036 オフィスワーク・壱
やがて周囲の景色が微かに変化していることに気がついた。
無機質な純白の壁は変わらないが、等間隔に並ぶドアの横には『第一医務室』『第二医務室』といったプレートが掲げられ始めていた。
(医務室……! 医療区画に入ったか!)
だが、そのほとんどのドアは固く閉ざされたままで、開く気配は一切ない。
焦りが募る中、加賀瀬の視界にある異常が飛び込んできた。
ズラリと並ぶ閉鎖されたドアの中で、ただ一つ。
『第八医務室』と記されたプレートの横のドアだけが、ぽつりと不自然に開け放たれていたのだ。
(罠か?)
加賀瀬は迷うことなく床を蹴り、その部屋の中へと猛然と飛び込んだ。
「だから! なんでドアが勝手に開いたんだって聞いてるんだよ!」
「知らないわよ! 貴方が変なところを弄ったんじゃないの!?」
部屋に飛び込んだ加賀瀬の耳に最初に飛び込んできたのは、ひどく場違いな怒声だった。
白衣を着た男女のアルカディア職員二人が、開いたままのドアの操作パネルの前で、唾を飛ばし合いながら口論している。
そして、彼らの傍らにある白いベッドには――。
(……じいさん!)
点滴を打たれ、静かに眠るドーモスの姿があった。
「大体、こんな緊急事態にドアが開けっぱなしだなんて――」
怒声をぶつけ合っていた二人は、背後から飛び込んできた荒々しい足音と、ただならぬ殺気にようやく気がついた。
ゆっくりと振り返った二人の視線の先には、制服を焦がし、拳を血に染め、肩で息をしながら鬼のような形相で睨みつけてくる加賀瀬の姿があった。
「…………」
「…………」
白衣の二人は、完全に目を丸くして言葉を失った。口論の熱など一瞬で冷め、カチコチに固まっている。
「……退け」
加賀瀬が地を這うような低い声で唸り、ギリッと右の拳を構えた、その瞬間。
「ぼ、僕らは非戦闘職員だ!」
「ぼ、暴力反対ですぅ!」
男は両手をバザッと高く上げ、女は涙目で叫んだ。
そして二人は、加賀瀬との戦闘など微塵も考えることなく、見事なシンクロ率で両手を上げたまま、脱兎のごとく部屋から逃げ出していった。
パタパタパタッ、と情けない足音が遠ざかっていく。
「……」
完全に毒気を抜かれた加賀瀬は構えを解くと、すぐさま部屋の奥、ドーモスが寝かされているベッドへと駆け寄った。
「おい、おっさん! しっかりしろ! 大丈夫か!?」
加賀瀬はドーモスの肩を揺さぶった。
規則正しい寝息は聞こえるが、目を覚ます気配はない。どうやら強い睡眠薬か何かで強制的に眠らされているようだった。
加賀瀬はドーモスが無事であることにひとまず安堵の息を漏らしたが、すぐに鋭い視線で部屋の隅々を見渡した。
「……ナランが、いねえ」
病室にはベッドが一つしかなく、あの幼い少女の姿はどこにもなかった。
「じいさん! 起きろ!」
加賀瀬は声を張り上げ、ドーモスの肩をさらに強く揺さぶった。だが、老人は深い眠りの底に沈んだままで、一向に目覚める気配がない。
「くそっ、ここから逃げるぞ!」
焦燥感に駆られた加賀瀬は、ドーモスの皺の刻まれた頬をピシャピシャと軽く叩き続けた。
薬効を無理やり意識で打ち破らせるように、何度も、何度も。
やがて――。
「……ん、ぅ……」
ドーモスの喉の奥から微かな呻き声が漏れ、重く閉ざされていた瞼が、接着剤を引き剥がすようにゆっくりと開いた。
「じいさん!」
視界が白く霞み、まだ焦点の合っていないドーモスは、目を細めながら掠れた声で口を開いた。
「……どう、なってる」
スラムの自宅にいたはずが、なぜこんな眩しい無機質な部屋で寝ているのか。現状を全く理解できていない老人の顔に、深い困惑が浮かぶ。
「助けに来た」
加賀瀬が簡潔に告げる。
だが、ドーモスはいまだ薬の作用で頭に靄がかかったように朦朧としていた。
「……なん、だ……お前は……」
「俺だ! じいさん、しっかりしてくれ! ここから逃げるんだ!」
耳元で叫ばれる力強い声に、ドーモスの意識が急速に覚醒へと向かっていく。
瞬きを繰り返し、ぼやけていた視界の先に、傷だらけの黒い学ランを着た少年の顔がはっきりと結像した。
「……何が、どうなってる?」
「ここは奴らの本拠地だ。とにかく今は逃げよう! 動けるか?」
ドーモスは加賀瀬の言葉を聞きながら、何回も瞬きをし、ゆっくりと周囲の真っ白な病室を見渡した。
そして、己の身体に意識を向けた瞬間、彼は信じられないものに気づいた。
「……怪我が、治ってる」
ドーモスは、自身の上半身――特に右肩から胸にかけて、確認するように撫で回した。
あの時、カワチの自宅を襲撃してきた怪力男の鉄球が直撃したはずだ。骨は砕け、内臓までひしゃげ、間違いなく死を覚悟した致命傷。それが、痛みはおろか、傷痕一つ残さずにすべて完治している。アルカディアの治癒能力者たちによる、常軌を逸した医療技術の結果だ。
だが、自身の身体の完治を喜ぶよりも先に。
ドーモスは不意に最も大切な記憶を思い出したかのように、カッと目を見開いた。
「ナランは!?」
彼は弾かれたように加賀瀬の腕をきつく掴み、血走った目で問うた。
