第92話『救惑』
実験棟の地下には、もはや数えきれないほどの失敗作が投げ捨てられていた。累々と積み重なった子供たちの遺体は、氷のように冷たく、名前を呼ばれることもなく燃やされていく。
そんな地獄の中で、クロノスは17歳になっていた。13年間、一日も欠かさず繰り返された薬物投与、神経を焼き切るような電流、皮膚が溶ける灼熱、そして肺が潰れるほどの水責め。もはや彼にとって苦痛は刺激ですらなく、朝が来れば息をするのと同じ、ただの無機質な日常の一部に過ぎなかった。
ある実験の終わりにクロノスはいつものように檻に入れられようとした時だった。その瞳に、これまでにはなかった異変が生じる。不気味な黄色の輝き。
「おい、お前……まさか……!?」
研究員が驚愕に声を震わせる。ほどなくして、クロノスは連行された。そこにいたのは、灰色の髪を無重力のように揺らし、顔に深く横に刻まれた傷を持った、威圧感を放つ男。
「私はモロスだ。……君か。目が光ったというのは」
クロノスは光のない目で、モロスを見つめていた。モロスは不敵な笑みを浮かべ、残酷な真実を軽口で告げる。
「君はあの夫婦の息子だったな。彼らは利用し甲斐があったよ。あの夫婦以外の研究員は私の作った幻影でね、彼らの知識が幻影には必要だったからな」
両親すらも、この男の手のひらで踊らされていた駒に過ぎない。だが、その事実を聞いても、クロノスの心に波風は立たなかった。
「……何か言ったらどうだ。いい加減、話しなさい」
重苦しい沈黙の後、クロノスが自らの意志で言葉を発する。
「……どうでもいい。全部、どうでもいいんだ」
モロスはにたりと笑い、クロノスの肩を、親しげに、そして重々しく叩いた。
「それは世界など、どうでもいいということかな?」
その問いが、クロノスの心の奥底に沈んでいた感情をかき乱した。17年間、声にならずに蓄積され、圧縮され続けた世界への憎悪が、ひび割れた声となって漏れ出す。
「……全部だ。全部がどうでもいい。消えてしまえばいいんだ」
その言葉を聞いた瞬間、モロスは芝居がかった動作でゆっくりと頷き、静寂の間に響き渡るほど高らかに拍手をし始めた。
「素晴らしい……! 素晴らしいぞ、クロノス。君のような者こそ、私の隣にふさわしい」
クロノスは困惑し、初めて他者の瞳を正面から見つめた。モロスは陶酔したような表情で言葉を重ねる。
「君は選ばれ、そして私の元に来た。これは偶然ではない、運命だ。君は、私に必要な人間だ」
「僕、が……必要?」
クロノスの瞳に、奇跡でも見るかのような微かな光が宿る。17年間、実験体として、化け物として、あるいはゴミとして扱われてきた。誰からも望まれず、ただデータの蓄積のためだけに生かされてきた自分に、初めて投げかけられた「必要」という言葉。
モロスは完璧な作り笑いで、慈愛に満ちた聖者のように両手を広げた。
「当たり前だ!! 何を言っている。君のその類まれなる力を、ぜひ私のために貸してくれ!」
その瞬間、クロノスの目から大粒の涙が溢れ出した。頬を伝う涙の熱さが、死んでいたはずの感覚を呼び覚ましていく。
クロノスにとって、モロスの放つ言葉は自分を照らす光。自分をモノとしてではなく、意思を持つ「人間」として認めてくれた救世主。
(この方のためなら、なんだってやってやる。俺を認めてくれた……この人が、俺の世界のすべてだ)
モロスはクロノスの冷たい手を、優しく、包み込むように握りしめる。
「私はね、この腐ったゴミのような世界を一度終わらせ、新世界を作りたいんだ。君のように、理由もなく苦しめられてきた者たちのための世界をな」
「あなた様の目的は、私の使命です」
クロノスはその場にひざまずき、己の魂を捧げるようにこうべを垂れた。
「たとえこの命が尽きようとも、あなた様の手足となり、使命を全うします」
