第84話『サンセット』
2026年
両親が来る頻度も少なくなり、月日は残酷なほどに積み重なり、ニニィは8歳になっていた。かつては耐えがたかった孤独も、今では静かな日常の一部として彼女の隣にある。そんな停滞していた日々に、一筋の光が差し込んだ。いつものように様子を見に来た看護師が、一冊の分厚いファッション誌を差し出したのだ。その本のページをめくった瞬間、ニニィの瞳に鮮やかな色彩が飛び込んでくる。
そこにいたのは、すらりと伸びた手足で、見たこともないような華やかな衣装を纏い、世界のあらゆる絶景の中で凛と立つ美しい女性たちの姿だった。
「うわぁぁぁ……! 綺麗……こんなに広い世界があるんだ……!」
ニニィは、窓の外から眺めるしかなかった世界の広大さに、魂を揺さぶられるような衝撃を受けた。それ以来、彼女の枕元には看護師が持ってきた色とりどりの雑誌や本が並ぶようになった。白い壁に囲まれた窮屈な病室にいながら、彼女の心は、パリの石畳を歩き、紺碧の海を越え、未だ見ぬ地平線の向こう側へと飛んでいった。
そして、ニニィの中に、一つの眩い「夢」が芽生え始める。
久しぶりに両親が病室を訪れた日のこと。ニニィはいつにも増して目を輝かせ、ベージュ色の髪のアホ毛を元気いっぱいに揺らしながら、ベッドの上で高らかに宣言した。
「あのね、お父さん、お母さん! 私、外に出られるようになったら……モデルさんみたいに世界中を回りたいの! それでね、お医者さんみたいにたくさんの人を助けて、世界中を元気にさせたいな!」
その夢は、病弱な彼女にとってはあまりに途方もなく、けれどこれ以上なく彼女らしい、優しさに満ちたものだった。ジョセフとアナは、心からの笑顔を我が子に向ける。
「きっとなれるわ。ニニィなら、世界中を笑顔にできる最高の女の子になれる!」
「ああ、間違いない。それはニニィにしかできない、特別な夢だな!」
両親の言葉に背中を押され、ニニィは未来を確信するように「えへへ」と鼻を鳴らして笑った。かつては、ただ「生きてほしい」という切なる祈りだけが漂っていた病室に、少女が描く色鮮やかな希望に彩られている。
そんなニニィの日常に、運命を変える柔らかな風が吹き込んだ。
それは廊下を歩いていた時のことだった。ふと視線を向けた隣の病室の入り口で、自分と同じくらいの年齢をした、柔らかな茶髪の少年と目が合う。
「あら? お隣さんかしら。こんにちは」
少年に付き添っていた母親が、ニニィの存在に気づいて優しく微笑みかけた。ニニィは少し緊張しながらも、丁寧にお辞儀をして頷く。
「今日から隣でお世話になる、ラーク・レインです。ほら、あんたもちゃんと挨拶しなさい」
母親に促され、少年はどこか照れくさそうに、けれど真っ直ぐにニニィを見つめて口を開いた。
「…… ラークです。歳は8歳。よろしく」
初めて「友達」になれるかもしれない――その胸の高鳴りが、ニニィを最高の笑顔にさせる。
「あたし、ニニィ・ロイス! 同い年だよ! よろしくね、ラーク君!」
彼女が迷いなく小さな右手を差し出すと、ラークは一瞬戸惑いながらも、ニニィと握手を交わした。ニニィの太陽のような眩しさに、ラークの顔にも少し照れ隠しが混じった笑みがこぼれる。
それからニニィは時間の合間を縫っては、ちょくちょくお隣のラークの元へ遊びに行くようになっていた。
「ラーク君! この前のお話の続き、聞かせて!」
ニニィは、ラークが語る「外の世界」の物語が大好きだった。ラークもまた、病と戦うためにこの病院へやってきた少年だったが、彼はニニィが知らない景色をたくさん知っていた。最初はどこか壁を作っていたラークも、ニニィの曇りのない純粋さに触れるうち、次第にその心を解きほぐしていった。
「ニニィは本当に好きだよな。 …… いいよ、昨日の続きだろ?」
ラークは少し得意げに、けれど優しく言葉を紡ぐ。ラークの話に耳を傾けるニニィの瞳は、まるで宝石を眺めるようにキラキラと輝いていた。満足げに話を聴き終えたニニィは、とびきりの笑顔をラークに向ける。
