032 黒雷・弐
アルカディア本部の第七階層に位置するドアルーム。
カワチの赤い電話ボックスから転移してきた麗香たちは、無数の同じような扉が壁沿いにズラリと並ぶ異様な室内へと降り立った。
周囲を警戒するように見渡すトウフに対し、麗香は「さっさと来い」と言わんばかりに顎で出入り口を示した。
ドアルームの出口に立つ錬暖は、麗香の無言の圧を察し、この部屋の施錠を解除しようと手首のIDチップをセンサーにかざした。
だが、重厚なスライドドアはぴくりともしないどころか、開錠を意味する電子音さえ鳴らなかった。
「……ん?」
首をかしげる錬暖に、麗香が背後から低い声で脅す。
「下手なことはしないようにね」
「そんなことするわけないでしょう」
錬暖は少しムキになってひたすらにIDをかざすが、ドアは一向に開かない。
彼らは知る由もなかった。たった今、アルカディア本部のメインフレームが謎のハッカーによって制圧され、あらゆる電子制御システムがエラーを引き起こしている最中だということを。
「故障か……?」
その事実を知らない錬暖は、額に汗を浮かべて首を傾げるばかりだった。
一方で、トウフは数多ある赤い扉の一つのドアノブを開こうと、興味本位で手を伸ばしていた。
「迂闊に触るんじゃないよ」
「ひっ」
麗香に鋭く注意されたトウフは、ビクッと肩をすくめ、そそくさと手を戻した。
「なんだい? 開かないのかい?」
「どうやらそのようです……」
「どうして?」
「私にもさっぱり。このようなことは初めてなので……」
錬暖が言い訳がましく答えた、その時だった。
――ピピッ。
不意に、ロック解除の電子音が鳴った。
そして、出口のドアが重々しい音を立てて、独りでにスライドして開かれたのだ。
「……反応が悪かったのか?」
自問する錬暖を、麗香は少々訝しむように、そして周囲の気配を探るように細めた目で睨んでいた。
一行は開かれたドアを跨ぎ、本部の純白の廊下へと出た。
だが、そこですぐさま異様な光景を目の当たりにすることになる。
「……なっ」
錬暖が息を呑んだ。
広々とした廊下のあちこちに、数名のアルカディア職員が糸の切れた人形のように倒れていたのだ。外傷はない。まるで深い眠りに落ちているかのようだ。
「なんだこれは……」
麗香とトウフもまた、思わず目を見開いた。
「みんな、気絶してるのか……?」
「…………」
錬暖はすぐさま振り返り、麗香へと疑いの目を向けた。お前の仕業か、と。
だが、麗香は静かに首を横に振った。
「私は何にもしてないよ」
淡々と述べる麗香に、錬暖は唾を深く呑み込んだ。
「異常事態だ……」
先ほどのドアの不調といい、滅多に起きない出来事が重なりすぎている。錬暖は極度の警戒心を纏いつつ、恐る恐る廊下へ一歩を踏み出した。
その時――。
「悪いね。お前の役目はここでお終いだ」
背後から響いた冷酷な宣告と同時。
錬暖の視界が、ぐにゃりと歪んだ。
「……ぇ?」
急激な眩暈。地面が傾き、天井が回り出す。ぼんやりと霞んでいく意識の中、最後まで立とうと抗いながら、錬暖は自身の身に何が起きたか理解していた。
背後に立つ女が、自分を「処理」したのだと。
「ふ……ざける、なっ……」
錬暖は、ニヤリと笑う麗香を恨めしそうに睨みつけながら、膝から崩れ落ち、そのまま床に突っ伏して意識を手放した。
麗香はピクピクと痙攣する錬暖を見下ろしながら口を開く。
「そういや、お前はまだ『翻弄頭』を使えないんだっけか?」
「使えませんよ……。というより、あんな悪魔みたいな技使えるのは、師匠と、師匠の師匠だけだと思いますけど……」
「便利な業だけどねぇ」
「相手の体内に直接『天』を注ぎ込んで脳神経をショートさせるなんて――それがどれだけ異常なことか」
「まだコツを教えてなかったっけ?」
「教えてもらったんですけど、ボクには繊細すぎて諦めました……」
熊のような巨体を丸めて肩を落とすトウフに、麗香は鼻で笑った。
その時、廊下の天井に設置された薄型のスピーカーから、無機質な機械音声が鳴り響いた。
『館内緊急事態発生、館内緊急事態発生――現在内部システム機能が一時的にダウン中、内部システム機能が一時的にダウン中――』
ビーッ、ビーッというけたたましいアラート音。
そして、そこに男の肉声が強引に割って入ってきた。
『あ、あっ――マイクテスト。管理部の楼門です。皆さん、どうか慌てずに、落ち着いてください』
それは、常に余裕を崩さない楼門にしては珍しく、微かな焦燥を帯びた声だった。
