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第85話『ゴースト・ボイス・ボディ』


「うっ………………っ」



重い泥の底から()い上がるような感覚と共に、ニニィは意識を取り戻した。 (まぶた)を開いても、視界はひどく(かす)んでいる。何が起きたのか、自分は今どこにいるのか――周囲を見渡す。



「……え?」



そこには、幾重(いくえ)もの機械の器具に繋がれた「自分」が横たわっていた。



(嘘だ。そんなはずはない。だってあたし、今ここに立っているよ? どういうこと?)



ニニィは震える手で、自らの頬に触れようとする。しかし、その指先は(むな)しく(くう)を切り、感触ひとつ残さずに自分自身を通り抜けてしまった。



「どうなってるの……? あたし、どうなっちゃったの……?」



困惑と得体の知れない恐怖が全身を走る。そんな時、静まり返った部屋の扉が開き、ラークとその両親が姿を現した。ニニィは救いを求めるように、ラークへと駆け寄った。



「ラー君!」



ラークを安心させたくて、その細い体に飛び込み、抱きしめようとする。しかし、ラークはニニィの存在に気づくことさえなかった。彼女の体は、無情にもラークをすり抜け、ただ冷たい空気を切っただけだった。



「うそ……でしょ? なんで……っ」



ニニィは必死にラークへと(すが)り付き、その温かな手に触れようと何度も手を伸ばす。



「ねぇ、ラー君。気づいて!」



しかし、どんなに願い、どんなに叫んでも、彼に届くことはない。

ラークは涙が(にじ)んだ瞳で、ベッドに横たわる動かないニニィの手をそっと握りしめた。



「なんでニニィがこんな目に……。あんまりだよ」



ニニィの手が、ラークの手に重なる。けれど、彼を包み込む感触も、手から伝わるはずの体温も、今のニニィには一切伝わってこない。



「ラー君、あたし、ここにいるよ……! ちゃんと聞こえてるよ!」



言葉を(しぼ)り出すが、それは誰にも聞こえず虚空(こくう)に溶けていく。

状況が理解できないニニィの後ろから無慈悲にもニュースの音声が響いていた。



『昨日の朝、凄惨(せいさん)な事故が発生しました。三人の家族を乗せた乗用車が、居眠り運転の大型トラックに衝突され横転。車に乗っていたジョセフ・ロイスさんと妻のアナ・ロイスさんは、搬送先(はんそうさき)の病院で死亡が確認されました。同乗していた長女のニニィさんは、依然(いぜん)として意識不明の重体です――』



激しい衝突、横転する視界、呼んでも動かない両親がフラッシュバックしていく。ニニィは思い出し、頬を伝う涙が止まらない。ニニィは歯をガタガタと震わせ、絶望に打ちひしがれてしまう。



「いや……、いや……っ」



自分は死んでしまったのか。それとも、何者かに変えられてしまったのか。今の現実と起きてしまった地獄を目の前にして、ニニィの心は、音を立てて決壊した。



「いやぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!!!!!!」



(のど)()き切るような悲痛な叫びが、病室に響き渡る。だが、その絶叫さえも、目の前で泣き崩れるラークの耳に届くことはなかった。



やっと手に入れた「家族」との時間。これから始まるはずだった「人生」。大好きな人たちと、大好きなラークと共に歩み出そうとした矢先、世界はあまりにも残酷(ざんこく)な終わりを彼女に突きつけた。

今のニニィは、まるで幽霊のように、どんなに叫んでも、どんなに愛する人の肌に触れようとしても、誰も彼女の気配に気づくことはない。



一日が何年にも感じるような地獄の月日がどれだけ流れただろうか。



病室の片隅(かたすみ)で、肉体から切り離された魂のまま、ニニィはうずくまり、ただ激しく震えていた。その(かたわ)らで、ベッドに横たわる抜け殻のようなニニィの体を見つめ、ラークがぽつりと声を漏らす。