「やっぱり、ラーク君のお話大好きだなー! 私ね、いつか外に出て、いっぱい夢を叶えるんだ! でも、今はラーク君がいてくれるから、それだけでいいや!」
そんなニニィの屈託のない、あまりにも真っ直ぐな言葉に、ラークは「へー、そう」とぶっきらぼうに目を逸らした。けれど、その耳たぶがほんのりと赤く染まっているのを、ニコニコと見つめるニニィは逃さなかった。
白い壁に囲まれた冷たい病院の中で、寄り添い合う小さな二人。それは、現実を忘れさせるような、初恋にも似た、甘くくすぐったい幸福のひとときが続いていた。
雨が降っている日。ラークとニニィは窓の外を二人で仲良く覗いて、両親が来るのを待っていた。静まり返った病室で、ラークがふと、棘のような問いを口にする。
「……なあ、ニニィ。親がなかなか来なくて寂しくないのか? それに、ずっと外に出られないことだって、本当は辛くないのかよ」
「えっ……」
そのあまりにも真っ直ぐな言葉に、ニニィは反射的に用意しているいつもの「大丈夫」という答えを失ってしまう。言葉に詰まり、視線を彷徨わせるニニィに、ラークはゆっくりと語り始める。
「俺はさ……今こうして病気になって、親がそばにいないと、めちゃくちゃ寂しいよ。本当は、毎日会いたいもん」
ラークはニニィをじっと見つめ、彼女が張り詰めていた「いい子」の仮面を、そっと解くように言葉を重ねた。
「ニニィがいるから俺は平気だけどさ。ニニィは、たまに無理してる気がする。俺の前では強がんなくてもいいんだぞ? 俺とニニィは、同じなんだから」
その瞬間、ニニィの瞳から一粒の涙が零れ落ちた。両親の前では決して見せなかった、心の深淵に隠していた本音が、震える声と共に溢れ出す。
「あたしね、ママとパパとずっと一緒にいたい。それにずっと病院にいるのは……もう、やだよ」
ぽたぽたと落ちる涙を拭おうともせず、ニニィは縋るように語る。
「みんなみたいに学校に行って、お勉強したい。一緒に、外を走り回って遊んでみたい……」
そして、絞り出すように漏れたのは、自分よりも愛する人を想うがゆえの、最も痛切な願いだった。
「お母さんとお父さんの、無理をしていない顔が見たい。私のせいで、無理をさせたくないよ……」
ラークは何も言わず、涙に濡れるニニィの小さな手を、ぎゅっと握りしめる。
「ニニィ、よく頑張ったよ」
この日、幼い二人は自らの弱さを共有した。寂しさと、祈るような切実な願い。ラークは、湿った目元を拭って、自分たちの未来を肯定するように笑顔を浮かべた。
「よし! 俺とニニィは一緒に学校に行って、遊ぶんだ! そして、沢山の見たこともない綺麗な場所を旅行しつくそうな!」
ニニィもまた、涙を流しながら、最高の笑顔で応える。
「うん……! 約束だよ、ラー君!」
「……ラ、ラー君!?」
突然の愛称に、ラークが驚いて目を丸くする。それを見たニニィは、いたずらをする顔で笑った。病院の中で、二人が結んだ小さな約束。。孤独という闇の中にいた二つの小さな光が、一つの強く眩しい光へと変わり、どんな過酷な治療よりも、幼い二人の命を強く繋ぎ止める希望の絆となった。
月日は静かに流れ、希望を胸に抱いた二人は10歳という節目を迎えていた。
病室の窓から差し込む夕日は、二人の姿を優しく包み込んでいる。重ねられた手と手。ラークは少しだけ照れくさそうに、視線を窓の外へ泳がせた。
「ニニィ、手……」
ニニィは少しだけ頬を赤らめながらも、繋いだ手を離そうとはしなかった。
「いいじゃん。明日……お互いに大きな手術なんだから」
わずかに震える彼女の指先に気づいたラークが、今度はその上から力強く手を重ね直す。
「大丈夫。明日を乗り越えれば、俺たちは自由だ」
明日に控えた大手術。それを成功させることが、二人が病院という名の檻から出るための唯一の鍵。退院した後は家族ぐるみで旅行に行く――その約束が、二人を支えとなっていた。
「ラー君と、お父さんとお母さんとみんなで行く旅行、楽しみだな……」
ニニィがそっとラークの肩に体を寄せると、ラークもまた決意を込めた笑顔を返す。
