第90話『冷え切った心』
吹雪が吹き荒れるストールシュテインフェレの頂上。視界を遮る白銀の闇の中で、クロノスは冷徹な言葉を放った。
「何度も言うが、彼女は自らこちら側に来たんだ。お前らが来ることは望んでない。それが、彼女の選んだ結末だ」
「そうだとしても、納得できない。リリアさんは僕が助けるんだ」
キールは冷静でありながら、その言葉には強い熱が込められていた。
クロノスは深い溜息をつく。その手の中で、冷気が結晶化し、氷の剣を形成する。
「話が噛み合ってないな。来るなら殺す、それだけだ」
クロノスの瞳が薄黄色に輝き、その視線が二人を捉えようとした瞬間、キールが動いた。
「バルドさん、今です!」
キールは地面めがけて猛烈な勢いで水を噴射させる。噴き上がった水は雪と混ざり合い、一瞬にして巨大な霧の幕となってクロノスの視界を遮断する。
(能力がバレている?)
クロノスは驚きながらも、即座に霧を突破しようと地を蹴った。
(だとしても、この幕さえ抜ければ……!)
しかし、霧の幕を抜けた先でクロノスを待っていたのは、キールでもバルドでもなく、足元に広がる底なしの闇だった。
「なっ……!?」
バルドの能力で影の空間が、落とし穴のようにクロノスを待ち構えていた。一瞬の隙をつき、キールは全速力で氷の城へと走り出す。
「レスト、リリアを頼んだぞ!!」
バルドの声が響き、キールは氷の城へと進んでいく。
だが、クロノスは常人ではなかった。影に完全に呑み込まれる寸前、彼は自らの周囲を冷気で凍てつかせ、影の拘束を強引に解き、這い出ようとした。
「行かせないと言ったはずだぞ!!」
凄まじい執念で出てこようとするクロノス。これまでバルドの影から自力で脱出した者は一人もいなかった。バルドはその異常な強さに覚悟を決めて、クロノスにとびかかる。
「これ以上あいつらの蜜月を邪魔するな!」
バルドは自らも影へと飛び込み、クロノスを道連れにする形で一気に山の麓まで転移した。
麓に放り出されたクロノスは苛立ち、バルドを睨みつける。
「邪魔さえしなければ、命までは取らないと言っているのに……なぜ、これほどまでに話が分からない」
「俺たちも諦めが悪いんだ。リリアは必ず助け出す!!」
バルドの全身を、意志を持つ影が覆い尽くしていく。それは、かつてキールとリリアと戦った時のファントムフォルムと言うべきか。影の鎧を纏ったバルドが、不敵な笑みを浮かべてクロノスを挑発した。
「父の弔いでもある。これであんたに勝てるよ」
クロノスは焦燥に駆られた。彼の瞳が不気味な薄黄色に輝く。クロノスは視界に入ったものの時間を止める能力と氷を操る能力、2つを駆使して戦っている。彼の前に現れた敵は対応することもなく屠られてきた。
今回も例外ではない。
クロノスは時間を止め、吸い込まれるような速度でバルドの首元へ氷の剣を突き立てる。
勝負は決したはずだった。
だが、バルドの体が影のように蠢き、氷の剣を紙一重で回避した。逆に、影を纏ったバルドの拳が、クロノスの顔面を正面から捉え、殴り飛ばす。
「っ……がぁぁ!!!」
雪原を転がるクロノス。あってはならないことが起きた。バルドは追撃の手を緩めず、影から影へと転移しながら、クロノスの腹部に凄まじい連撃を叩き込む。
「はぁ、はぁ……ッ! なぜだ……なぜ動ける。何をした!」
困惑するクロノスは、反射的に足元の地面を滑らかな氷へと変え、バルドの踏み込みを奪い、滑らせる。その刹那、氷の礫を弾丸のように連射する。礫はバルドの影の鎧に突き刺さり、そこを起点に爆発的な冷気が噴出する。バルドの全身を瞬く間凍らせて、動きを封じた。
身動きが取れなくなったバルドに、クロノスがゆっくりと歩み寄る。その瞳には、底知れぬ驚嘆が宿っていた。
「……そうか、そういうことか。俺自身ですら気づいていなかったことをお前が先に気づくとは、やはり侮れんな」
氷漬けのまま、バルドは皮肉げに鼻を鳴らした。
「もっと、自分の能力と向き合うんだな。ニニィの話を聞いたときにもしかしたらと思ってな。あんたの時間停止は、視認した人間にしか効かない。ニニィを止められなかったのも、あんたの脳が、俺たちを人間じゃなく無機物や影の塊だと認識してるからだ」
「……そうらしいな。助かったよ、死ぬ前に弱点を教えてくれて」
クロノスの目が冷酷に細まる。彼は氷の剣を捨て、剥き出しの拳でバルドを何度も、何度も殴りつけた。氷の侵食によって影の操作が鈍り、バルドの意識は朦朧となっていく。
(くっそ。やはり手練れには、すぐにばれたか。このままだと俺がまずい)
バルドの影の鎧が、霧のように霧散していく。意識が薄れ、顔を上げることができないバルド。その首筋に氷の剣が、無慈悲に突きつけられた。
「最後に聞きたい。お前の親……オーリアはどうだった?」
バルドはその意図を測りかねたが、薄れゆく意識を繋ぎ止め、静かに答える。
「……いい親ではなかった。だが、最後には和解できた。それでいい」
「あんなゴミクズなのに、和解なんてできるんだな」
クロノスは吐き捨てるように言った。
「それに……俺が憎くないのか? お前の父を殺し、お前をここまで追い詰めたこの俺が」
バルドは、力なく笑った。その瞳は、復讐に燃える者のそれではなく、すべてを見透かしたような深い光が宿っていた。
「なんだ、モロスと違って人間らしいんだな。それにわざわざ殴るなんて、らしくないんじゃないか?」
クロノスが大きく目を見開いた。動揺が、氷のような無表情をわずかに崩す。バルドは逃さず、さらに言葉を重ねた。
「俺はあんたを恨んじゃいない。そういうのはもう、やめにしたんだ」
「……お前も、キーレスト・ウォルターズにあてられたのか」
バルドはまっすぐな眼差しで笑って答えた。
「そうかもな……」
クロノスは逃げるように視線を逸らし、再び氷の剣を振りかざした。
しかし、剣が振り下ろされる寸前――。
パリン!!
氷の刃が何かに弾かれたように砕け散った。バルドを凍らせていた氷も砕け、その場に崩れ落ち、気を失う。クロノスは何かに縛られたように身動きが取れなくなった。
「クロノス!!」
雪原に響いたその声に、クロノスは弾かれたように振り向く。そこには、包帯を頭に巻いたフリムが立っていた。セーラー服とブレザーが混ざった制服に、膝丈のコートを羽織っただけの格好。吹き荒れる雪の中、コートの裾から伸びる白い生足が痛々しいほど赤くなっていたが、彼女は寒さなど感じていないかのようにクロノスを見つめていた。
「フリム……なぜ、ここに……」
「もう、こんなことやめよ!?」
フリムの叫びが、氷の山に木霊する。この地までクロノスを止めるために追いかけてきたフリム。フリムの存在が、冷え切ったクロノスの心を激しく揺さぶっていた。