「わからねえ。この部屋にはいない。……これから探すんだ」
「……ッ!」
その答えを聞いたドーモスは、一切の躊躇いもなく、自身の腕に繋がれていた点滴の針をブチッと乱暴に引き抜いた。
血が滲むのも構わず、彼はゆっくりと、だが力強く上体を起こす。
長時間の昏睡と薬のせいか、やや息切れした様子だったが、その瞳に宿る光は、あのスラムで加賀瀬たちを匿った時の頑固な老医のそれに戻っていた。
「ナランを見つけよう」
ドーモスが覚悟の決まった低い声でそう言うと、加賀瀬は力強く頷いた。
「ああ」
加賀瀬は手を差し伸べた。ドーモスはその手をしっかりと掴み、軋むベッドから床へと立ち上がった。
「動けるか?」
加賀瀬が心配そうに問う。
「問題ない」
ドーモスは少しだけ強張る片膝をさすりながら、短く答えた。
第八医務室を出た加賀瀬は、左右の白い回廊へ鋭い視線を走らせ、周囲に追手がいないか素早く確認した。
システムダウンの影響か、あるいは先ほどの空流との戦闘で別動隊が警戒しているのか、今のところ誰かが追ってくる気配はなかった。
遅れて廊下に出たドーモスに、加賀瀬は小声で告げる。
「この辺のどっかの部屋に、ナランがいるはずなんだ」
「根拠は?」
「……よくわかんねー奴が教えてくれた」
「なんだそれは? 根拠もまるでないじゃないか」
ドーモスの眉間の皺が深くなる。敵の巣窟で得た出所不明の情報を信じるなど、スラム街を生きてきた老人からすれば自殺行為に等しい。
だが、加賀瀬は真剣な顔でドーモスへと向き直った。
「実際、アンタはここにいたからな」
「…………」
ドーモスはそれ以上反論できず、訝しむように顔をしかめるに留めた。罠の可能性は高いが、今はその不確かな蜘蛛の糸に縋るしかない。
「こっちだ!」
加賀瀬は、空流を倒してやってきた道とは逆の方向――大吹き抜けのさらに奥の区画を指し示し、再び駆け出した。
ドーモスも必死にその後を追う。だが、元々の脚力の差に加え、長期間の昏睡から目覚めたばかりの老体では、加賀瀬のスピードに到底追いつけるはずもなかった。
足音が遅れていることに気づいた加賀瀬は、すぐにスピードを緩めて振り返った。
「大丈夫か?」
駆け寄ろうとする加賀瀬を、ドーモスは荒い息を吐きながら手で力強く振り払った。
「心配するな! ちゃんとついていく!」
直後だった。
「――んぐッ!?」
加賀瀬とドーモスの身体が、突如として目に見えない巨大な鉄板に押し潰されたように、無残にも床へ叩きつけられた。
「がはッ……!」
ドーモスが肺の空気を吐き出して呻く。
加賀瀬もまた、床に顔面を擦りつけながら必死に腕を立てようとした。だが、上がらない。まるで重力がこの場所だけ数倍に跳ね上がったかのように、あるいは見えない巨人にのしかかられているかのような、異常な圧力が二人を床に縛り付けていた。
「こいつらが、侵入者二人?」
不意に、パンッ! と風船ガムを割るような音と共に、軽薄な女の声が頭上から降ってきた。
「片方は噂の加賀瀬善嗣だろう。もう片方は知らん、誰だ?」
続いて、女の反対側から、感情の起伏が全く感じられない低い男の声が響く。
床に縫い付けられながら、加賀瀬はギリリと首だけを動かして声の主を睨んだ。
加賀瀬とドーモスを挟み込むように、純白の制服を着たアルカディア職員の男女が立っていた。
金髪をボーイッシュなショートに刈り込んだ女は、再び風船ガムを膨らませながら、右手を加賀瀬たちの方へ突き出していた。手のひらを下に向け、虚空を強く押さえつけるようなその動作が、この異常な『圧力』の正体であることを物語っている。
アルカディア本部・戦闘対策室の喜紺。
「そのままで地べた舐めてな」
喜紺がニタニタと笑いながら右手をさらに押し下げると、加賀瀬たちの身体にかかる圧力が一段と増した。
そして反対側。
細いフレームの黒ぶち眼鏡を深く掛け直し、七三分けの髪型をきっちりと整えた長身の男――同じく戦闘対策室の翠白が、倒れる二人を虫けらのように見下ろしていた。
翠白は、ぶっきらぼうな動作で制服の袖を無造作に捲り上げた。
露わになった色白の前腕。だが、次の瞬間、その腕の皮膚が波打ち、グチョリ……と不快な音を立てて変形し始めた。
「……なッ」
加賀瀬の目が驚愕に見開かれる。
翠白の両腕が、人間の骨格を完全に無視して肥大化し、白と灰色が混ざった光沢のある『無数の触手』の集合体へと変貌を遂げたのだ。蛇の群れのようにうねるそれは、純白のアルカディアの施設にはあまりにも似つかわしくない、おぞましい生体兵器だった。
その異形な腕を見た喜紺が、心底嫌そうに顔をしかめた。
「相変わらず、気持ち悪いわね」
「聞き捨てならんな」
翠白は眼鏡の奥の目を細め、自身の触手を愛おしそうに撫でた。
「あの方から賜ったこの力に無礼な言葉を放つのは、寿命を縮めるだけだぞ?」
誰かに対する狂信めいた言葉を口にしながら、翠白はうねる触手を引きずり、身動きの取れない加賀瀬の方へゆっくりと歩み寄っていく。
「さっさと終わらせるぞ」
翠白の触手が、加賀瀬のもとへ伸びていく。
避けられない。重圧で指一本動かない。
(くそッ……!)
