第88話『サンライズ』
ニニィは意識の中で震えるようなワイスの声が聞こえる。
『ワイス……?』
現実の世界では、ワイスが上空から降りて、普段の姿に戻っていた。ワイスは、動かぬニニィの顔を必死に舐め意識を呼び戻そうとする。しかし反応はない。ワイスはすぐさま「シードックスタイル」へと姿を変え、冷たい湖の底に沈んだニニィのパーツを、一つ、また一つと咥えて運び上げる。
湖畔にパーツが揃い、最後の一つを運び終えて水面に顔を出した瞬間だった。
「この化け犬が……ッ! 殺してやる!!」
そこには、怒り狂ったサイラスが立ちふさがっていた。アザラシの姿をした無防備なワイスを、サイラスの腕が掴み上げる。
ドゴォッ!
鈍い音が響き、ワイスの腹部にサイラスの拳が深々とめり込んだ。
「キャンッ……!!」
一撃、また一撃。逃れられない拘束の中で、サイラスは私怨を晴らすかのように、ワイスの柔らかい腹部へ容赦のない打撃を叩き込み続ける。衝撃のたびにワイスは悲鳴をあげ、元の犬の姿へと戻っていく。
「キャンッ! キャン! ウゥ……ッ!」
なぶり殺しにするような凄惨な暴行。サイラスは力任せにワイスの四肢を掴み、地面に叩きつけ、踏みつける。
その断末魔のような悲鳴が、ニニィの意識に微かに流れ込んでくる。
(……この悲鳴、ワイス? )
ニニィは暗闇の中で必死に目を開けようとする。けれど、思考はまとまらず、過去の断片がノイズのように意識をかき乱す。
(あたし、何してるの。お母さん、お父さん、ラー君……これって、死んじゃったのかな? 私は、このまま……何もできないまま、壊れて終わっちゃうの?)
ニニィは虚無の淵で、冷たい静寂に沈もうとしていた。
そしてニニィの意識に、あの不思議な声が再び聞こえる。
『ニニィ、あなたは死んでないわ』
ニニィは暗闇の底で、縋るように応答した。
「また、あなたなの……? 今日が、もしかして、あなたが言っていた『きたるべき日』なの?」
不思議な声は、凪いだ海のような静けさで答える。
『いいえ、違うわ。ただ今は、あなたが正しいと信じられることをして』
「信じられる、こと……?」
自問したニニィの脳裏に、これまでの歩みが走馬灯のように駆け巡る。病室の窓から見た冷たい雪。両親との永遠の別れ。ラークに突き放された時の胸が張り裂けるような孤独。誰にも触れられず、誰からも「自分」だと認識してもらえなかった、あの長い長い幽霊のような日々。
しかし、今のニニィは独りではない。寂しい時にいつも隣にいてくれた相棒で親友のワイス。お兄ちゃんになってくれて、笑いかけてくれたキール。そして、優しく抱きしめ、自分のことを人間として信じてくれたリリア。彼らが、世界から透明な存在として扱われていた自分を、一人の「ニニィ」として見つけてくれた。ニニィはもう迷いなど微塵もなかった。
「……もう、ロボットのニニィはおしまい」
システムがニニィの気持ちに反応するようにスパークする。
「これからは、ロボットだろうがUMHだろうが、あたしはニニィ・ロイス! お母さんとお父さんがくれた、この大好きな名前で……あたしを見つけてくれたみんなと一緒に生きるんだ!」
過去の恐怖、拒絶の痛み、そのすべてを飲み込むほどに眩い光が、彼女の深層回路から溢れ出した。それは、孤独に震えていた少女が、運命という壁を殴り倒して手に入れた鋼の誇り。
「怖くたって、もう一人じゃない。抱え込まなくたっていいんだ。あたしには、みんながついてる。それに、ラー君。いつか必ず、本当のあたしを見つけてね」
ドクン、とあるはずのない心臓が鳴った気がした。
バチバチと激しい電流がニニィの頭部を駆け巡り、濁っていた瞳に、これまで以上に鮮やかで力強いエメラルド・グリーンの光が宿る。
「……動けッ!!」
湖畔に散らばっていた全てのパーツが、磁石に吸い寄せられるように、頭部へと集結していく。
現実の光景は、あまりに残酷だった。
サイラスの冷酷な拳が振り下ろされるたび、ワイスの声は弱々しく、か細いものへと変わっていく。
「キャン、……キャン……」
「これで完全に頭を砕いてやる」
サイラスがどす黒い殺意を乗せ、ワイスの顔面目掛けて最後の一撃を放つ。
その瞬間に背後から飛来した鋼の手が、真空を切り裂くような速度でサイラスの手首を鷲掴みにした。
