来ねえんだ。残念だが、その小さなガキは別の箒に乗せな」
「なんだと?」
ドーモスが鋭い目で箒を睨みつけた。こんな怪しげで不安定な乗り物に、幼いナランを一人で乗せるなど、過保護な彼からすれば絶対に承服できない提案だ。
「安心していいよ」
麗香が、ドーモスの不安を察して声をかけた。
「こいつらはプライドが高い。一度背中に乗せた奴を、目的地に着くまで絶対に振り落とさないことで有名だからね」
「……確かに、『魔女の箒』は乗り手を落とさないという伝承は聞くが……」
「ま、こいつらの気分と匙加減次第だけどね」
麗香の最後の余計な一言に、ドーモスはさらに顔をしかめた。だが、崩落の音は徐々に大きくなっている。迷っている暇はない。
「……仕方ない」
ドーモスはしぶしぶ、ナランを床に下ろした。
「ナラン、一人で乗れるか? 大丈夫か?」
「うん!!」
ナランの顔に、一切の恐怖心はなかった。むしろ、遊園地のアトラクションを前にした子供のように、目を輝かせ、満面の笑みで大きく頷いた。その逞しい姿に、ドーモスも少しだけ安堵の息を漏らす。
ドーモスとナランがそれぞれ、宙に浮く箒の柄に跨った。
すると、二人の体重を乗せた箒は、スゥッと少し高く、床から一メートルほどの位置まで浮上した。
「お、おお……」
思わずバランスを取ろうと柄にしがみつくドーモス。
「うわあ! すごいすごい! 浮いてるよおじいちゃん!」
慌てふためく老人とは対照的に、ナランはキャッキャと歓喜の声を上げて楽しそうに足をぶらつかせている。
その様子を見て、安全だと判断した松野も、恐る恐る別の箒にまたがった。
「う、うわわ……」
浮遊感に肝を冷やし、松野は必死に箒の柄の先端にしがみついていた。
「師匠、いつのまに『魔女の箒』なんて呼んでたんですか?」
トウフが、自分用の箒に跨りながら不思議そうに問いかけた。
「コイツらを呼んだのは私じゃないよ」
麗香は短く答えた。ファントムの仕業だ。彼女は常に、すべてを見越して最善あるいは最悪の盤面を用意している。
その言葉を聞いた直後、松野がハッとして、一番大事なことを思い出したように声を荒げた。
「待ってください! 加賀瀬君はどうするんですか!?」
気絶した加賀瀬は、箒に自ら跨ることなどできない。二人乗りもできないのなら、彼を運ぶ手段がない。
だが、麗香は事もなげに言った。
「心配するな」
麗香はそう言うと、床に倒れ伏している加賀瀬の学ランの首根っこを、片手で乱暴にガシッと掴み上げた。
「私が『持っていく』」
「も、持っていく……?」
松野がドン引きする中、麗香は意識のない加賀瀬の首を掴んだまま、ズルズルと床を引きずり、自分自身が先頭の箒へと優雅に跨った。
「コイツは『荷物』だ。そうだろう?」
麗香が、眼下の先頭の箒の目玉に向かって、絶対的な威圧感を込めた冷ややかな視線を向けた。
「……ひっ。ま、まあ……そういうことなら、良しとしよう」
麗香の殺気にビビったのか、先頭の箒はしぶしぶといった様子で了承した。
すると――。
ポワァン……。
麗香の手からぶら下がっていた加賀瀬の身体が、まるで無重力空間に置かれたように、ふわりと宙に浮き上がったのだ。
「ええっ!?」
松野は目を丸くして、宙に浮く加賀瀬の姿を食い入るように見つめた。
「『魔女の箒』の力さ」
麗香が端的に答える。
「なるほど、生き物ではなく『ただの荷物』として認識されれば、箒の魔法の力で浮力を得られて、重さを感じずに運べるんでしたっけ」
トウフが感心しながら補足説明をした。
「……なんでもありだな」
ドーモスが呆れたように呟く。
「さあ、しっかりと柄を握りな。舌を噛み切るよ」
麗香が、全員に向かって鋭く注意を促した。
松野やドーモスが言われた通りに柄をぎゅっと握りしめた瞬間。
シュインッ!