「ニニィ。いつになったら、目を覚ますの?」



その(かす)れた声に応えるように、ニニィは必死に顔を上げ、彼のすぐ近くで言葉を(つむ)いだ。



「ここにいるよ……ラー君」



しかし、ラークには何も聞こえない。彼は震える手でベッドのシーツを握りしめ、消え入りそうなほど弱々しい声で続けた。



「答えてよ……ニニィ」



「答えてるよ……ラー君」



ニニィは張り裂けそうな胸を抱え、彼に手を伸ばした。けれど、その指先は(むな)しくラークの頬をすり抜ける。



「ニニィ……」



ラークが、(こら)えきれぬ涙をこぼしながら、動かないニニィの手に自らの顔を埋めた。そして、(しぼ)り出すように真っ直ぐな本音を声に漏らす。



「俺……ニニィのこと、大好きだよ」



ラークの口から漏れた言葉に、ニニィの心は温かくなる。



「ニニィは、いつも笑顔で……辛いことがたくさんあっても、いつだって明るくて、元気で、絶対俺より苦しいはずなのに、優しくしてくれた」



ラークは(あふ)れ出す涙を乱暴に(ぬぐ)い、自分自身の心に言い聞かせるように、真っ直ぐな決意を言葉に乗せた。



「本当にニニィは誰よりも強いよ。だから、俺もニニィみたいに……」



ラークは一度深く息を吸い込み、動かないニニィの小さな手を、力強く握りしめる。



「ニニィを助けるよ。どれだけ時間がかかったとしても……。そうすれば、学校も旅行も、やりたいこと全部できるよね!!」



静まり返った病室に、ラークの高らかな宣言が響く。



「だから、それまで頑張ってニニィ。俺はニニィのことずっと待ち続けるから!!」



その言葉に、ニニィの視界が涙で(にじ)んだ。



「……ラー君」



どれだけ打ちひしがれようとも、愛する両親を失った悲しみに体が(おお)われようと、彼女は今、何よりもラークの想いに(こた)えたいと強く願った。



「あたし、頑張るね。元の体に戻れるように」



ニニィは決意を胸に、自身の肉体へと戻る方法を探す旅に出た。一度は横たわる自らの体へ意識を沈めようと試みたが、強固な拒絶反応に弾き飛ばされてしまう。意識を肉体に宿すことは、今の彼女には叶わぬことだった。



彷徨(さまよ)ったの果てに訪れた、夕暮れの川沿いでのこと。

途方に暮れ、ふと足元に転がる石をなぞろうと手を伸ばした瞬間、不思議な現象が起きた。ニニィの意識が吸い込まれるように石へと入り込み、その無機質な(かたまり)を、ほんのわずかだけ動かすことができたのだ。



(なにこれ!? あたし、石になったの!?)



言葉を発することはできない。けれど、この世界に干渉するための(すべ)をニニィは手に入れた。

それからというもの、ニニィは旅の中で自らの正体を探るべく、古今東西(ここんとうざい)の怪異やスピリチュアルな伝承を(むざぼ)るように調べ上げた。そしてある一つの結論に辿(たど)り着く。



「もしかして、あたし……事故の後すぐにUMHになっちゃったのかな」



判明したのは、生きている生命体やかつて命があったもの以外の「無機物」であれば、自らの意識を憑依(ひょうい)させ、操ることができるということだった。その代償に、誰にも認識してもらえないという(ごう)を背負って。