奇しくも、この世で最も邪悪な利用が、この世で最も孤独な少年にとっての愛にすり替わった瞬間だった。クロノスの忠誠心は、歪んだ光に焼かれながら、鉄よりも硬い鎖となった。
モロスは最高に不気味で歪んだ笑顔を浮かべる。
「素晴らしい。ならば、さっそくだが兵士を手配し、痕跡を残さず、この研究所を跡形もなく破壊しろ」
クロノスは迷いなく深く頷き、その声は狂信的な響きを帯びていた。
「はっ!!」
モロスは笑いながら、残酷な掃除の命令を淡々と続ける。
「ここが他国に露呈しては面倒だ。ここにいる子供は一人残らず殺せ。ここはあくまで初期段階の実験場に過ぎん。二つ目の能力発現の実験も君のような個体が一人いれば十分だ」
モロスは晴れやかな笑顔になる。
「それに、子供を使った長期的な発現実験は非効率だと分かった。これからはクローンと効率重視の能力発現の実験を中心に行う。私の新世界のために、その力を振るってくれ」
「仰せのままに……」
その夜、フルアに隠された極秘研究所は、紅蓮の炎に包まれる。施設内は阿鼻叫喚の地獄絵図と化した。逃げ惑う子供たち、泣き叫ぶ赤子と幻影の研究員。モロスの兵士たちが無機質に引き金を引いていく。炎が燃え盛る廊下の隅、クロノスは一人の幼い少女を壁際に追い詰める。
「やめて……お兄ちゃん、助けて……」
少女が震える手でクロノスの服の裾を掴んだ。その瞳には、かつての自分と同じ絶望が宿っていた。
だが、今のクロノスの瞳には、モロスという名の太陽しか映っていない。彼は凍てつくような冷徹な眼差しで少女を見下ろし、宣告する。
「お前は、モロス様の新世界には必要ない」
鋭利な氷のつららが少女の額を貫いた。
「あ……」
短い吐息と共に、少女の体は崩れ落ち、血の赤が氷を汚していく。叫び声は炎の爆ぜる音に飲み込まれ、命の灯火が次々と踏み消されていった。
クロノスは、無惨に転がる無数の子供達の遺体を見下ろし、自分に言い聞かせるように呟く。
「これはモロス様が下した正しいこと。力がなければ、何もできない。愛されもしない。……それが、この世界の真理だ」
燃え上がる研究所を背に歩き出すクロノスの背中には、モロスの影が憑りつているようだった。その日から、彼はモロスのため、幾つもの命を奪い、幾百の任務を完遂していった。 すべては、この世で唯一自分を認めてくれたモロスへの恩返し。
モロスの右腕となって一年。
レアマシーにある研究所は、フルアに引けを取らない絶望に満ちていた。UMHを作るのに効率重視で量産を試みるも死に絶えていく人々、そしてクローンたちが無機質なカプセルに並ぶ光景は悪夢そのもの。
用事を済ませ、静まり返った実験室の脇を通った時、 床の上で膝を抱えてうずくまる一人の少女の姿が、クロノスの足を止めさせた。
(あぁ。そうだ。俺もあんな風に……)
それはかつての自分そのものだった。感情を殺したはずの胸の奥が、わずかに疼く。クロノスは無言で歩み寄り、冷たいコンクリートの上に膝をつき、声をかけると、少女は弱々しく言葉を吐く。
「もう私、自分が誰だかもわからないの。誰も、私のことなんて見てくれない。きっと、空気と一緒。私が死んでも、誰も気にしない」
クロノスは誰も自分を人間として見てくれない地獄の日々を思い出した。クロノスは自分と同じ境遇の彼女を救いたいと思ったのか、震える手をそっと取り、手の甲にゆっくりとキスをする。
「っ……!?」
少女は驚き、手を引っ込める。クロノスは彼女の瞳をまっすぐに見つめ、かつて自分を助けてくれたモロスのように言葉を紡いだ。
「もしお前が“人間”じゃないなら、この感触はわからないはずだ。でも分かるだろう? それなら、お前はちゃんと生きてる人間だよ」
その一言に少女は救われ、瞳から涙が溢れ出す。
