037 オフィスワーク・弐
「お前、どうして……ここにいる。それに、なんでナランを……」
様々な疑念が、加賀瀬の脳内を埋めつくす。
松野は震える足で一歩、加賀瀬の方へ歩み寄り、その問いに答えた。
「ぜ、全部話すと長くなっちゃうんだけど……わ、私は人の記憶を読み取る能力があって、それで、楼門部長の指示でナランちゃんたちの記憶を探ってたんだ……」
「記憶を、読み取れるのか?」
加賀瀬は眉をひそめた。この気弱なクラスメイトが、組織の尋問官のような真似をさせられていたことに驚きを隠せなかった。
「うん……。それで、ナランちゃんとドーモスさんの記憶を読み取った時、加賀瀬君の姿が見えたの」
「俺が?」
「うん……」
松野は言葉を探すように視線を泳がせたのち、ぎゅっと両手を胸の前で握りしめた。
「それで、まあ、えーとその……」
彼女は一度視線を落としたが、すぐに顔を上げ、強い意志を込めた瞳で加賀瀬を見つめ返した。
「アルカディアの人は、加賀瀬君は悪いやつで、組織の反逆者だって言ってた。でも、記憶の中の二人はただ貧しい街で身を寄せ合って生きてるだけだったし……加賀瀬君が、命懸けでこの子たちを守ろうとしてたのが、記憶から痛いぐらい伝わってきたの」
加賀瀬は息を呑んだ。
「だから……アルカディアの言ってる『正義』が、どうしても信じられなくなっちゃって。……私、この子たちを助けなきゃって、思ったの」
松野の行動原理は、ただその純粋な思い一つだった。
彼女の説明によれば、本部のシステムがハッキングされ『セキュリティプロトコル2』が発動した時、彼女はたまたまナランが隔離されている『第十八医務室』に居合わせたらしい。
サイレンが鳴り響き、同室していた他の職員たちが慌てて退避していく中、彼女は一人その部屋に残った。そして、眠らされていたナランを無理やり起こし、身を守るための武器として、部屋の隅にあった一番重たい酸素ボンベを抱え上げて、無謀にも脱出を試みたのだという。
「加賀瀬君とドーモスさんが、あの人たちに襲われてるのが見えて……足がすくんだけど、でも、やるしかないって……!」
松野は、血のついた酸素ボンベをチラリと見て、再びガクガクと震え出した。人を殴った恐怖が、今更になって足元から湧いてきたのだろう。
加賀瀬は、そんな彼女の小柄な身体をじっと見つめた。
非戦闘員の、しかも気弱な女子高生が、プロの能力者を背後から殴り倒す。それがどれほどの恐怖と覚悟を伴うものか、痛いほど理解できた。
「……そっか」
加賀瀬は、殺気立っていた空気をフッと緩め、短く息を吐いた。
「……助かったぜ、松野」
「……えへへ」
加賀瀬の不器用な感謝の言葉に、松野は少しだけ安堵したように、泣き笑いのような表情を浮かべた。
「おい、話してるところ悪いが」
ドーモスが、ナランをしっかりと抱き抱えたまま、険しい顔で加賀瀬に声をかけた。
「さっさとここから出るぞ。この馬鹿どもがいつ目を覚ますかわからんし、他の追手が来るのも時間の問題だ」
「ああ、わかってる」
加賀瀬は気を取り直し、油断なく周囲の回廊を見渡した。
「松野、お前も一緒に来い。アルカディアを裏切ったのがバレたら、お前もタダじゃ済まねえだろ」
「う、うん……!」
松野が力強く頷く。
ひとまずの危機を乗り越えた四人。だが、ここは敵地のど真ん中であることに変わりはない。
「で、ここからどうやって出るんだ?」
ドーモスがナランを腕の中で庇いながら尋ねる。
「どこでもドアみたいなやつがどこかにあるんだ。それを探す」
