第83話『ニニィ・ロイス』
2018年
北欧の厳しい寒さは年々増していた。そんな中ノルウェーの小さな病院の一室では、まるで春の陽だまりのような温かさに包まれていた。その日、ロイス家の長女として、一人の新しい命が産声を上げる。
ジョセフ・ロイスは、世界で最も尊い宝物を震える手で抱き上げた。
「…… ああ、なんて可愛らしいんだ」
感極まったジョセフの声が震える。ベッドに横たわるアナ・ロイスは、疲労の中にも聖母のような微笑みを浮かべていた。
「私たちのところに生まれてきてくれた、小さな天使。ねえ、ジョセフ、この子の名前、もう決めたの」
ジョセフはアナに視線を向けて、愛おしそうに言葉を待つ。
「名前は、ニニィ。いつも笑顔が絶えない、太陽のように明るい子になってほしいの……」
「ニニィ……ニニィか」
ジョセフはその名がこれ以上ないほど相応しく思えた。その音の響きを噛みしめるように、何度も、何度も繰り返す。
「本当にいい名前だ」
二人の惜しみない愛が伝わったのだろうか。まだ見ぬ世界を夢見るように、ニニィは小さな口元を緩ませ、まるで天使が囁いているかのような表情ですやすやと眠りに落ちる。
ジョセフは喜びを抑えきれず、アナの方へと赤子を寄せた。
「見てくれ、アナ……! ニニィが、笑っているよ!!」
その光景に、二人は顔を見合わせ、幸福を分かち合うように声を上げて笑った。
この子が歩む道が、光に満ちたものでありますように。この子が描く未来が、色鮮やかな希望で彩られますように。二人はただ、無垢な寝顔に祈りを捧げた。
2023年
ニニィは5歳になっていた。
窓の外は冬の吹雪が吹き荒れている。病室内は暖房の熱で満たされ、窓ガラスは白く湿っていた。 ニニィはその曇りを小さな指でぬぐい、外の景色をじっと見つめていた。
ベージュ色の髪は、毛先がクルンと可愛らしく跳ねている。頭のてっぺんでゆらゆらと揺れる大きなアホ毛は、彼女の好奇心の象徴のようだった。視界の端に、雪をかき分けて歩いてくる父と母の姿を見えた瞬間、彼女の碧い瞳にパッと灯がともる。
「お母さんとお父さんだ!」
ウキウキした足取りでベッドへ潜り込むと、布団を律儀に整えて「いい子」の姿勢で待ち構える。ドアが開くその瞬間を、今か今かと、とびきりの笑顔で待ちわびていた。
やがて病室のドアが勢いよく開き、ジョセフが満面の笑みをニニィに向ける。
「ニニィ! 遅くなってごめんな!」
「私のニニィちゃん、会いたかったわ!」
アナはベッドに駆け寄り、愛おしい我が子を抱きしめる。ニニィはその腕の中でたっぷりと愛情を受け、甘えるような声を上げた。
「お母さん! お父さん!」
そして、小さな背中に隠していた「宝物」を、誇らしげに二人の前へ差し出す。
それは、病院の庭で拾った松ぼっくりに、ボンドで目や口を貼り付けた不格好な人形だった。
「メリークリスマス! 今日ね、お外に出て探して作ったの!」
恐らくは両親を模して作ったのであろうその人形を受け取り、ジョセフとアナは感動のあまり目が潤み、笑顔になる。
「ありがとう、ニニィ……。最高のプレゼントだ」
「まぁ、なんて素敵なの。ニニィは天才ね!!」
二人に強く抱きしめられ、ニニィは照れくさそうに、けれど幸せそうにその温もりを放さないように噛みしめていた。
ニニィは生まれつき体が弱く、激しい運動や長時間の外出を禁じられていた。細く折れそうな手足。少し動くだけですぐに切れてしまう息。幼い人生のほとんどを病院の白い壁に囲まれて過ごし、外の世界を知る機会は限られていた。
それでも、両親がくれたたくさんの愛が、彼女の心を健やかに育んでいた。病弱であることを感じさせないほど、彼女は明るく、優しく、そして周囲を照らす太陽のような少女へと成長していた。
窓の外で荒れ狂う吹雪さえ届かない、この小さな病室の中だけには、世界で最も温かい幸福が満ち溢れている。
ジョセフとアナが、顔を見合わせてから、抱えきれないほど大きな箱をニニィの前に差し出した。
「ニニィ、これ…… ずっと欲しがってたでしょう?」
二人が箱を開けると、中から現れたのは、雪のように真っ白でフワフワとした、大きな犬のぬいぐるみ。ニニィは信じられないものを見るように目を輝かせ、歓喜の声を上げる。
「うわぁぁぁぁ……! ワンワンだ! 本物のワンワンみたい!」