しかし、ニニィの瞳に、久方(ひさかた)ぶりに希望の光が宿る。



「これなら……この力を使えば、ラー君にあたしのことを伝えられるかもしれない!」




2029年 1月



ニニィが11歳を迎える年。

寝ているニニィの意識を直接揺さぶるような、透き通った声が響いた。



『ニニィ……起きて、ニニィ』



ぼんやりした視界をこすり、ニニィは周りを見渡す。



「……なに? 誰なの?」



しかし、あたりを見回しても、(きり)(ただよ)っているばかりで、人影などどこにもない。

戸惑うニニィの脳裏に、再びその声が直接聞こえてくる。



『今から、あなたにはとても大切なことをしてもらうわ』



「どうして私の名前を……」



ニニィが困惑を隠せずに問い返すと、不思議な声は落ち着いた調子で、けれどどこか急ぐように続けた。



『あたしのことは、今は伝えられない。時間がないの、端的に説明するね』



その響きには、逆らえないような不思議な懐かしさがあった。声の主は、ニニィの魂に(きざ)み込むように言葉を(つむ)いでいく。



『これからあなたには、ドイツのベルリンに行ってほしいの。そこにある一体のロボットを見つけて』



ベルリン。ロボット。聞いたこともない指示に、ニニィの意識は激しく波打つ。



『それは、あなたのために用意された特別なボディ。その中にあなたの意識を通せば、それはあなたの新たな体となり、失われた声を取り戻す手段になるわ』



「私の……体に? なんで、そんなロボットがあるの?」



ニニィの切実(せつじつ)な問いに、声の主は沈黙をもって答えた。



『理由は言えない。けれど、これだけは約束してほしいの。《《きたるべきその日》》まで、必ずそのロボットのボディを死守して。たとえ傷つき、壊れても構わない。ただ、あなたの意識の糸だけは、決して途切れさせないで』



その切迫(せっぱく)した響きに、ニニィの胸に不安がよぎる。



「その日って、いつ来るの? 私には、ラー君との約束があるの。いつまでも待ってるって言ってくれた人と……!」



しかし、不思議な声は彼女の言葉を制するように、静かに、けれど強く宣告した。



『その日は今から7年以内に必ず来るわ。それしか言えない。これはあなたのため、そして世界に生きる皆のためでもあるの。それじゃあ、その日まで頼んだわ、ニニィ!!』



最後の言葉がエコーのように響き渡り、やがてその気配は完全に消え去った。後に残されたのは、ただ重い静寂(せいじゃく)と、これまで感じたことのない重大な使命の予感だけだった。



「今の……一体、なんだったんだろう」



夢だったのか、それとも現実だったのか。けれど、かつて幽霊だった自分に石を動かす術が見つかった時のように、彼女の心には確かな指針が生まれていた。



不思議な声に導かれたニニィは、半信半疑のままドイツの地に(おもむ)いていた。辿(たど)り着いたのはベルリンの郊外、誰にも知られていないかつての戦時下で打ち捨てられたという、ひどく(さび)れた研究所の地下施設。

湿(しめ)った冷気と()びついた鉄の匂いが立ち込める暗がりの中、彼女は一際異彩(ひときわいさい)を放つ頑丈(がんじょう)な格納ケースを見つけ出す。



その中に、眠っていた一つのボディ。

白銀に近い(あわ)い色のボブヘアは、(ほこり)の中でもなお気高く輝いている。透き通るような緑色の瞳は、主を待つ静止した宝石のようだった。砂色のメカニカルスーツを(まと)ったその肢体(したい)には、肩や腕に緻密(ちみつ)な金属の関節補助が組み込まれ、背中には大きなスプリング状の駆動機構(くどうきこう)がむき出しになっている。

それは、無機質な美しさと、戦うための強固な意志を宿した鋼の肉体。ニニィは震える魂を伸ばし、機械の肌へそっと触れた。

その瞬間、暗闇の中で回路が熱を帯び、(まばゆ)い閃光が脳内を駆け(めぐ)る。肉体と精神、鋼鉄と魂。その二つが劇的な音を立ててリンクし、静止していた歯車が力強く回り始める。



「……っ、…………ぁ」



喉の奥から、確かな熱を持った振動が伝わってくる。ニニィはゆっくりと目蓋(まぶた)を開けると、新しい自分の指先を見つめ、握りしめた。ニニィは、夢中で走り出した。



「うわぁぁぁぁぁぁ――っ!!! すごーい!!」



コンクリートを蹴る足音。風を切る体。そして何より、自分の意志で発せられたその声が、地下室の壁に反響した。

触れられる。話せる。自分の力で、この世界に干渉できる。幽霊(ゆうれい)として彷徨(さまよ)い続け、孤独に耐え抜いてきたあの無限とも思える日々が、この一瞬で(むく)われたような気がした。



鋼の体を手に入れたニニィは、暗い地下室で一人、歓喜の声を上げ続けた。これが、新しいニニィの始まりだった。この体さえあれば、必ずラークのもとへ帰れる――その希望を胸に抱きしめて。



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