加賀瀬が端的に答えた。楼門に連れてこられた時に通った、あの不気味な赤い扉のことだ。
「空間転移の扉、だね」
松野が、横から小さく補足した。
「知ってるのか?」
「うん。各階層に『ドアルーム』っていう専用の部屋があるから、そこに行けば外へ出られるはず……」
しかし、解決策を提示したはずの松野の声は、ひどく気弱に震えていた。
「でも、その部屋のドアを開けるには、幹部クラスの権限を持ったIDがないと……そもそも部屋には入れないんだ」
その絶望的な事実に、場に重苦しい沈黙が走る。
その沈黙を力強く破ったのは、加賀瀬だった。
「どうにかなるかもしれねえ」
「というと?」
ドーモスが、疑わしげに首をかしげる。
「ハッキングだ」
加賀瀬が短く、確信を込めて言った。
「ハッキング?」
松野も首をかしげ、目を丸くする。アルカディアの絶対的なシステムがハッキングされるなど、彼女の常識ではあり得ないことだったからだ。
「よくわからねえが、俺達には他に協力者がいる。今、この本部のシステムをハッキングして、セキュリティをぐちゃぐちゃにしてる奴らだ。そいつらが、さっきも俺のために開かないはずのドアを開けてくれた」
「え、そうなの?」
松野が驚きの声を上げる。
「いつの間にそんな心強い味方を手に入れたんだ、小僧」
ドーモスが、少しだけ希望が見えたのか、皮肉っぽく笑った。
「……いや」
加賀瀬は渋い顔をして、ゆっくりと首を横に振った。
「正直、俺もよくわからん」
加賀瀬の脳裏には、面談室のドアを開け、あの妖艶で底知れない笑みを浮かべていた教育課の女――華矢の姿が思い浮かんでいた。
なぜ彼女が手引きをしてくれるのか。その目的が何なのか。罠の可能性も十二分にある。
「でも今は、この混乱に乗じるほかねぇ。あいつらがシステムを弄ってる間なら、ドアルームのロックだって突破できるはずだ」
「そうだね」
松野がこくりと頷くと、ドーモスも真剣な顔で頷いた。
「お兄ちゃん」
と、その時。ドーモスの腕の中にいたナランが、小さな手を伸ばして加賀瀬の学ランの袖をきゅっと掴んだ。
「ん?」
加賀瀬は鋭い目つきを和らげ、その場に片膝をついて腰を下ろし、ナランと目線を合わせた。
「怪我、してるよ……」
ナランは、加賀瀬の頬の擦り傷や、服が焦げて赤く腫れ上がっている腕を、自身の小さな手でそっと触れようとした。
「痛くない? 大丈夫……?」
不安そうに眉を下げ、純粋に自分の身を案じてくれる幼子の温もりに、加賀瀬は思わず毒気を抜かれたような笑みをこぼした。
「……へっちゃらだ」
加賀瀬は、血と煤で汚れた大きな手で、ナランの小さな頭をぽんぽんと優しく撫でた。
「こんなの、擦り傷みたいなもんだ。お前が無事なら、それでいい」
強がる加賀瀬の言葉に、ナランはまだ少し心配そうな顔を見せていたが、やがて安心したように小さくコクリと頷いた。
加賀瀬は立ち上がり、気合を入れ直すように首を鳴らした。
「そのドアルームってとこ、場所はわかるか?」
加賀瀬が松野に尋ねる。
「うん。この第五階層なら、東ブロックの突き当たりにあるはず」
松野は丸眼鏡の位置を直し、強く頷くと、私についてきてと言わんばかりに一歩前に出た。
「じいさん」
加賀瀬がドーモスに目を向ける。
「大丈夫だ、ついていける」
ドーモスはナランをしっかりと胸に抱きかかえ直し、老骨に鞭打って力強く答えた。
「無茶するなよ」
加賀瀬善嗣、ドーモス、ナラン。そして思いがけない協力者となった松野楓。
四人は足早に、まだ見ぬ脱出口である「ドアルーム」を目指して、再びアルカディアの純白の回廊へと駆け出した。




