040 オフィスワーク・伍
「……何事ですか……?」
ピキピキと不気味な音を立てて亀裂が走る純白の壁や床。巨大なアトリウムの遥か上層から、パラパラと漆喰の欠片や土埃が雪のように舞い落ちてくる。
楼門は、手の甲でツーッと流れた鼻血を無造作に拭き取りながら、怪訝な顔で頭上を見上げていた。外部からの規格外の物理的破壊など、アルカディア本部の防衛システムにおいてあり得ない事態だったからだ。
だが、その管理者の意識が「外」へ向いたほんの一瞬の隙を、加賀瀬善嗣が逃すはずがなかった。
「オラァッ!!」
二十メートル先へ吹き飛ばされ、床を転がっていた加賀瀬は、ダウンすることなく即座に跳ね起きた。
そして、両足に爆発的な『天』を集中させる。魔斬の足捌きによる超加速。
ドンッ! と床が陥没するほどの踏み込みで推進力を得た加賀瀬は、瞬きする間に二十メートルの距離を喰い破り、楼門のわずか五メートル先へと肉薄していた。
楼門は首を動かさず、目だけをギロリと動かして迫りくる加賀瀬の姿を捉えた。
そして、顔色一つ変えずに、すっと右手を前へ突き出した。
(来る――!)
加賀瀬の脳内で警鐘が鳴り響く。
またあのおぞましい空間操作だ。自身を別の座標へ飛ばすか、あるいは障害物を目の前に召喚するか。
加賀瀬は即座に警戒レベルを引き上げ、右の拳にはあえて『天』を深く込めず、どの方向へ転移させられても瞬時に対応できるよう、極限まで柔軟な体勢を維持した。
しかし。
楼門は加賀瀬のその警戒を完全に見越したように、能力のトリガーとなる「指のスワイプ」を行わず――あろうことか、自ら無防備に『一歩』を前へ踏み出してきたのだ。
(能力の予備動作はブラフか!?)
加賀瀬の中に、一瞬の戸惑いが生まれた。
転移が来ない。相手から間合いを詰めてきた。ならば、このまま真正面からぶち抜ける。
加賀瀬は戸惑いをコンマ一秒で捨て去り、迎撃のために温存していた『天』を、全て右の拳へと一気に集中させた。正々堂々、小細工なしの真っ向勝負。
眼前に、無表情な楼門の顔面を完璧に捉えた。
「――オルァァッ!!」
加賀瀬は咆哮と共に、迷いなく必殺の右ストレートを前へ突き出した。
「――ッ!?」
だが。
加賀瀬の拳が捉えたのは、楼門の整った顔面ではなかった。
ゴシャァァァァァァァンッ!!!!
骨が砕け、肉が弾ける恐ろしい打撃音。
加賀瀬の拳は、なぜか目の前にいる『加賀瀬善嗣の顔面』を完璧に捉え、深くめり込んでいたのだ。
同時に。
眼前にいたはずの楼門の姿は掻き消え、そこには『もう一人の加賀瀬善嗣』が立っていた。
まるで鏡合わせのような光景。
楼門は、直前に加賀瀬の姿をコピーし、拳が交差するまさにその瞬間に、自身のいた座標へ「加賀瀬の複製体」をペーストしたのだ。
眼前の「コピーされた加賀瀬善嗣」もまた、本物と全く同じモーションで、本物の加賀瀬の顔面に向けて、全く同じ威力の右ストレートを叩き込んでいた。
「んだ――ッ!?」
右目玉が飛び出そうなほどの激痛。頭蓋骨にヒビが入る感触。
目を丸くし、驚愕に染まる加賀瀬は、相対する『自分自身』に顔面を全力で殴り抜かれ、そのまま後方へと大砲で撃たれたように勢いよく吹き飛んだ。
自分自身で凝縮した、必殺の『天』の解放。
他ならぬ己の最強の一撃を、カウンターで顔面に食らったのだ。
ズドォォォォンッ!! という凄まじい衝撃波が遅れて爆発し、加賀瀬の意識は、抵抗する間もなく一瞬にして暗闇の底へと消し飛ばされた。
爆風が吹き抜けの空間へ抜け、やがて純白の回廊に静寂が戻る。
数十メートル先で、本物の加賀瀬善嗣は白目を剥き、完全に意識を失ってピクリとも動かなくなっていた。
「はぁっ……はぁっ……はぁっ……」
その手前。
爆風から少し離れた安全圏へと、自らの足で走って退避していた楼門が、膝に手をつき、かつてないほど荒い息を吐いていた。
完璧に整えられていた前髪は乱れ、額からは大粒の汗が滝のように流れ落ちている。
楼門の能力――『事務作業』。
それは、ある一定の範囲内を自身の「オフィス」と断定することで、その空間内のあらゆる事象をPC上のデータのように編集・操作できる、一見すれば神の所業とも言える恐るべき力だ。
任意の物体を掴み、強制的にスライド移動させる『ドラッグ&ドロップ』。
任意の物体を空間から切り取り、特定の位置に貼り付けることで疑似的な瞬間移動を起こす『カット&ペースト』。
任意の物体をコピーし、特定の位置に貼り付けることで、その複製品を空間内に具現化する『コピー&ペースト』。
そして、複製品を任意のタイミングで消去する『デリート』。
だが、この絶対的な管理者権限には、明確な「デメリット」が存在する。
第一に、この能力が扱える「オフィス」の範囲は極めて限定的であり、常に『楼門自身の半径三十メートル以内』に限られること。そして、能力の範囲外に出た複製品は、その瞬間にエラーを起こして即座に消滅してしまう。