「俺も。絶対に成功させような、ニニィ!」
重なり合った二人の覚悟は、一筋の灯火のように強く輝いていた。
そして、運命の手術は無事に幕を閉じる。
ニニィはベッドで目を覚まして、両親が両手をそれぞれ握っているのに気づく。
「お母さん、お父さん。あたし、やったよ……」
まだ手術後の麻酔が完全には切れていなかった。細々とした声だが、そこには力強い想いがこもっていた。
ジョセフとアナはニニィを見つめて泣きながら、二人揃って言葉を紡ぐ。
「「ニニィ、生まれてきてくれてありがとう……あなたは私たちの最高の宝物よ」」
ニニィはポロポロと涙を流して、呟く。
「私、お母さんとお父さんの子に生まれてきてよかったよぉ」
ジョセフとアナはニニィに抱きつき、我が子が自由になったことをゆっくりと涙を流して噛み締めた。
そして、2か月して退院したニニィとラークは家族の元へ帰った。ニニィはついに、十年の人生で一度も足を踏み入れることのなかった「我が家」という場所へと降り立つ。
「ここが……あたしのおうち……?」
夢にまで見た光景を前に、ニニィの足取りは震えていた。ジョセフとアナに案内されて扉を開けた先、彼女の自室。
「ここが、お前の部屋だぞ。ニニィ」
そこには、あの大好きな真っ白な犬のぬいぐるみと、これまで病室で大切に眺めていた風景写真、そして憧れのモデルのポスターが、部屋いっぱいに溢れるように飾られていた。
ニニィの瞳から、大粒の涙が溢れ出す。
「お母さん……っ! お父さん! ありがとう……、ありがとう!」
ジョセフとアナは、我が子を力いっぱい抱きしめた。
「本当によく頑張ったな、ニニィ!」
「今まで苦労をかけて、本当にごめんなさい……でも、これからはずっと一緒よ!」
あの日、抱きかかえた我が子と3人で過ごすことができることにジョセフとアナは心の底から嬉しかった。
三人で過ごす、温かな、あまりにも当たり前で尊い時間。ニニィは声を上げて泣きあげる。
「もう絶対に離れないからね!!」
これまで溜め込んできた孤独をすべて浄化させるかのように、家族の愛をニニィは全身で受け止める。
それから一ヶ月、ニニィは家族の時間を大切に過ごした。そして、待ちに待ったラーク家との合同旅行の日。車内には、浮かれたニニィの即興の歌が響き渡っていた。
「ラー君とー! いっしょにー! りょこー!!」
助手席のアナが噴き出すように笑う。
「ふふ、なーにその変な歌!」
ジョセフもハンドルを握りながら愉快そうに肩を揺らす。
ニニィはぷくーっと頬を膨らませて言った。
「変じゃないもん!! 歌だもん!!」
そういいながら、ニニィも噴き出して笑う。
三人の幸せな笑い声が、車内という小さな世界を幸福で満たしていた。
その、瞬間。
ガシャッッッァン!!!
鼓膜を引き裂くような轟音と、猛烈な衝撃。世界が激しく回転し、視界は一瞬で上下を失った。
混乱の中、車体は紙細工のように無残に歪み、ガラスの破片がニニィの柔らかな肌を切り裂いていく。
「お父さん! お母さん……っ!」
叫ぼうとした声は、肺から無理やり押し出された空気と共に血の匂いに混じり、虚空へと消えた。
逆さまに叩きつけられた車内。すぐ隣で、あれほど明るく笑っていたアナの横顔が、不自然な角度になっているのが見えた。伸ばそうとした指先は届かず、ジョセフの呼ぶ声も聞こえない。
あるのは、ただ、エンジンが上げる断末魔のような蒸気の音と、ガソリンの臭いだけだった。
「……嫌だよ」
視界の端で、お気に入りだった真っ白な犬のぬいぐるみが、真っ赤な液体に染まって転がっている。
先ほどまで車内に満ち溢れていた幸福は、いまや焦げた金属のにおいが漂う地獄へと成り果てていた。
やがて、急速に遠のいていく意識。ニニィの瞳に最後に映ったのは、窓から見えるノルウェーの空が、家族の流した血のように深く、どす黒く染まっていく光景。
意識は冷たい闇の底へと滑り落ち、二度と戻らない幸福の残響を置き去りにして、深い眠りへと沈んでいった。




