第72話『ルーメンの新たな誓い』
オーリアの瞳は焦点が合わず、ぎらついた光だけが揺れていた。
「私の愛する子供たちをよくも!!」
よろめいた足取りで前へ出ながら、オーリアはバルドに指を突きつける。
「お前は家族を見捨てるのか!?」
バルドは目を閉じ、呼吸を整えた。
「あんたが先に俺を切り捨てたんだ。もう戻る義理なんてないだろ」
その言葉に、オーリアの頬を涙がつーっと落ちる。
「なんと哀れな子だ……」
キールが前に出て何かを言おうとした時、バルドは手を出して止める。
「ここは俺に任せろ」
バルドは父へと歩み寄り、オーリアは顔を輝かせた。
「おぉ……! ついに改心してくれたのか!」
次の言葉は、喉を裂くような痛みに満ちていた。
「いい加減、目を覚ませよ。あいつらはもう、あんたを“親”だなんて思ってない」
オーリアの表情が壊れ、怒声が響く。
「黙れ!! 私を愛し、尽くして我が子たちをお前は見ていなかったのか!? 」
バルドは唇を噛み、視線をそらさずに返した。
「見てたよ。でもな、あれは“愛”なんかじゃない。そんな絆を抱きしめてて虚しくないのか?」
その瞬間、オーリアの顔がぐしゃりと歪む。
「やめろ!!」
キールの背後で、ゆらりと“二つの影”が立ち上がった。
ゾディアとルビルの目の焦点が定まりはじめ、まとわりついていた呪縛がほどけていく。
「おい、父上。なんだよ、これ」
睨みつける相手はバルドでもキールではなく、オーリアだった。
ルビルは口元を押さえ、その場で嘔吐する。
「お父様に……わたし……うぇ……」
オーリアは息子と娘を見て、まるで子どもの寝起きを見るような笑みを浮かべた。
「おお、起きたか! さあ、このわからずやをどうにかしてくれ!!」
「……は?」
ゾディアは落ちていた瓦礫を、爪が割れそうな勢いで握る。
「誰があんたのために動くんだよ。人の心を操り、いじり回して」
瓦礫をオーリアに向けて放った瞬間、バルドが影を使って位置を強制的にずらす。
オーリアは驚き、尻もちをついた。
「や、やめろ! お前たちは……私を愛して……」
その言葉を、ルビルの怒号が遮る。
「愛してるわけないでしょ!! あんたのせいで、何度も、何度も……っ」
ゾディアも続いた。
「そうだ、愛してるわけがない。あの“従順な俺たち”が、本当の俺たちだと思ってたのか?」
二人の瞳に宿っていた従順な光は、跡形もなく消えていく。
オーリアの中で何かが壊れる音がした。
「う、うあぁぁぁぁぁ!!」
ゾディアは冷笑を浮かべ、蔑むように言う。
「お前ら、ありがとな。おかげで全部、思い出した」
ルビルも髪を揺らしながら、憎悪に満ちた声で続いた。
「屈辱を味わった分、殺してやる」
ゾディアはゆっくりと言い放つ。
「もちろん……“お前ら”もな」
瞳の奥で、完全な悪意が笑った。
キールとバルドは瞬時に臨戦態勢へ移る。
しかし、その時だった。
オーリアは力なく立ち上がり、指先を震わせながら呟いた。
「愛していないだと? 私は……私は一体……なんのために……」
手がだらりと垂れ下がり、肩が震えている。
「私の愛した子は死んだのか、なら……」
ポケットから小さなボタンを取り出す。
「ここにいる悪魔を祓わねば」
オーリアは震える親指でボタンを押した。
「やめろ!!」
バルドは影を走らせて止めようとしたが、わずかに間に合わなかった。
ゾディアとルビルの体が、内側から焼けるように痙攣し始める。
「う、あぁぁぁぁぁ!!」
「ぐあああああ!!!!」
喉が裂ける音、骨が軋む音、皮膚が乾いた紙のようにひび割れている。
「な、なにこれっ!? ぐ、ぐぁ……!」
ゾディアは自分の腕を掴み、だが指先がずるりと滑り落ちていた。
ルビルは地面を爪で掻きむしりながら叫ぶ。
「やだ……いやだ……や、やめて……お父様……!! おぇっ……!!」
オーリアは笑っていた。
瞳孔が開き、唇がだらりと垂れ、異様な喜びに震える声。
「そうだ……いいぞ……お前たち……! 今から“あっち”でまた一緒になれるんだ!」
バルドはその姿を見て、呼吸が止まった。
二人の体はひび割れ、崩壊が進む。
足首が砕け、肩が落ち、まるで砂のように形を保てなくなっていた。
ゾディアは血を吐きながら、最後の力で吐き捨てる。