「……なっ!?」
驚愕に目を見開くサイラス。その視線の先にいたのは、火花を散らしていたはずのニニィ。 再起動を果たしたニニィ・ロイスは、至近距離からサイラスの闇を射抜くような、一点の曇りのない瞳で言い放った。
「もうこれ以上……何ひとつ、奪わせない!!」
その声は、かつての怯えを脱ぎ捨てた一人の小さな戦士の叫び。
「あたしの大切なワイスを……リリアお姉ちゃんを傷つけるモロスを、あたしは絶対に許さない!!」
「このガキがッ!」
サイラスは苛立ちと共にワイスを放り投げ、反転してニニィの胴体へ重い蹴りを叩き込もうとする。しかし、ニニィは宙に浮かしている手でサイラスの足を持ち上げる。そのまま力任せに、サイラスの体を無様に地面へと叩きつけた。
「何しやがる……! クソがッ!!」
土煙を上げて叩きつけられているサイラスを横に、ニニィはすぐさまワイスの元へ駆け寄る。
「ワイス!!」
ボロボロになった白色の毛並み。けれどワイスは、心配させまいと健気に尻尾を振り、ニニィの金属の手を優しく舐めた。震えながらも、一歩、また一歩と大地を踏みしめて立ち上がる。
「ワイス……良かった、傷はあるけど大丈夫そうだね」
ニニィの手を剥がしたサイラスは殺意をむき出しにしてニニィたちに近づく。ニニィは優しくワイスの頭を撫でると、相棒と視線を合わせ、力強く頷き合った。
「キールお兄ちゃんが大好きなリリアお姉ちゃーーん!!」
ニニィの叫びが、湖畔の空気を震わせる。突進してきたサイラスの拳が、その言葉の杭に打たれたように止まった。
「あたしと一緒に外にお出かけする約束覚えてる!? あたしね、すーっごく嬉しかったんだよ! 見ず知らずのあたしに、あんなに優しくしてくれた可愛いリリアお姉ちゃん!お姉ちゃんは、あたしの憧れだよ!!」
サイラスの瞳の奥で、どす黒い闇と澄んだ光が激しくせめぎ合う。サイラスは混乱を振り払うように猛攻を仕掛けるが、今のニニィにはその攻撃は届かない。彼女は舞うようにすべての衝撃をかわし、慈しむような笑顔を向け続けた。
「ワン! ワンッ!」
ワイスもまた、リリアの魂に呼びかけるように高く吠える。
「見せてくれたモデルの時の写真、すっごくかっこよくて、だーいすきだよ!!」
「黙れッ!!!!」
サイラスが絶叫し、大地を砕くような一撃を放つ。けれど、ニニィの言葉は止まらない。
「まだまだいっぱいあるよ! キールお兄ちゃんを想ってる乙女なところも、いつも優しくて頼りになるところも! あと、甘いものに目がないところも、全部ぜんぶ大好き!!」
サイラスの腕から力が抜け、攻撃が目に見えて鈍くなっていく。
「あたし、世界で二番目にリリアお姉ちゃんのこと好きな自信があるよ! 一番は、キールお兄ちゃんに譲ってあげるけどね!」
ワイスがクルクルと楽しそうに回り、尻尾を振って喜びを表現する。ニニィは大きく息を吸い込み、世界で一番幸せそうな声で叫ぶ。
「だから、リリアお姉ちゃん! 帰ってきてーー!! 3人で遊びにいこーね! もちろん、ワイスも一緒に!!」
その純粋な愛の言霊が、サイラスを操るリリアの心に届いたのか、サイラスの動きが崩れ、そのまま吸い寄せられるように冷たい湖へと落ちていった。
すかさずアザラシへと姿を変えたワイスが、湖に入り救出に向かう。引き上げられたサイラスの胸元をスキャンしてニニィは安堵の溜息を漏らした。
「……よかった。息はあるみたい」
ニニィは立ち上がり、キールが向かった山の彼方を見上げる。
(リリアお姉ちゃん、待っててね。いま、キールお兄ちゃんが助けに行ってるから)
ふと、ニニィは何かを思いついたように拳をポンと手のひらに打ち、無邪気に笑った。
「ねぇ、ワイス! 二人のことを『キーにぃ』と『りりねー』って呼んだらいいと思わない!?」
冷たい鋼の体になっても捨てられなかった人間としての優しさ。
かつて両親に伝えた自身の夢の先に見つけた自らの居場所。いつか「ラー君」との約束を果たすその日まで、彼女はもう迷わない。そして、不思議な声が導く『きたるべき日まで』。
「キーにぃ! りりねー! 大好きだよ!」
ニニィ・ロイス。 彼女が手に入れた「愛」という名の回路は、今、未来という名の眩い光を放ちながら、夜明けを導くようにどこまでも続く空へと続いていた。