目に見えない風の膜のようなものが、彼らの身体の周囲をすっぽりと覆い隠した。まるで透明なカプセルの中に包み込まれたような、不思議な安心感と静寂が訪れる。空気抵抗を防ぐ、魔法の結界だ。
「それじゃあ、出発するぜッ!」
先頭の箒が威勢よく叫ぶと、十一本の箒は一斉に、さらに高く空中へと浮上した。
「お、おおおお!」
松野が狼狽して悲鳴を上げる。
「すごーい!!」
ナランは怖いもの知らずと言わんばかりに、結界の中で両手を広げて歓喜の声を上げている。
「しっかり掴まってな!!」
箒がそう言い放った途端。
ズドォォォォンッ!!
爆発的な推進力と共に、彼らの乗った箒の群れは、崩れゆくアルカディア本部の巨大なアトリウムを縫うようにして、恐ろしいスピードで弾き出されていった。
天井から降り注ぐ巨大な瓦礫の雨、倒壊する大理石の柱。その絶望的な障害物の隙間を、十一本の『魔女の箒』たちは、まるでアクロバット飛行の編隊のように、見事な軌道を描いてすり抜けていく。
「ひぃぃぃぃッ!」
「前! 前ェッ!」
松野やトウフが悲鳴を上げる中、先頭を飛ぶ麗香の箒は迷いなく突き進む。
やがて、彼らの視界の先に、圧倒的な「光」が差し込んできた。
ニーズヘッグが放った火球によって、分厚い外壁にぽっかりと穿たれた、直径数十メートルにも及ぶ巨大な風穴だ。
「振り落とされるなよッ!!」
箒のダミ声と共に、一行は猛スピードでその風穴へと飛び込んだ。
――バサァァァァァッ!!
閉鎖された要塞の空気を抜け、外の世界へ。
風の結界越しに飛び込んできたのは、眼下に広がる果てしない白銀の雲海と、肌を刺すような高高度の冷たい大気だった。
「で、出た……!」
松野が、目元に涙を浮かべながら安堵の声を漏らす。
だが、その安堵は、続く光景によって一瞬にして凍りついた。
ゴオォォォォォォォォォ……ッ!!
彼らが飛び出したアルカディア本部の外壁スレスレを、文字通り雲を斬り裂いて飛翔する、規格外の巨躯があった。
翼を持たず、漆黒の棘に覆われた全長五十メートルの『魔那の怪獣』――ニーズヘッグだ。
「なっ……なんだ、あれは……!?」
ドーモスが絶句する。
松野もまた、呼吸を忘れてその圧倒的な質量を見上げた。まるで動く山脈だ。その姿は、本で読んだどんなドラゴンよりも禍々しく、絶対的な恐怖を孕んでいた。
天空を縦横無尽に泳ぐ黒き龍は、要塞から飛び出してきた箒の群れを、その金色の巨大な眼球でチラリと一瞥した。
だが――ニーズヘッグは、すぐに興味を失ったように視線を外し、再びアルカディア本部の破壊へと戻っていった。
助かったのではない。龍にとって彼らは、飛んでいる羽虫にも満たない、取るに足らない存在だっただけだ。
「ド、ドラゴンだ……」
松野たちは、ただただ呆気に取られ、遠ざかっていく巨大なドラゴンの姿を戦慄と共に見送るしかなかった。
そんな中。
一行の先頭を飛ぶ麗香ただ一人だけは、その絶対的な怪獣の姿を振り返る素振りすら見せなかった。
彼女はただ真っ直ぐに、眼下に広がる雲海と、その遥か下にあるであろう地上だけを見据えていた。
麗香の手元には、魔女の魔法によって重力を忘れてふわりと浮遊している、血だらけの加賀瀬善嗣の姿がある。
彼らが乗る十一本の箒は、崩壊していくアルカディアの天空要塞を背にして、どこまでも続く青空を矢のように駆け抜けていく。
果たして、その行く先がどこなのか。
地獄からの生還を果たした一行の中で――前を見据える麗香以外は、誰も知る由もなかった。




