第95話『融解凝固』
(なんで戻ってきたんだ。俺に構わず、自由に生きてくれ……!)
止まった世界の中で、クロノスの心臓は早鐘を打っていた。だがその直後、限界を超えた脳に激痛が走り、鼻から血が零れ落ちる。薄黄色の瞳から光が失われ、時間が再び動き出した。
「クッソ……限界か……」
クロノスは血を吐くように呼吸を繰り返していた。そんな彼を、フリムの細い腕が、慈しむように強く抱きしめる。
「クロノス、大丈夫……私がついてるから。だから、もうこんなことやめて、一緒に、最初からやり直そう?」
「やり直すことなんて、あるわけないだろ……!」
クロノスはフリムを振り払おうと、ひび割れた声で叫んだ。彼女を光の中に帰すため、モロスの元に残ると決めたクロノス。彼女の温もりと真っ直ぐな言葉に触れるたび、その決意が激しく揺らぎ、崩れそうになる。
「邪魔をするな! これが俺の選んだ、俺の……人生なんだ!」
「クロノスは本当は優しくて、誰よりも人を想える人。そんなあなたが、私を殺さなかった。お願い、もう一度だけ私を見て……目を覚まして、クロノス!」
「黙れ……黙れェッ!!」
心が悲鳴を上げる。クロノスは、これ以上心が折れてしまわないよう、防衛本能のままに能力を暴走させた。抱きしめてくるフリムの体と自分自身の体を、分かちがたく一つの氷塊に閉じ込め始める。
「お前が邪魔をするなら、容赦はしない。このまま凍り続ければ、体は砕け散る。それでもいいのか?」
至近距離で見つめ合うフリムの瞳に、怯えの色など微塵もなかった。氷の冷たさに肌を痛めながらも、彼女は愛おしいものを見るように微笑む。
「別にいいよ。クロノスが根を上げるまで、私はここを動かない。あなたが独りで死ぬつもりなら、私も一緒に凍ってあげるから」
「……っ、お前は……どこまで、馬鹿なんだ!!」
歯を食いしばるクロノスの瞳から、熱いものが滲み始める。氷の中で、二人の体温が、せめぎ合うように混ざり合っていく。
(フリムお願いだ……俺から離れてくれ)
その時、意識を取り戻したバルドがふらつきながらも立ち上がった。その姿を視界に捉えたフリムが、氷の中から絞り出すように叫ぶ。
「行って! あなたには、まだやるべきことがあるはず……!! ここは、あたしに任せて!!」
一瞬の沈黙。バルドは氷の中で対峙する二人を見て、その異様な空気の真意を悟ったのか、短く頷いた。彼はそのまま影の中へと消えていく。
凍てつく氷の檻の中、世界は二人だけの熱を小さく感じ取っていた。
「……ふふ。これで、二人きりだね」
フリムの屈託のない、慈愛に満ちた笑顔。それはクロノスが暗闇の中で何度も思い返し、守りたいと願った、あの日のフリムそのものだった。
「知るか……さっさと離れろ」
「こうやって、よく冗談言い合ったよね。観覧車に乗ったり、お店を出禁になったり。クロノス、アイスを食べただけで三日間も下痢になってたよね」
フリムの瞳に、堪えきれない涙が溢れ出した。思い出の一片一片が、氷を溶かす灯火のように灯っていく。
「こうして数えると、クロノスとの思い出、いっぱいある。私を助けてくれたあの日……あれも全部、嘘だったの?」
クロノスは、張り裂けそうな胸の痛みを感じていた。彼女を突き放さなければならない、光の中へ帰さなければならない。溢れ出しそうな本音を堰き止める。クロノスは一瞬の溜めの後、震える声で残酷な嘘を吐いた。
「当たり前だ。お前の存在は、俺にとって都合が良かっただけだ」
フリムはすべてを見透かしたような、優しい微笑みを浮かべた。
「やっぱり、助けてくれたんだね。私、クロノスに言いたいことがあるの……」
フリムはさらに強くクロノスを抱きしめた。