第二に、システムを操作する「管理者」である楼門自身を、能力の対象に指定することは絶対にできないという点。
第三に――ここが最大のネックなのだが。
『カット&ペースト』や『コピー&ペースト』の連続使用は、PCのメモリを圧迫するように、楼門自身の「体力」を激しく消耗させるという点だ。
とりわけ、今回のように対象物が人間などの「有機物」であり、かつ加賀瀬のように莫大なエネルギー――『天』を内包している個体をコピー&ペーストすることは、システムの処理領域を限界まで酷使する「超高負荷作業」に他ならなかった。
(……まさか、たった一人の人間を数秒コピーしただけで、ここまでスタミナを持っていかれるとは)
楼門は乱れた息を必死に整えながら、恨めしそうに前方を見た。
そこには、本物の加賀瀬に一撃を叩き込んだ直後、莫大な『天』を放った反動に耐えきれず、人形のように床に倒れ伏している「複製体の加賀瀬」の姿があった。
楼門は深く深呼吸を繰り返し、なんとか呼吸を落ち着かせた。
そして、胸元から純白のハンカチを取り出し、額の汗と鼻血を優雅に拭い取ると、再びいつもの冷徹な管理者の顔へと戻った。
楼門が、床に倒れる複製品の加賀瀬に向けて指をかざした。
その瞬間、複製品の加賀瀬は、まるでテレビのノイズが走ったかのように輪郭をブレさせると、最初からそこに存在していなかったかのように、フッと跡形もなく空間から消滅した。
「加賀瀬君!!」
吹き抜けを挟んだ向かい側の回廊から、その恐るべき光景の一部始終を見ていた松野楓が、悲鳴のような声を荒げた。
楼門が鬱陶しそうに目を横にやった、その時だった。
ギギギィッ……!!
再び、要塞全体をミシミシと揺るがす不気味な震動。そして、松野たちの遥か頭上の天井がひび割れ、巨大なコンクリートの瓦礫が彼女たちめがけて落下してくるのが見えた。
「ひッ!?」
松野が頭上からの異変に気づき、悲鳴を上げて顔を上げる。
「危ないッ!」
ドーモスが咄嗟にナランに覆いかぶさるようにして、その小さな体を抱え込んだ。
その光景を横目で見た楼門は、黙って二本の指を空中に掲げ、横へとスワイプした。
――シュッ。
松野たちを押し潰すはずだった巨大な瓦礫が、空中で『切り取られた』かのように忽然と消滅した。
助かったのか。松野が呆然とした次の瞬間。
消滅した瓦礫は、アトリウムの向かい側――気絶して横たわる加賀瀬善嗣の真上の空中へとペーストされ、そのまま凄まじい質量をもって彼の全身へと無慈悲に落下した。
ドゴォォォォンッ!!
鈍い破壊音と共に、加賀瀬の身体が重たい瓦礫の山に完全に押し潰される。
「加賀瀬君っ!!」
松野は涙を流し、今にも向かいの回廊へと駆け出しそうになった。だが、ドーモスがその細い腕をきつく掴んで引き止めた。
「いかん! 俺たちが行ったところで、あんな化け物の前では足手まといになるだけだ!」
「でも! 加賀瀬君が死んじゃう!」
制止を振り切ろうと暴れる松野に向けて、楼門が吹き抜け越しに冷たく通る声を張った。
「私の気が変わらないうちに、早くお逃げください」
楼門は、ピキピキと崩壊の音を立て始めた巨大なアトリウムの頭上を、ぐるりと見渡した。
「どうやら私たちは、破壊のエンティティを酷く怒らせてしまったようだ」
アルカディア本部の崩壊。徐々に崩れゆく純白の要塞。先ほどの轟音と激しい揺れが具体的に何によるものかは定かではないが、この異常事態の裏に『ファントム』の介在があるという因果関係だけは、彼の中で明瞭に繋がっていた。
「本部が崩れ落ちる前に、とっとと出ていくことをオススメしますよ」
楼門がそう促すも、松野たちはただ呆然と立ち尽くすばかりだった。
逃げようにも、先ほどの揺れで崩れ落ちてきた瓦礫の山々が、彼女たちの背後の回廊を徐々に塞ぎ始めていたのだ。下手に動けば、崩落に巻き込まれて怪我を負いかねない。
楼門は、動けない彼女たちを尻目に、再び自身が操作した瓦礫――加賀瀬が下敷きになっている場所へと冷酷な顔を向けた。
「念には念を、ですね」
楼門は追い打ちと言わんばかりに、空中で指を掴んで落とす動作を繰り返した。
アトリウムの崩壊で落下してくる周囲の瓦礫が、次々と軌道を変え、加賀瀬の横たわる場所へと雨あられのように落下していく。
凄まじい土煙が舞い上がり、加賀瀬の姿は完全に瓦礫の墓標の下へと消えた。
「…………」
楼門は、舞い上がる土煙をじっと見つめていた。
やがて、その整った眉間に、深い皺が寄る。
「……笑えてきますね、まったく」
楼門が自嘲気味にそう呟いたのも無理はなかった。
土煙が晴れゆく中、瓦礫の山からズリ……ズリ……と、一つの『人影』が這い出てきたからだ。
額は割れ、学ランは血と埃に塗れ、立っているのも不思議なほどボロボロの身体。だが、その男――加賀瀬善嗣は、執念の炎だけを瞳に燃やし、必死に二足で立ち上がって見せたのだ。