「てめぇの“愛”が……いちばんくるってんだよ……」
ルビルは涙と涎まみれで、喉から押し出す。
「あんたなんか……愛して……るわけ……ないっ……!」
そして――二人は、バラバラに崩れ落ちた。
骨も肉も砂のように砕け散り、そこにはもう何も残らなかった。
キールは息を呑み、顔が青ざめる。
「こんな……」
バルドも言葉も失い、動けなかった。
その虚無の前で、オーリアはひとり笑っていた。
「はぁ……はぁ……ふふ……っ。ゾディア……ルビル……チフカ……もう少しだ! すぐに、お前たちのところへ行く!」
オーリアの完全に壊れきった目にバルドは拳を握りしめる。
「どこまで堕ちたんだ」
オーリアは涙をぼたぼたと垂らしながら、狂ったように叫んだ。
「黙れ!! お前が……お前が刃向かわなければ!! そいつが来なければ!! 全部平和だったんだ!!!」
バルドはゆっくりと、吐き出すように言う。
「どこが平和だよ。 家族をモノみたいに扱って……愛なわけがない。あんたは何を望んでる?」
オーリアは唇を震わせ、涎を垂らしながら感情を爆発させた。
「どれだけこと成し得ても、家族がいなければ心が埋まることはなかった。だが、我が子たちは、私を物のように扱い、蔑んだ!」
バルドはその姿を見て、“あの日の自分”と重なったのを理解した。
拒絶され、捨てられた自分。
ただ、愛されたかった。
ただ一度でいいから、“家族として息子”と呼ばれたかった。
だが――オーリアは家族の狂気に飲まれ、戻れなかった。
そして、バルドは前に一歩踏み出す。
バルドは黙って俯くと、胸元に隠していた写真を指先でつまみ出した。
しわだらけで、端が欠けて、色褪せている。
それでも、そこには確かに“家族だった頃”の三人が写っていた。
母フリッグ、若い頃のオーリア、そして幼いバルド。
バルドはその写真をそっとオーリアの前に差し出す。
「母さんのことは、残念だったよ」
ぽつりと落ちる声は、不思議なくらい静かだった。
「俺は、あんたと暮らしたかった。あんたの望んでいる家族になれたはずだったが、それをあんた自身が捨てたんだ」
写真を受け取る手は、老人のように力なく震えている。
「フ……リッグ……」
かすれた声で妻の名を呼ぶと、オーリアはバルドのズボンを掴み、崩れ落ちるように縋りついた。
「今からでもやり直せる! 頼む。私は……私は……!」
その必死の声は、狂気ではなく、傷ついた声だった。
バルドは、それでも首を横に振る。
「俺も、そうしたさ。でも、もう前を向くよ。過去に縛られるためにここに来たんじゃない」
バルドは視線をキールへ向けた。
「今は俺を待ってくれてる友達がいる」
キールはどこか温かい笑みを浮かべている。
オーリアは喉の奥から声にならない呻きを漏らした。
「あ……あぁぁ……ッ……」
バルドはしゃがみ込み、オーリアと目線を合わせる。
「俺は息子として、何もしてあげられなかったかもしれない」
オーリアの涙が、写真の上に落ちて滲む。
「でも、それはあんたが決めたことでもある。どっちが悪いとか……そういう話じゃない。仕方なかったんだよ。俺たちには」
バルドはそっと息を吸い、残っている左目――母譲りの優しい眼でオーリアを見つめた。
「でもな……」
声が限界まで柔らかくなる。
「そのおかげで友達を見つけられたよ。 あの時、俺を生かしてくれたおかげで」
そして――ほんの少し、笑った。
「“パパ”。 あの頃、愛してくれてありがとう。良くも悪くも……今の俺があるのは、パパのおかげだよ。ちゃんと感謝してる」
オーリアは、写真を胸に抱きしめる。
崩れ落ちるように泣き、その涙は、狂気でも怒りでもなかった。
ただの――ひとりの父の、遅すぎた後悔だった。
22年前 (バルド5歳)
「ねぇ、パパ!! ママ!!」
◆◆◆◆は両手を広げ、飛び跳ねていた。
「ぼくね、三人で“思い出”つくりたい!!」
フリッグは少し驚いた顔をしてから、胸の奥でなにかを押し殺すように笑みを浮かべる。
「そうね。でも、ごめんね……どこにも行けないの」
オーリアは唇を噛みしめるように俯き、膝を折って◆◆◆◆の目の高さまでしゃがんだ。
「すまない。必ず、どこかに連れていってやるからな」
◆◆◆◆は首を横に振りながら笑う。
「どこでもいいよ!! ぼく、三人で笑ってたいだけ!!
