第96話『Dear フリム』
かつての逃避行の穏やかな夜。
「はい!! これ、いつもお礼ね!!」
きらめく街灯りの下、フリムは顔を赤らめながら、小さな箱を差し出す。クロノスが戸惑いながら箱を開けると、そこには月光を反射して輝く銀色のペンダントが入っていた。ペンダントには、観覧車の中で撮った二人の写真が収められていた。不器用に視線を外すクロノスと、太陽のように眩しく笑うフリム。
クロノスは、そのペンダントを胸に当て、深く嚙みしめるように呟く。
「ありがとう……大切にするよ」
「そんな、面と向かって言われると照れるね。えへへ……」
フリムは照れ隠しに頭をかき、はにかんだ。そんな彼女を見つめるクロノスの眼差しは、吹雪を溶かすほどに優しい。
「俺からもこれを」
クロノスが差し出したのは、あの店で見つけたフリムが欲しがっていたセーラー服とブラザーが混ざった制服だった。
「え!! これ、くれるの!? 高かったんじゃ……」
「いつものお礼だ。フリムには、いつも助けられてるからな」
その言葉が終わらないかのうちに、フリムは弾かれたようにクロノスに飛びついた。フリムは力いっぱい抱きしめ、勢い余ってクロノスはよろける。
「ありがとう!! これ、一生大事にするね!! 汚さないように、毎日拝んじゃうんだから!」
「ちゃんと着てくれ。これからも、よろしくな」
「こっちこそ! 私たちは不滅のフリノスだもんね!!」
「なんだよ、それ……」
おかしな造語に、クロノスからふっと笑みが漏れる。クロノスはフリムの細い腰をゆっくりと引き寄せると、珍しく自分から、彼女に唇をそっと重ねた。
驚いて目を見開いたフリムだったが、すぐに幸せそうに目を閉じ、その温もりに応える。
名前のない関係、先の見えない明日。けれど、この瞬間だけは、世界で二人だけが真実だった。クロノスは彼女の背中に手を回し、二人はただ、愛おしそうに笑い合った。
フリムに渡した、純白と藍色が混じる真新しい制服。あの日、フリムから受け取った二人の思い出が刻まれた銀のペンダント。
今、その美しい制服は、フリムの胸から溢れ出す血に染まり、赤色の制服に変わっていた。クロノスの胸元で揺れるペンダントには、フリムの温もりを感じる血の飛沫がこびりつき、写真の中の二人の笑顔を無慈悲に塗り潰していた。
「あ、ああ……あぁぁぁぁぁ……ッ!!」
モロスは腹の底から湧き上がるような、狂気じみた笑い声を上げる。
「ッはッはッはッはは!! 愉快、実に見事だクロノス! お前もそんな風に泣けるのだな! いいぞ、もっと泣け! もっと惨めに叫べ!」
「モ、モロス様……なぜ……どうして、このようなことを……」
涙と鼻水が溢れ、クロノスは這いつくばるように問う。モロスはその姿を、臭い生ゴミでも見るような、蔑んだ目で見下ろした。
「ここ数日のお前の言動は妙だったからな。私に隠し事をし、フリムと傷を舐め合っていたとはな。驚いたよ……。これは、私を欺こうとした、お前への相応の罰だ」
モロスの笑いが、一瞬で凍りつくような殺意へと転じる。
「お前も結局、人間であり、どうしようもなく一人で生きることのできないゴミなんだな」
「き、期待に応えられず……申し訳……ございません」
あまりの恐怖と絶望に、クロノスはフリムの亡骸を抱いたまま、額を下げる。抗う術など、最初から持っていなかった。
「……いいんだ。もう駒など信用しておらん。これからは私が直接動く。それに――」
モロスが指を鳴らした。
「フリムは、まだ死んではいない」
「え……?」
クロノスが顔を上げた瞬間、悪夢が霧散するように、フリムを染めていた血が消え、貫かれたはずの胸元が元の制服に戻っていく。彼女はただ、深い眠りについているだけだった。
「すべては私の幻影だ。ここの空間ごと、お前の脳を現実に錯覚させていたのだよ。私自身も驚きだ。二十年でここまで飛躍できたのだからな。それに、この南の混沌の石もある。私に敵などおらん」
モロスの掌で、黒く禍々しい石が光り、不気味に脈動する。
「お前のみじめな姿が見られて、実に見物だったよ。さてお前も、フリムも、ここで消してやろう」
絶対的な力を前に、クロノスは本能的な恐怖に支配され、地に伏したまま震える声で縋りつく。
「モロス様、もう一度……どうか、ご慈悲を……! どんな命令でも聞きます、今度こそ、必ず任務を遂行します……! だから、どうか……っ!」
フリムの命を弄ばれ、その亡骸を見せつけられた後でさえ、クロノスは呪縛から逃れることができなかった。
