第91話『ウォルターズ家の不倫理』
1日前 エリア11の研究所内 隔離通路
フリムの手足は、逃げ場を失い、強固な氷の枷に囚われていた。頭部から流れる鮮血が氷を汚し、彼女の意識を遠のかせていく。
敵を手助けした裏切者であるフリム。モロスに従うならば、この場で殺すのが当然の帰結だった。
クロノスが無機質な足音を響かせ、フリムの脇を通り過ぎようとした時。
「……なんで、殺さないの?」
クロノスは足を止め、振り返ることなく、氷のように冷淡な声で答える。
「お前はもう、必要のないゴミだ。殺す価値もない」
「嘘だよ……」
フリムは痛みに耐え、絞り出すように言葉を重ねた。
「モロス様に忠誠を誓っているあなたなら……裏切り者は、その場で消すはずでしょ。なんで、私を生かしておくの?」
クロノスはその問いに、表情一つ変えなかった。ただ、一瞬だけ、橙色の髪に隠された横顔が、ひどく寂しげに見えた。クロノスは一度も視線を合わせることなく、暗い廊下の奥へと消えていく。
「まっ……て、クロノス……」
手を伸ばそうとしても氷に阻まれ、フリムの意識は深い闇へと沈んでいく。
現在
フリムは、込み上げてくる涙を堪え、一歩、また一歩と踏み出す。
クロノスは深く、重い息を吐き出すと、氷よりも冷徹な言葉をフリムに浴びせる。
「今更、何をやめろって言うんだ……。価値のないお前は引っ込んでろ」
フリムが怯まずに距離を詰めようとした瞬間、クロノスの怒声が山々に響いた。
「来るなッ!!」
凄まじい気迫に、フリムの肩がビクリと跳ねる。彼女は一度立ち止まり、溢れそうになる涙を手の甲で乱暴に拭った。そして、折れそうな心を奮い立たせるように、再びその歩みを進める。
「俺のことをわかってるなら近づくな!!」
クロノスの叫びに、フリムは迷わなかった。まっすぐにどこまでも透き通った眼差しをクロノスに向ける。
「そうね。あなたのことは、私が一番よく知ってる。……今のあなたなら、私を殺さない」
「……っ、何を根拠に!」
クロノスは、フリムによって作られた見えない空気の手に縛られ、体を必死に動かそうとする。
「どんな理由であれ、あなたは私を助けてくれた。あなたは優しいんだよ、クロノス。お願い、目を覚まして!!」
フリムが近づくその刹那、クロノスの瞳が、薄黄色へと輝く。
雪も、流れる雲も、そして目の前のフリムも、静止画のように変わった。
クロノスの視界の中で、フリムは一歩を踏み出した姿のまま時を止められていた。その頬には、零れ落ちる直前の涙が真珠のように張り付いている。
(……動け、動け……ッ!)
瞳を薄黄色に光らせ、フリムの「時」を止めているはずなのに、追い詰められているのは自分の方だった。 脳裏をよぎるのは、フリムとの日々。
(もう、決めたはずなのに。フリム、頼むからここからいなくなってくれ……)
膠着した時間の中で、瞳の光が揺らぎ始める。静寂の中で独り、クロノスは自らの心に突きつけられたフリムの優しさと、激しく対峙していた。
20年前 2010年
クロノス・ウォルターズは、わずか2歳にして、この世で初めてのUMHとなった。
その日、クロノスはベッドの上で、無邪気に指先から生み出した氷の粒を見つめていた。キラキラと輝くそれを遊び相手にしていた時、部屋に入ってきた母が凍りついたような声を出す。
「それ、どこから出したの?」
クロノスは、母親が自分に興味を持ってくれたことが嬉しくて、精一杯の力で氷の結晶を作り出し、差し出した。
「おかーさん!! あげる!」
だが、返ってきたのは称賛や歓喜ではなかった。母の唇が、見たこともないほど醜く吊り上がる。
「……これはいい材料になりそうね」
クロノスの人生はもはや最初から崩壊していたのかもしれない。
「おかーさん! おとーさん!」
冷たい鉄格子のケージに閉じ込められたクロノス。その向こう側には、血の繋がった両親が、まるで珍しい虫を観察するかのような好奇の眼差しをクロノスに向けていた。
「さっさと始めて。数値を取るのが楽しみだわ」
母の冷酷な合図と共に、ケージの下に設置された加熱装置が作動する。内部の温度は瞬く間に上昇し、ゲージの中は幼いクロノスの肌を焼く灼熱の地獄へと変わった。
「あ、つ……っ、あついよぉ!! やめてぇ!!」
泣き叫び、のたうち回る2歳児。熱に耐えかね、生存本能がクロノスの能力を強制的に暴走させる。ケージ内が急激に冷やされ、今度は氷の牙がクロノスの小さな体を傷つける。その凄惨な光景を見て、橙色髪の父、ダマス・ウォルターズは狂喜に震えながら、データを書きなぐった。
「いいぞ……いいぞ! これのポテンシャルは計り知れん!」
「ああ、ダーリン……あなたがこんなに喜んでくれるなんて。あんなモノでも、産んで正解だったわね」
