第94話『最初で最後の恩返し』
朝の光がホテルのカーテンの隙間から差し込み、乱れたシーツと、寄り添い合う二人を照らし出していた。
昨夜の激しい熱の余韻が残る中、クロノスは先に目を覚まし、隣で安らかな寝息を立てるフリムを見つめる。クロノスが指先でのフリムの髪をなぞると、フリムが重い瞼を持ち上げ、クロノスを見つめた。
「……どうしたの? クロノス」
まだ眠気の残る、少し掠れたフリムの甘い声。
「フリム。お前は、今……幸せか?」
その問いに、フリムは裸のままシーツを跳ね除け、ベッドの上に飛び起きる。
「クロノスとモロス様がいれば、私はこの世界がどうなってもいい!! それくらい幸せだよ!!」
迷いのない、真っ直ぐな言葉。クロノスは安らかな笑みを浮かべた。
(そうか。今のままがフリムにとっての幸せなのか……)
クロノスは再びフリムの手を引き、その細い腰を抱き寄せてベッドへと沈み込ませた。重なり合う肌の滑らかさと、再び高まっていく互いの熱。
「お前に声をかけて……本当によかった。おかげで俺も、初めて幸せだと思ったよ」
耳元で囁かれたその言葉に、フリムは顔を寄せ、ニヤついた。
「ふふ……昨日からなんか、クロノスらしくないね。でも、そんな風に素を見せてくれるの、すっごく嬉しいかも……」
照れ隠しの言葉をフリムはキスで塞ぎ、二人は微笑み合う。
ノルウェー ヤンマイエン島
凍てつく極北の地では、現地にいた人間は殺され代わりにモロスの生み出した実体ある幻影がその場で人間として世間を欺いていた。その地下は不気味なアジトが広がっている。
任務を終えたクロノスが、異様な重圧が立ち込める場所へと足を踏み入れた。
「モロス様、こちらは順調ですか?」
暗がりに佇むモロスは、何らかの巨大な機械の調整を続けながら、答える。
「ああ。手探りだった19年間だが、ようやく『修理』が終わる。あとは、繋がらない通信さえどうにかなれば、この汚らわしい地球の連中に復讐を遂げ、我が故郷へと捧げられる」
「我が故郷とは、一体?」
「気にするな、お前が知る必要のない話だ」
モロスは冷たく遮ると、射貫くような視線を向けた。
「それより、何か用があって来たのではないのか?」
クロノスは一瞬躊躇したが、昨夜フリムと分かち合ったあの温かな営みの余韻を信じ、勇気を出して言葉を紡ぐ。
「モロス様……もしよろしければ、フリムと三人で、食事でもいかがでしょうか? フリムも……」
次の瞬間、爆発的な殺気と共に、モロスの怒号が響く。
「ふざけるなッ!!」
モロスの顔は怒りに歪み、その眼は血走っていた。
「私は、貴様らとままごと遊びをするために側に置いているのではないぞ!!」
クロノスは反射的に床に膝をつき、額を冷たいコンクリートに擦りつけた。
「申し訳ありません。少しでも、お心が安らげればと……」
「安らぎだと?」
モロスは冷酷な表情を浮かべ、土下座するクロノスの頭に靴を乗せた。そして、逃げ場のない頭を蹂躙するように、じりじりと体重を乗せて踏みにじる。
「私の悲願が達成されるその日まで、この世に安らぎなど存在せん! 勘違いするな、貴様らは必要だから側に置いている存在に過ぎない! 戯れるためでも、家族ごっこをするためでもない!」
モロスはクロノスの顔面を無慈悲に蹴り飛ばした。