モロスは、獲物が罠にかかった瞬間を見逃さず、不敵な笑みを浮かべる。
「そうだな。お前には長く世話になった。いいだろう……ならば、最初に担保としてフリムだけは助けてやるとしよう」
「ほ、本当ですか……!?」
絶望の底で、クロノスの瞳に縋るような光が宿る。モロスはその期待を嘲笑うように、ゆっくりと深く頷いた。
「ああ。だが、タダというわけにはいかない。条件は二つ。リリアを私の元へ連れてくること。そして、リリアを助けようとする連中を一人残らず殺せ。リリアとの約束はあの研究所で果たした。もう守る必要はあるまい」
クロノスの脳裏は、フリムのことしかなかった。彼の理性をモロスによって徐々に蝕まれていく。
「連中を始末し、リリアを連れ帰れば、お前も解放してやろう。リリアの洗脳の対象からも外してやる。……どうだ、悪くない話だろう?」
「モ、モロス様……! 本当に、ありがとうございます!! ありがとうございます!!」
クロノスは何度も頭を下げた。頬を伝う涙は、もはや悲しみではなく、理不尽な救済への歪んだ歓喜であった。自らの意志で立ち上がる決意は、モロスの圧倒的な支配の前では、塵に等しかった。
(フリムは……フリムだけは絶対に助かるんだ!! あいつらを殺して、有川莉々愛を差し出しさえすれば、俺は、フリムと……)
今のクロノスにはそれが唯一の正解に思えた。極限状態の彼には、モロスが「なぜそんな甘い条件を出すのか」という疑念を抱く余裕すら奪われていた。
「だが、忘れるな。失敗したらどうなるか、すべては完遂してからだ。何としてでも殺せ」
モロスが空間を無造作に切り裂き、意識を失ったままのフリムをその亀裂へと投げ入れる。
「私は戻って起動の準備を始める。フルアも計画通り、レアマシーへ向けて侵攻中だ。当初の予定とは多少異なるが……ここで、人間どもを一気に蹂躙してやる」
空間の裂け目が閉じる直前、意識を取り戻したフリムが、境界線の向こう側にいるクロノスを視界に捉えた。
「クロノス!! 一体何が……」
混乱と恐怖に震えるフリムの声。彼女は床を蹴り、クロノスの元へ駆け戻ろうと必死に手を伸ばす。だが、無慈悲な時空の切れ目は、無情にもその距離を広げていく。
「フリム、そこにいてくれ。……必ず、迎えに行くから」
「嫌だ、私も一緒に! クロノス!!」
フリムの絶叫が空間を震わせる。
(絶対にもう迷わない。俺はフリムと一緒にやり直したい。あいつのそばで幸せな人生を見届けるんだ。そのためなら、何だってしてやる。それに、俺は……)
クロノスは自らの退路を断つように、微笑みながらその言葉を口にした。
「フリム、愛してるよ……」
その六文字が、冷たい風に乗ってフリムの耳に届く。それは、世に溢れる定義のどれにも当てはまらない、地獄の中で育まれた二人だけの特別な色彩を帯びた言葉。
二人にしかわからない特別な六文字。
二十二年間、兵器として、モノとして、世界を憎み続けてきたクロノスに、ただ一人の人間としての体温を教え、凍りついた感情を溶かしてくれた唯一の光。フリムがいたから、クロノスでいられた。彼女が笑うから、この呪わしい世界がほんの少しだけ美しく見えた。
一度も言えなかった、言えばすべてが壊れてしまうと恐れていた言葉。それが、永遠の別れを告げる葬送の鐘のように響いた。
「――っ! クロノス……!」
フリムの伸ばした指先が、あと数センチというところで空間は閉じ、空を切る。残されたフリムは、冷たい床に崩れ落ち、ただ一人、震える声で絞り出す。
「クロノス……なんで? もう嫌だよ……」
一方、クロノスは、表情を殺し、ただ静かに氷の城へと視線を向けた。モロスがにたりと笑い、空間の裂け目へと消えていく。
「すぐにリリアを艦隊へ連れてこい。そのあとは、好きにしろ」
静寂が戻った戦場。クロノスは再び、血に汚れたモロスの右腕として仮面を被る。フリムが命をかけて溶かしてくれたはずの心は、今や皮肉にも、彼女を救うための最悪の刃へと凍らされた。それはただ彼女を想う優しい心。
(フリム、絶対に二人でまた出掛けような。笑って楽しかったあの時みたいに。これからの俺たち、フリムの幸せがいつまでも続きますように……)
クロノスは地を蹴った。光を見つけたはずだった。人間として生きる道を見つけたはずだった。だが、運命という名の巨大な怪物は、そのささやかな希望をあざ笑い、理不尽にも彼を再び地獄の深淵へと突き落とす。