水色髪の母・プリス・ウォルターズは、我が子の断末魔をBGMに、夫の肩に手を置き、恍惚とした表情で頬を赤らめる。ウォルターズ夫妻はイカれた天才科学者だった。二人はハールメス・コープに働いていたが、その逸脱した倫理観と好奇心によって周りから煙たがられ、今は個人的に、危ない研究をいくつも行っている。
そして、二人は最初から、自分たちの子供を人間として育ててはいなかった。好奇心で産み、のちに実験として使おうとしていたモルモット。愛情という言葉はそこには存在せず、実験材料がUMHという付加価値を得たことに、狂気的な喜びを見出しているだけだった。
ある日、退職したハールメス・コープから電話がかかってきた。
オーリア・ハールメスからの直々の電話。
「いまさら何用ですか?」
「今、極秘で行っているプロジェクトに参加してもらいたい。公には決して言えない人を使った実験だ。お前たちの頭脳を貸してくれ」
オーリアの焦った言葉にダマスは笑顔になり、勧誘を受けた。フルアにあるハールメスの極秘研究所へと移った二人は、一つしかない黒い禍々しい石とオリチーム、そして確認されたUMHを使い、人体実験が開始される。しかし、ウォルターズ夫妻のクロノスへの実験は日に日に激しくなっていった。
「あぁぁぁぁ!!!!」
何度も地面に叩きつけられ、電流を死なない程度に浴びせられるクロノス。
ダマスは笑いながら、のたうち回るクロノスを見る。
「なんだあれ、面白いな。いいデータが取れそうだ」
プリスは喜び、拍手をする。
「いいわ、もっと叫びなさい。そして、ダーリンを喜ばせて!!」
実験が終わるたび、鉄の檻の隅にボロ雑巾のように投げ捨てられるクロノス。
「あ……、あ……」
喉は焼け、涙すら枯れ果てた。温かい食事も、優しい言葉も、眠る前の絵本もない。与えられるのは、限界を超えた苦痛と、冷徹な観察記録だけ。
クロノスは手をかざし、何かにすがるように天井のぶら下がる光を求める。
「いた……い。いたいよ……」
わずか2歳。世界の広さを知る前に、彼は人間であることを否定され続け、それが当たり前の日常として、魂に深く、冷たく刻まれる。
あれから2年。4歳になったクロノスの瞳からは、すでに一切の光が消えていた。
「チッ、最近はデータに伸びがない。使い物にならんガラクタめ」
極秘研究所の冷たいコンクリートの上でダマスが吐き捨てるように言い、クロノスの顔面を思い切り蹴り上げる。
ドンっ!!
小さな体が紙屑のように吹き飛び、壁に激突する。クロノスは痛みに表情を変えることすらなく、糸の切れた人形のようにゆっくりと立ち上がった。
「おい、ゴミが。何か言ったらどうだ、あぁ!?」
返事がないことに苛立ったダマスは、クロノスの胸ぐらを掴み上げ、何度も拳を叩き込む。クロノスの唇が切れ、血が床を汚すが、クロノスはただ空虚な目で父を見つめ返した。
「俺が上からどれだけ怒られると思っている! お前のせいなんだぞ、わかるか!?」
「なんで、こんなことするの?」
初めて漏らした疑問に、ダマスは歪んだ優越感を顔に浮かべ、あざ笑うように答えた。
「ここはな、お前のような人間を人工的に作ると同時に、二つ目の力を与えてやる神聖な場所なんだよ。ガキしかいないこの研究所で、俺が何をしようが自由だ。これは実験であり、教育であり、神聖な儀式なんだよ!」
ダマスは投げ捨てたクロノスに向かって唾を吐き、さらに屈辱を与えるように尿をかける。
「ゴミはゴミらしく、俺に感謝しながら死んでいけ」
その瞬間だった。 感情が死んでいたはずのクロノスの指先が微かに震え、部屋中の温度が絶対零度まで急落した。
「……消えちゃえ」
ダマスの体は、驚愕の表情を浮かべたまま巨大な氷塊へと閉じ込められた。
翌朝、氷から救出されたダマスは、すでに細胞の一つ一つが死滅した冷たい肉塊に成り果てていた。夫の無惨な死体を目にしたプリスは、狂ったような悲鳴を上げる。
「い、いやぁぁぁぁぁぁ!!!!!!!」
檻の中にいたクロノスは引きずり出された。プリスは形相を変え、クロノスの橙色の髪を力任せに掴み、思い切り引っ張る。
「何してくれたのよ!! 聞いてんのか人殺し!!」
クロノスは無言だった。髪を引き抜かれようと、顔に唾を吐きかけられようと、ただ暗い穴のような瞳で母を見つめていた。その無機質な視線が、プリスの狂気をさらに加速させる。
「死ね!!死ね!! 許さないからな!! 私の愛しのダーリンを、よくも……よくもォ!!」
狂乱するプリスを研究員たちが引き剥がした。それ以来、プリスがクロノスの前に姿を現すことはなかった。彼女は夫を失った喪失感を埋めるためなのか、別の棟で男を漁っていたのか、1年後には新たな命を身籠ったという。
だが、クロノスにとってはそんなことはどうでもいい。父を殺しても、母に呪われても、実験が辛かろうとクロノスは何も感じていなかった。
「僕、は……なんな、の……」
愛を知らず、人生も希望も、感情や痛覚すらも失った彼に残されたのは、自分という存在を否定し続ける世界への、漠然とした消えることのない漆黒の憎悪だけだった。




