第89話『帰趨収斂』
「うっ…………あ……」
サイラスは重い瞼をゆっくりと開く。定まらない焦点が徐々に鮮明になっていき、自分を覗き込む二つの影が映り込んだ。
白銀の髪を持つロボット少女と白色のフワフワな毛並みをした犬。
「ニニィ? ワイスなのか……?」
その掠れた呟きを聞いた瞬間、ニニィの緑色の瞳がパッと輝き、顔じゅうに喜びが溢れ出る。
「やった!! サイラスさん、戻ったんだね! お帰りなさい!」
ワイスもまた、狂喜乱舞するようにその場でクルクルと回り、高らかに吠える。
「ワンッ! ワンッ!!」
「何が、どうなっているんだ。なんでお前たちがここに? 俺は研究所にいたはずだが……」
サイラスは混乱しながら上半身を起こし、周囲を見渡した。そこにあったのは、深い森と静まり返った湖だけだった。記憶の断片を必死に手繰り寄せようと、サイラスはこめかみを押さえる。
「たしか、リリアが来て……」
サイラスは必死に記憶を辿ろうとする。
「その後のことが……クソ、思い出せない」
苦悩に顔を歪めるサイラスを見て、ニニィはそっとサイラスの手に、自らの小さな手を添えた。
「……全部説明するね、サイラスさん。少し長くなるけど、聞いて」
ニニィは丁寧に言葉を紡ぎ始めた。リリアのこと、サイラスが操られていた事実。モロスの存在、研究所で起きた激戦、そして今、この世界が直面している過酷な現実。
サイラスは少しの間、言葉を失ったが、やがて体に力を込めゆっくりと立ち上がる。
「そうか……世界はそこまで。フルアの元首がモロスだったから、UMHである俺を側近にしたのも頷けるな」
サイラスは自らの拳を、骨が軋むほどの力で握りしめた。その拳に宿るのは、自分の不甲斐なさと、大切な人々を弄んだ悪意への烈火の如き怒りだった。
「リリアを……。そしてティアーラたちまでも戦火に巻き込んだ、すべての元凶。何としてでも止めないとな」
激しい怒りに身を焦がすサイラスを、ニニィが不安げに見つめ、袖をそっと引いた。ワイスもサイラスをじっと見つめている。
「サイラスさん、大丈夫? もしダメなら……」
その言葉を遮るように、サイラスは手をニニィとワイスの頭に優しく乗せ、撫でた。その手つきは、慈しみに満ちた頼もしいサイラスそのものだった。
「分かってるよ、ニニィ、ワイス。今すぐキーレストたちと合流して、リリアを助け出そう!!」
その力強い宣言に、ニニィの瞳に希望の火が灯った。隣にいたワイスも、その決意に応えるように白色の毛並みを逆立たせ吠える。
「うん!!」
「ワン!!」
湖畔に並び立つ三人は今、一つの意志のもとに結ばれた。
三つの影は走り出す。この狂った世界の歯車を真っ向から叩き潰すために。
霧の街、ロンドン。その一角にあるイギリス政府の重厚な石造りの施設内では、一人の女性の運命、そして世界の行く末を左右する緊迫した交渉が行われていた。
国際犯として拘束されているイオラ。彼女の釈放を勝ち取るため、エノクとヘイスは冷徹な官僚と対峙していた。
エノクはデスクに端末を置き、キールから託されたデータをホログラムで展開する。
「これらの人体実験のデータ及びフルアとハールメス・コープのやりとり、資金や物資の流れを見ていただければ明白です。これらはすべて彼女の冤罪を証明するだけでなく、フルアとレアマシーの摩擦を加速させた引き金を引いた真犯人の決定的な証拠となります」
立ち会ったイギリス政府の官僚は、不快そうに眉をひそめ、冷ややかな視線をエノクに投げた。
「……話にならん。出所不明のデータを持ち込み、我々の判断を覆せと? 一体、君たちは国連の誰の差し金で動いている」
エノクは微動だにせず、懐から一通のデジタル証明書を提示した。それはノックスが表向きに利用している身分だった。
「我々は国際連合の特使として、現在進行中の人道危機調査のために派遣されています。これ以上の身分証明が必要ですか?」
「特使……だと?」
官僚の顔色がわずかに変わる。彼は吐き捨てるように鼻を鳴らすと、詳細を確認するために無言で席を立ち、奥の部屋へと消えていった。
残されたヘイスが、不安を隠せない様子でエノクに耳打ちする。