彼女は細い腕を精一杯に広げ、自分よりも大きなぬいぐるみに飛びついた。柔らかな毛並みに顔を埋め、全身でその温もりを吸い込むようにして抱きしめる。
ニニィはぬいぐるみ越しに両親を見上げると、弾けるような笑顔で告げた。
「これで、今度の手術も絶対に頑張れるよ! ワンワン、ワーン!」
その無邪気な言葉に、両親の胸には熱いものがこみ上げる。これから彼女が立ち向かう試練の重さを知っているからこそ、その「勇気」がたまらなく愛おしかった。ジョセフは大きな手で、アナは優しい手つきで、愛する娘のベージュ色の髪を何度も撫でる。
「ああ、ニニィなら大丈夫だ」
「あなたは、世界で一番強い子だもの」
「えへへ…… お母さんも、お父さんも大好き!!」
ニニィは屈託のない笑顔を浮かべ、興奮のあまり鼻水を少し垂らしながら、最愛の両親への想いを真っ直ぐにぶつけた。
手術の日、いつものように傍らにいてくれるはずの両親の姿はなかった。病室に漂う静寂と、窓から差し込む冬の淡い光だけが、独りきりのニニィを包み込んでいる。
幼いニニィの胸を占める不安は計り知れない。彼女は「強い子」であろうと、ただ一人で過酷な手術台へと向かった。
麻酔から覚め、朦朧とする意識の中で手術の成功を知らされたとき、ニニィが真っ先に探したのは、やはり最愛の両親の温もりだった。
「お母さん、お父さん……」
ぽつりと漏れた独り言が、無機質な病室に虚しく消えていく。
ニニィは、重くなった体をゆっくりと動かして窓際へ向かった。窓ガラスの向こう側に広がる遠い景色を、飽きることなく見つめ続ける。
膨らみ続ける希望とは裏腹に、いつまで待っても現れない二人の影。窓を叩く冷たい風の音が聞こえるたび、彼女の小さな胸の奥では、言いようのない寂しさが深く積み重なっていった。
あれほど幸福に満ちていた時間は、砂時計の砂が落ちるように少しずつ削り取られていった。
両親の仕事が急激に忙しくなり、病室を訪れる回数は日に日に減っていった。かつては毎日聞こえていたジョセフの快活な笑い声も、アナの優しい歌声も、今では遠い記憶の残響のように感じられる。
ノルウェーの昼下がり。ニニィはいつものように窓際に座り、曇りガラスを指でなぞりながら、病院の門へと続く道をじっと見つめる。頭の上のアホ毛を小さく揺らしながら、あの一台の車が、あの懐かしい二人が現れるのを信じて待ち続けていた。
「まだかなぁ……」
しかし、太陽が地平線の向こうに沈み、空がオレンジ色に染まっても、二人が現れることはなかった。静まり返った病室のドアが、無機質な音を立てて開く。入ってきたのは両親ではなく、申し訳なさそうに視線を落とした看護師だった。
「ニニィちゃん、ごめんね……。お父さんとお母さん、急な出張が入って、今日は来られなくなったって」
その瞬間、ニニィの小さな肩がびくりと震える。期待に満ちていた瞳の灯が、ふっと消えた。けれど彼女は、両親から教わった「強さ」を必死に手繰り寄せる。
「……そっか。お仕事、頑張ってねって伝えといてください」
ニニィは精一杯の微笑みを作ってそう答えた。看護師が痛ましげに頷き、部屋を去っていく。ドアが閉まり、完全な静寂が訪れた途端、彼女の張っていた糸がぷつりと切れた。
ニニィはベッドの上にうずくまり、真っ白な犬のぬいぐるみに顔を押し当てる。
「うっ……、う、うぅ……」
堪えきれない涙が、悲しみとともに落ちていく。窓の外には、同年代の子供たちが、友達と笑い合いながら帰路につく姿が見える。彼らにとっての「日常」は、ニニィにとってはどんなに手を伸ばしても届かない、宝石のような「奇跡」だった。
「会いたいよ……お父さん、お母さん……」
この病院という白い箱庭の中で、ニニィにとって両親は世界のすべてであり、唯一の光だった。胸を引き裂くような寂しさが押し寄せるたび、彼女はそれを心の奥底へと無理やり押し込める。
自分が泣けば、お父さんたちは困るはず。自分が寂しがれば、お母さんたちは悲しむ。いつも笑顔で、明るく、優しい子でいてほしい――。
その切なる願いに応えるために、五歳の少女ニニィ・ロイスは自分の心を殺し、孤独という名の闇の中で、両親のために娘として振る舞っていた。それは彼女の優しさであると同時に、自分に課してしまった重い鎧のようだった。