「忘れるな。逃げたり、裏切れば即座に殺す。たとえ、それがフリムであったとしてもだ」
「……っ!」
背筋を凍てつかせるような死の宣告。クロノスは震えを抑えることができず、地べたを這いずることしかできなかった。
モロスは狂気じみた苛立ちをぶつけるように、天を仰いで絶叫する。
「ああぁぁぁぁ!! 何度考えても虫酸が走る! なぜあいつが英雄視されている!? あいつは、裏切った大罪人だ! 殺されてしかるべきなのだ!!」
その圧倒的な支配力と、長い年月を経てもなお煮え滾るような底知れない憎悪。クロノスは痛む顔を抑えながら、確信した。
(そうだ。俺が浮かれていたんだ。この方は人間の営みなど求めていない。俺たちは、ただの駒。頼むから、何も起きないでくれ。平穏に、ただモロス様の悲願が成就すれば、俺もフリムも幸せなままでいられるはずなんだ)
しかし、運命の歯車はクロノスの願いを嘲笑うように狂い始めていた。計画は順調であるものの、駒であるはずの者たちが次々と裏切り、逃亡していくく。
「低脳どもが、なぜ逆らう!!」
激怒し、周囲の空間さえも捻じ曲げるような殺意を放つモロス。
「クロノス、お前は裏切らないだろうな?」
「決してそのようなことは致しません。私はあなたに救われたのですから」
クロノスは不吉で強烈な胸騒ぎを必死に押し殺していた。
そして、運命の日。
フルアでの任務を終えたフリムを迎えに行ったクロノス。しかし、目に飛び込んできたのは、裏切り者であるバニーとライドをその手にかけたフリムのあまりに悲惨な姿だった。フリムは膝から崩れ落ち、自らの髪をむしり、狂ったように頭を地面に打ち付けていた。
「うわぁぁぁぁぁ!!!!!!」
今までのフリムからは想像もできない、罪悪感に焼き尽くされた絶望の叫び。心臓を氷の棘で刺されたような、最悪の予感。
(頼む、フリム。笑ってくれ。いつものように、冗談を言ってくれ……)
縋るような思いで歩み寄り、彼女の言葉を封じるように唇を奪った。互いの熱を確認し合えば、元に戻れると信じて。逃げ場を失わせるほど深く、激しく、強引に舌を絡める。だが、返ってきたのはかつての熱ではなく、拒絶だった。
「クロノス……やめて。今、そんな気分じゃないの」
突き放されたクロノスが見たのは、見たこともないほどの怪訝そうなフリムの瞳。
「……記憶が、戻ったのか」
クロノスは冷静さを装い、わざと冷たく乾いた声で問いかける。
「いつもなら”抱いて”とせがんだのにな」
「うるさいッ!!」
フリムは頭を抱え、獣のように叫んだ。
「あれは……あれは、私じゃない!! 」
(フリム、頼む……嘘だと言ってくれ)
「俺にとっては、それがお前だよ。それに、モロス様に抱かれたんだろ?」
クロノスは自分の隣にずっといてくれたフリムの存在がいなくなることを恐れた。
「お前は裏切るな。必要だからな」
クロノスはフリムの額に、祈るようにゆっくりと口づけをする。そして、フリムの答えを聞くのが怖くて、逃げるようにその場を去った。一人になった瞬間、クロノスは激しく呼吸を乱した。
「はぁ、はぁ……っ、くそ……!!」
視界が歪み、膝が震える。
(もう、俺の知っているフリムじゃない……。今のあいつは、俺の隣で笑ってくれるのか?)