「エノクさん、本当に大丈夫なんですか? あんな重要なデータを安易に渡して。それに明らかに疑われてますよね」
エノクはヘイスの心配を消すように、微かな笑みを浮かべた。
「大丈夫です。イギリス政府もそこまでバカじゃないはずですし、それに強い後ろ盾もいますから」
その頃、施設の廊下ではジグルドが私用の暗号化ラインで電話を終えようとしていた。
「――そういうことだ。貸し一つにしておいてやるから、お前からも大統領に彼女の釈放とUMHと戦争について進言してくれ。ああ、頼むぞ」
電話を切ったジグルドは、深く息を吐きながらエノクたちの元へ合流した。
「あいつには話をつけてきた。で、そっちはどうだった?」
ジグルドの問いに、エノクは苦々しい表情を浮かべる。
「証拠を提出して理解はしてくれましたが、あちらはまだ不服のようです。『これだけでは不十分だ、真犯人の現在地を特定しろ』と」
ジグルドが重苦しい溜息をついた。
「……そう簡単にはいかないか。だが、確実にイオラの釈放、そして戦争の歯止めには近づいているはずだ」
その時、それまで静かに状況を見守っていたヘイスが、意を決したように手を挙げる。
「あの~エノク君と話してたんですが……こういうのが効果的なんじゃ?」
ヘイスが口にしたその提案を聞いた瞬間、ジグルドの顔色が変わった。彼は猛烈な勢いで首を横に振る。
「冗談じゃない。そんなことをすれば、世界が再び混乱に陥るぞ」
だが、ヘイスの瞳には一切の迷いはなく、珍しく強い語気で食い下がる。
「今だって世界は十分に混乱しています。それに、この混乱を好機として動いている国が必ずあるはず。そこにこの策を講じれば、否応なしに世界中の目が真実へ向くことになります」
エノクもまた、ヘイスの言葉を補強するように一歩前へ出た。
「危険ですが、最悪な現状を考えると一番効果的ですよジグルドさん。これこそがモロスを追い込む、唯一にして最強の一手ですよ。これしかありません」
イオラを救い出し、世界を正常な軌道へ戻したいと願う真っ直ぐな眼差し。その覚悟に圧倒されるように、ジグルドは天を仰ぎ、観念したように肩の力を抜いた。
「はぁ、反論する余地もないな。分かった、今すぐ準備にかかるぞ」
ジグルドは鋭い目つきを取り戻すと、二人に指示を飛ばした。
「至急キーレスト君たちにも連絡を! 彼らの動きとこの策を完璧に同期させるんだ」
「はい!!」
「了解です!!」
二人の力強い返事が、冷たい政府施設の廊下に響き渡る。
ノルウェー ナルヴィクにそびえる最高峰ストールシュテインフェレの頂
降るはずのない猛吹雪が視界を白く塗り潰す。キールはヘイスからの通信を受けていた。
「分かりました、ヘイスさん。では……」
通信を切ったキールの視界の先、雪煙の向こう側に、それはそびえ立っていた。周囲の山々を圧するほど巨大な氷の城。それは、全ての侵入も拒むような孤独な威厳を放ち、禍々しくも、結晶の輝きを纏った透き通るような美しさも備えていた。まるで、外界の汚れを一切許さぬ冷徹な神が築き上げた孤城のようだった。
その城の正門、キールたちの行く手を遮るように、一つの人影が佇んでいる。
「……ッ!」
キールとバルドの間に、緊張の糸が張り詰めた。
「この先に、行くなら容赦はしないぞ」
低く、温度のない声が吹雪を割って響く。クロノスの橙色の髪が激しい風になびき、年季の入った薄汚れたモッズコートがバタバタと翻る。その足元からは、触れるものすべてを死に誘うような冷気が、陽炎のように立ち上っていた。
キールとバルドは息を呑み、一歩も引かずにクロノスを凝視する。かつて自分たちを一瞬で氷の彫像へと変えた強者。だが、不思議なことに今のクロノスからは、あの時のような殺気は感じられない。ただ、絶対に越えさせないという、静かで強固な拒絶の意志だけがそこにあった。
「リリアさんを返せ……」
吹き荒れる吹雪の中、氷の城の門番と、リリアを救うために戻った二人。運命が再び交差する。この白銀の地を赤く染めるのか、それとも閉ざされた心すらも溶かすのか。
ストールシュテインフェレの頂で、激闘の幕が静かに上がろうとしていた。