『現在、アルカディア本部は何者かのハッキング攻撃を受けています。一部の機能は独立回線で回復させていますが、いたちごっこのようです。……そして、復旧した一部の監視映像を確認していますが、どうやら館内に二名の侵入者がいるようです。戦闘許可登録職員の中で動ける者は、直ちに五階フロアの東ドアルーム周辺へ急行してください。そのほかの職員は、直ちにセキュリティプロトコル2を遂行してください。繰り返します、これは訓練ではありません』
麗香とトウフは、廊下の隅々に設置された監視カメラの赤いランプを見上げた。
「……どうします?」
トウフが太い腕を組みながら尋ねる。
「作戦通りにいく」
「作戦通りって、ボク、作戦なんて聞いてないんですけど!?」
「とりあえず、お前は黙ってついてこい」
「作戦ぐらい教えてくれたっていいじゃないですか!?」
戸惑う弟子に、麗香はイライラと舌打ちを鳴らした。
「私もよくわからん!」
「ど、どういうことなんですか……?」
「……『指定されたブツに、このシールを貼れ』って言われてるだけだ」
麗香はチャイナドレスの深いスリットの懐から、一枚の小さなシールを取り出し、トウフに見せた。
それは、ぐるぐるとした『うずまき』を模した、毒々しいほどに鮮やかな『桃色』のシールだった。
「一体、誰にそんなこと頼まれたんです!? というか指定のブツってなんですか!? そのシールは一体全体なんなんですか!?」
「もう今回限りだよ。あいつの面倒事に巻き込まれるのはね」
麗香は忌々しげにそう吐き捨てると、シールを懐にしまい直し、白の回廊を蹴って走り出した。
「あ、待ってくださいよ!」
トウフもすかさず後を追う。
第七階層の廊下を疾走する二人の前に、やがて放送を聞きつけて駆けつけたアルカディア職員たちの姿が現れた。
彼らは誰しもが、厳しい訓練を積んだ能力者だった。ある者は武器を構え、ある者は掌から魔那の光を放とうと、麗香たちへ殺到してくる。
だが、麗香は顔色一つ変えずに、走りながら即座に『翻弄頭』を展開した。
――バタッ、バタバタッ。
目に見えない「天」の波紋が空間を駆け抜けるたび、純白の制服たちが次々と白目を剥いて倒れ込んでいく。
平然とそんな荒業をやってのける師匠の背中を見ながら、トウフは内心で、
(やっぱりこの人、化け物だ……)
と、恐れおののいていた。
それはトウフだけではない。他のアルカディア職員たちもまた、その異様な光景に完全に心を折られていた。敵を視認出来ていてもなお、攻撃を仕掛ける勇気が湧かないのだ。無理もない。謎の長身の女が無表情で駆け抜けていく度に、屈強な仲間たちが触れられもせずに続々と倒れていくのだから。
「腰抜けは放っておいて構わないさ」
麗香は、戦意を喪失して壁際にへばりつく職員たちを無視し、後を追いかけるトウフにそう言った。
直後――。
チリッ……!
前方から、致死量の殺意を孕んだ『黒い雷』が、自身の顔面めがけて一直線に飛んでくるのを、麗香の肌が本能的に察知した。
「おっと」
麗香は走る勢いを殺さず、首だけをわずかに横へずらした。
バチィィィンッ!!
槍状に圧縮された高密度の黒い雷撃が、麗香の頬を掠め、後方の壁を深々と抉り取った。
「うおっ!?」
後ろにいたトウフも驚きながらも、巨体に似合わぬ敏捷さで身を横に寄せてそれを避け切っていた。
だが、雷撃はそれだけではなかった。
二つ、三つ、四つと、空間を切り裂きながら次々と黒い槍が飛んでくる。麗香は踊るようにひらりひらりと華麗に躱す一方で、トウフは「うおぉっ!」とオーバー気味に跳ねたり、スライディングしたりして必死に回避した。
麗香が前方を凝視する。
長い純白の廊下の先。
黒いパンツスーツに身を包み、顔の右半分を痛々しい医療用包帯で覆った女が、静かに待ち構えていた。
女は、全身に黒い電気を纏っているかの如く――パチパチと黒光りする火花を散らし、姿勢を低く構えると、
――フッ、と姿を消した。
否。
彼女はまるでロケットのように、一直線上にスタートダッシュを決めたのだ。常人の域を遥かに超えた、雷鳴のような速度で麗香たちとの間合いをゼロにする。
気づけば、女は空中で鋭いキックの構えを成し、麗香の右側頭部を捉えていた。
「速いねぇ」
だが、麗香の漆黒の瞳は、その超速の蹴りを完全に見据えていた。
女の素早い飛び蹴りを、麗香は上体を反らすだけでいとも簡単に避けると、バックステップを踏んで後ろへと飛び退き、トウフの横へと着地した。
トウフもすかさず足を止め、構えをとる。
女が、音もなく床に降り立った。
全身に黒い稲妻を纏い、ただ一人で空間を制圧するほどの尋常ならざる魔那を放つ姿。
上層階の司令室からいち早く駆けつけてきた組織の暗殺者。
そう、彼女は――絢風だ。