「私ね、バニーさんもライドさんも、今でも大好き。それと同じくらい、クロノスのことも……」
フリムの瞳に、宿命を越えた強い光が宿る。
「私はずっと自由になりたかった。どんな形であれ、あんな地獄から私を自由にしてくれたのは、紛れもないクロノスだよ」
「そうじゃない!! 俺のせいで、お前は……お前の人生は……っ!」
ついにクロノスの仮面が割れ、本音が溢れ出す。フリムはそれに応えるように言葉を紡いだ。
「犯した罪も、罪悪感も、二人を殺した苦しみも消えない。でも、今は生きて、私の答えを見つけたいの。クロノスがどれだけ自分を責めても、私は一生、この二年間を忘れない。ずっとそばにいてくれて、ありがとう」
フリムは最高の笑顔を作る。それは、降り積もる絶望の雪の中で、奇跡のように咲いた一輪の花だった。その眩しさに、クロノスの心は音を立てて、崩れ始まる。
「だから、これからも――」
フリムはゆっくりとクロノスに顔を近づけて、唇が重ねた。それは冷たい氷を溶かし、運命という名の呪縛を焼き切る熱い口づけだった。クロノスは、
フリムの柔らかな温もりに己を委ねた。
何度も、何度も、失った時間を取り戻すように唇を重ね合う。
やがて氷は溶けていき、二人は自由な空気の中で深く抱きしめ合った。
クロノスは救われたような溜息をつき、優しく微笑む。
「……フリム」
その名を呼ぶ声には、もう一切の偽りも拒絶もなかった。自由になったフリムの顔が、陽だまりのようにぱぁっと明るくなる。
「クロノスってば、ほんとにキス好きだよね」
少しだけ赤くなった顔で笑うフリムを、クロノスはもう二度と離さないと誓うように、強く抱きしめ直しながら言う。
「それは、フリムのことを……」
二人が触れ合い、ようやく体温が伝わり始めかけた時だった。
「お前たちが……そのような関係であったとは、驚きだよ」
その低く冷徹な声が、幸せの余韻を無残に切り裂く。フリムが弾かれたように振り返り、その顔から急速に血の気が引いていった。
「モロス様……!!」
クロノスは反射的に立ち上がり、フリムを庇うようにしてモロスと向かい合う。空間の裂け目から現れたモロスの瞳は、射貫くような冷徹さでクロノスを捉えていた。
「クロノス。フリムは、お前が始末したのではなかったのか?」
「……っ! は、はい。しかし、息があったようで……今、仕留めようと……」
言葉を絞り出そうとした瞬間、クロノスの視界に血しぶきが飛ぶ。モロスが動いた、そう認識できた時には、すでに手遅れだった。
目にも止まらに速さで放たれた手が、フリムの胸の中央を、無慈悲に貫いていた。
「え……?」
フリムの口から、小さな声が漏れ、大量の血を吐く。
「かっ……!!」
フリムは糸が切れた人形のように崩れ落ちる。クロノスはフリムを抱きとめ、動揺を隠せない。何が起きたのか理解できないまま、フリムの瞳から急速に光が失われていく。
「フリム……? おい、フリム!!」
手のひらに伝わるのは、先ほどまでの熱ではない。溢れ出す鮮血の生温かさと、急速に失われていく命の鼓動。
「嘘だろ……目を開けてくれ! フリム! しっかりしてくれ、頼む、頼むから起きてくれ!!」
何度も、何度もその名前を叫び、冷たくなっていく彼女の体を揺さぶる。だが、フリムの瞳が再びクロノスを映すことはなかった。つい数秒前まで「これからも一緒に」と笑っていた唇は、今や言葉を紡ぐ力さえ失い、虚空を見つめたまま動かなくなった。
「ああ、ああぁぁぁぁ……ッ!!」
フリムは暗闇の中でようやく手にした唯一の光。彼女を守るためにすべてを投げ打ってきたクロノスの眼前で、運命は残酷なまでに容易く、フリムの命を粉々に砕いた。絶望という名の氷が、温かさに満ちていたクロノスの心を内側から急激に冷やしていく。