彼女は「フリム」と名乗り、たどたどしくもすべて打ち明けてくれた。クロノスはそれを黙って聞き届け、彼女の頭を優しく撫でる。
「実験はつらいよな。俺も最初はそうだった。でもな――“力”が得られたら、何もかも変わる」
「……力?」
フリムの濡れた瞳に、疑問の色が浮かぶ。
「そうだ。モロス様の御心に選ばれれば、お前もこの世界の“役立たず”じゃなくなる。あの方は、この腐った世界を終わらせてくれる。不公平も、苦しみも、全部だ。俺たちは、その理想の世界を築く手となるんだ」
クロノスの言葉は、絶望の底にいたフリムにとって救いだった。
「私……モロス様のために頑張る」
フリムは涙を拭い、ひまわりのような眩しい笑顔をクロノスに向ける。
「そのためなら、実験なんてへっちゃら!」
その純粋すぎる笑顔が、クロノスの凍りついた心に深く刻まれる。
あれからさらに二年が経過し、2028年。
クロノスは、レアマシーの研究所で着々と成果を上げるフリムの姿を、常に視界の隅で追っていた。クロノスはあの日の眩しすぎるフリムの笑顔が頭から離れなかった。
「モロス様、一つご提案が」
クロノスは膝をつき、最愛の主へと言葉を紡ぐ。
「研究所にフリムという少女がおります。彼女もまた、モロス様の理想のために命を賭す覚悟です。ぜひ、直属の部下としてお引き立てを」
モロスは三日月のような不気味な笑みを浮かべ、短く応じた。
「いいだろう。連れてこい」
面会は心酔するフリムがモロスに認められる結果となった。面会を終え、扉が開くと同時に、フリムは待機していたクロノスの胸へと一目散に飛び込む。
「ありがとう、クロノス。あなたのおかげで生きててよかったって思う!」
フリムの体から伝わる鼓動の速さ。腕の中にある確かな温かさ。その瞬間、モロスからもらった光とは全く異なる、形のない熱がクロノスの心の奥から溢れ出る。
「クロノス……? どうしたの?」
不思議そうに見上げるフリムの瞳に、自分でも驚くほど穏やかな、自嘲気味に笑う。
「悪い。人に感謝されるのも、抱きしめられるのも初めてだったから……」
フリムは涙を浮かべて、クロノスに笑みを浮かべる。
「それは……私もだよ」
その言葉と、彼女の潤んだ笑顔が重なった瞬間、クロノスの心臓が激しく脈打った。かつて両親から否定され、モロスに必要な存在として肯定された人生。そのどちらにもなかったものが、今、たしかに自分の中で感じられた。クロノスは震える指先で、フリムの柔らかな髪に触れる。
「なぁ、フリム……。俺と――」
「ふふ、言わなくてもいいよ」
フリムは静かに言葉を遮り、すべてを分かっているかのように優しく微笑んだ。二人は惹かれ合うように顔を寄せ、初めて唇を重ねる。最初は、触れるだけの雪が溶けるような微かな震え。けれど、互いの吐息が混じり合った瞬間、それは激しい渇望へと変わった。
冷たいコンクリート壁に囲まれた、無機質な一室。ベッドがきしむ音だけが、世界の静寂をかき乱している。
二人の間に流れるのは、研究所のような冷気ではない。それは、剥き出しの二人が放つ、猛烈なまでの熱だった。
「クロノス……」
フリムの吐息が耳元をかすめ、彼女の柔らかな肌がクロノスの冷え切った体に密着する。クロノスは、自分の中に湧き上がるこの正体不明の衝動に、激しく戸惑っていた。
モロスから与えられたのは価値であり、両親から与えられたのは苦痛だった。だが、フリムがくれるこの感覚は何なのだろうか。
「フリム……」
彼女の名前を呼ぶ声が震える。指先に伝わる彼女の震えや、重なり合う鼓動、そして互いの汗が混じり合う熱量に夢中になった。
自分はモノではない。彼女もモノではない。それを確かめるように、唇を重ね、互いの輪郭をなぞり、深く、深く混じり合っていく。
薄暗い部屋の隅、二つの孤独な魂は激しく燃え上がっていた。お互いが自身の知らないものを確かめるために。