加賀瀬が絶望の淵で歯を食いしばった、その時だ。
――ガゴンッ!!
突如、重く鈍い金属音が廊下に響き渡った。
「……あ?」
翠白が不審に思い、前方に立っていた喜紺の方へと目を向ける。
そこには、信じられない光景があった。
先ほどまで余裕の笑みを浮かべていた喜紺が、白目を剥きながらぐらりと前方に倒れ掛かっていたのだ。
ドサッ、と喜紺が床に倒れ伏す。
その背後に立っていたのは、医療用の酸素ボンベを、両手で必死に抱え上げた小柄な眼鏡の女だった。
そして、その女の制服の裾を、小さな幼子がぎゅっと握りしめて隠れている。
「――ッ!?」
翠白の無表情な顔に、初めて明らかな動揺が走った。非戦闘員が、まさか背後から物理的な奇襲を仕掛けてくるなど、彼の常識の範疇外だったのだ。
だが、その一瞬の動揺――喜紺が気絶し、能力が解除されたことによる「重圧の消失」というコンマ一秒の隙を、加賀瀬が見逃すはずがなかった。
「オラァッ!!」
床に押さえつけていた不可解な力から解放された加賀瀬は、バネのように即座に跳ね起きた。
そして、翠白が触手を振り下ろすよりも早く、一息で『天』を吸い込み、その懐へと超速で踏み込んだ。
右拳に『地』を集中させる。対象の内部から粉砕する魔斬の業。
「しまッ――」
翠白が防御の姿勢をとろうとした時には、加賀瀬の必殺の右ストレートが、彼の鳩尾に深く突き刺さっていた。
「――ッ!!」
圧縮された衝撃波が、翠白の腹部を貫通して背中側へと爆発的に抜ける。
「ガ、はァァァァァッ!?」
翠白は衝撃に耐えきれず、そのまま後方へと数十メートル吹き飛んだ。彼のおぞましい触手の両腕は、空中で意識を失うと共に徐々に元の人間の腕へと戻っていき、そのまま壁に激突して喜紺同様に気絶した。
廊下に、静寂が戻った。
加賀瀬は拳を振り抜き、すぐさま喜紺が倒れた方――酸素ボンベを持った女の方へと目を向けた。
「……!?」
重圧から解放され、やっとの思いで起き上がったドーモスもまた、そちらに目を向けた。
そして、信じられないものを見るように目を瞠る。
「ナラン!!」
彼が絞り出すように叫ぶと、眼鏡の女の傍らに隠れていた少女が、ひまわりのような満面の笑みを浮かべて飛び出してきた。
「おじいちゃん!!」
少女――ナランは、小さな足で一直線にドーモスへと駆け寄り、その胸に思い切り飛び込んで強く抱き着いた。
「おお、ナラン……! 無事だったか……!」
ドーモスは痛む身体も忘れ、愛する孫娘を強く、強く抱きしめ返した。
加賀瀬は、涙を流して抱き合う二人を一瞥して短く安堵の息をついたのち、すぐさま酸素ボンベを持ったままブルブルと震えている眼鏡の女へと鋭い顔を向けた。
「……お前」
加賀瀬は目を細めた。
アルカディアの純白の制服。だが、その顔には見覚えがあった。
女は、凶器となった重たい酸素ボンベを「ひぃっ」とゆっくり床に下ろすと、ガクガクと震える手で、ズレた丸眼鏡を掛けなおした。
「か、加賀瀬君……」
怯えたような、小動物のような声。
「……松野か?」
そう、その女は――かつて同じ教室で窓の外を眺めていたクラスメイト、松野楓だった。