レアマシー エリア11の研究所内 隔離通路
クロノスは隠れてフリムとキールのやり取りをすべて見ていた。キールの言葉によって、絶望の淵にいたフリムは、希望という名の輝きを取り戻していた。
クロノスは、強く拳を握りしめる。
(だめだ、フリム。裏切れば、殺される。俺と一緒に逃げるか ……いや、無理だ。モロス様から逃げられるはずがない)
クロノスの脳裏に、かつてフリムと交わした熱、あの日の観覧車、不器用に笑い合った「人間」としての断片が走馬灯のように駆け巡る。
(もう、モロス様が描く世界にお前の幸せはないんだな。フリム、お前には幸せでいてほしい。自由で笑える人生を。そのために、俺にできることは一つしかない……)
クロノスは意を決して姿を現し、フリムの横を通り過ぎようとした。その瞬間、フリムの放った不可視の空気の手に止められる。
「……あなたを、この先へは行かせない」
クロノスは顔を歪め、苦しそうな声を漏らした。
「頼むから……殺させないでくれ」
その言葉を合図に、クロノスは無数の氷柱を撃ち出すが、フリムの展開する空気の障壁に弾かれる。クロノスの容赦のない追撃。クロノスはフリムの足を凍らせて機動力を奪い、全方位から氷柱を撃ち放つ。
「なぜ裏切った!? 」
「全部思い出したの! 昔のこと、犯してきた罪、そして……自分が人間だったこと!」
フリムは空気の壁で必死に身を護りながら、涙を流し、叫び返す。
「もう耐えられなかった。でも、キーレスト・ウォルターズが教えてくれたの。道は、希望はあるって! だから、もう間違わない……クロノス! あなたも一緒に、やり直そう!?」
「そんなこと……許されるわけないだろッ!!」
クロノスは歯を食いしばり、さらに冷気を加速させた。視界が涙で滲むのを、凍りつかせて強引に消し去る。
(フリム、お前はそれでいい。だけど、俺はお前とはいられない。二人で逃げれば確実に殺される。それなら、お前が幸せに生きて、笑って、自由になれるように、俺は最後までモロス様の側に残るよ。それが俺にできる最初で最後の恩返しだ)
フリムの不可視の空気の手が、うねりを上げてクロノスに襲いかかる。しかし、クロノスの瞳に迷いはなかった。彼は一歩も退かず、空間を凍結させる凄まじい冷気を放った。
「無駄だ、フリム」
激突の瞬間、不可視の空気の手は空中で白く結晶化し、砕け散った。防御を攻撃へと転じさせたクロノスは、フリムに接近する。
「お願い……もう、やめて……っ!」
フリムの叫びを凍らせるように、クロノスは氷を纏わせた拳を振り抜き、フリムの額を的確に打つ。衝撃と冷気が脳を揺らし、フリムの視界が急速に闇へと沈んでいく。
クロノスは力なく膝をつくフリムの手足を、氷の枷で捕らえる。
クロノスは背を向け、暗い通路の先へと歩き出した。
「まっ……て、クロノス……行かないで」
意識を失う寸前、掠れた声で縋るように呼びかけるフリム。
クロノスはその声に答えることも、振り返ることもなかった。しかし、閉ざしたはずの記憶の蓋が、制御不能な冷気のように溢れ出てくる。
脳裏に蘇るのは、午後の柔らかな光が差し込む、なんてことのない日常だった。
「ねぇ、クロノス。私たちって、いつか結婚とかするのかな?」
唐突に投げかけられた問いに、クロノスは心底面倒くさそうな顔をした。
「お前、モロス様としたいんじゃなかったのか」
フリムは「もう、分かってないな」と言いたげに頬を膨らませる。
「モロス様は、なんていうか雲の上の存在。一生に一度、最高の瞬間に抱かれればそれで満足。でもね」
フリムは、計算など一切感じさせない無防備な足取りでクロノスの懐に飛び込んだ。
「クロノスとはさ、なんかこの先もずっと、当たり前みたいに一緒にいそうな気がするんだよね。……どう思う?」
クロノスは一瞬、言葉を失った。二人の間に流れる時間は、恋人と呼ぶにはあまりに殺伐とし、相棒と呼ぶにはあまりに湿り気を帯び、夜を共にするだけの関係と割り切るには、あまりに魂の奥深くまで入り込みすぎていた。名前を付けた瞬間に、この危うくも愛おしい均衡が壊れてしまいそうなことを、二人は本能で理解していた。
「ないな。うん、絶対ない。お前を嫁にするなんて」
「ひっどーい!! まぁ、私もアンタみたいな氷男と一生添い遂げるなんて、御免だけどね!」
そう言って、二人は顔を見合わせて笑い合った。あの時、交わした視線の熱。互いの欠落を埋め合うように重ねた夜。愛だの恋だのという既存の言葉では到底収まりきらない二人の関係。
歩き続けるクロノスの視界が、一瞬だけ滲む。
「フリム……今までありがとう。さようなら」
一筋の雫が頬を伝い、足元でカランと凍りついた。それは、彼が生まれて初めて誰かを想い、誰かのために苦しんだ証。
大切なフリムの未来を守るために地獄に残ることを決めたクロノス。再び冷徹な右腕となった彼の心にあるのは、モロスへの忠誠ではなく、自由に笑うフリムの眩しすぎる笑顔。何よりも彼女を想うクロノスの優しさだった。