パパとママがいれば、どこでも楽しいもん!!」
その言葉に、二人の大人は同時に、息をのんだ。
フリッグがゆっくり◆◆◆◆の頬に手を当てて言う。
「そうね。じゃあ……」
その時、アエリモのマスターがカメラを構えた。
「撮るぞー!! いい顔しな!」
三人は家族写真のように並んだ。
フリッグは、どこか守るような優しい笑み。
オーリアは、ぎこちないが誇らしげで、“父親”として胸を張った笑顔。
そして、◆◆◆◆は――はしゃぎすぎて目が細くなるほどの無邪気な笑顔。
カシャッ。
レンズ越しの光が三人を包み込んだ。
出来上がった写真を三人で覗き込む。
「まぁ、いい写真ね」
フリッグがそっと微笑む。
「大事にしないとな」
オーリアの声は照れくさそうで、どこか優しかった。
バルドは写真を抱きかかえ、ぴょんぴょん飛びながら叫ぶ。
「ぼくこれ、一生だいじにするの!!」
二人はその無垢な笑顔を、まるで宝物を眺めるように見つめていた。
どこにも行かなかった。特別なことなんて、何ひとつなかった。
だけど、確かにそこには家族の形。
バルドの人生で、もっとも優しく、そして、永遠に戻らない“最高の思い出”がその一枚に刻まれていた。
オーリアは、堪えていたものが一気に崩れたように涙ぐんだ。
「私はフリッグと、ルーメン……お前たちを守るどころか、見捨ててしまった。なんで忘れてしまったんだ……あぁ、あぁ……」
掌の中の古い写真を握りしめたまま、オーリアはバルドを見上げる。
ただ、取り返しのつかない過去に呑まれた父親の顔だけがあった。
「本当にすまなかった、ルーメン。私はもう取り返しのつかないことをした。だが、せめて……せめてお前のために何かしたい」
その懇願は、今さら届くはずもないのに、必死で、あまりに弱い。
バルドは、これまででいちばん静かで優しい微笑みを浮かべた。
「なら……この先の俺の人生を見守ってくれ」
オーリアは、何度も何度も強く頷く。
「ありがとう……ありがとう。死んでも、お前の幸せを見守る。もう二度とこんなことはしない」
バルドが静かに立ち上がると、すぐ横にキールが並んだ。
「本名はルーメンなんですね」
バルドは小さく頷く。
「どうして”バルド”なんですか?」
その問いが落ちた瞬間、バルドの中で、消えかけていた灯がふっと揺れた。
――母と、あの小さな部屋で、物語を読んでいたクリスマスイブの夜。
「バルドル、かわいそう!!」
幼いルーメンは本を抱え、眉をつり上げて怒っていた。
「僕、ロキのこと許せない!!」
隣で本を読んでいたフリッグが、思わず笑う。
「ふふ……ルーメンは本当に優しいのね」
ルーメンは胸を張って、高らかに言った。
「バルドルの無念は、僕が晴らす!!」
フリッグは驚いた顔をして、それでもくすっと笑いながら首を振る。
「これはフィクションよ。ほんとにもう、真に受けるんだから」
けれどルーメンは真っ直ぐで、まぶしい目のまま言い返した。
「僕はママの光で、希望なんだ。もし生まれ変わったら、バルドルみたいにならないように、 みんなを助けるんだ!!」
その言葉にフリッグは、堪えきれず目を潤ませる。
「そうね……ルーメンならきっと、バルドルみたいに悲しい人たちを生まないようにできるわ」
二人は顔を見合わせて笑い合い、またページをめくって、物語の続きを読んだ。
あの夜の温度と声は、全部失われたはずなのに、なぜか今も胸の奥で、ひとつだけ消えずに残っている。
バルドはその記憶を抱いたまま、微笑んだ。
「……別に、理由なんてないさ」
そう言いながらも、その名前に、母の声と、あの頃の自分の誓いが
まだ確かに息をしていることを、バルド自身がいちばんわかっていた。




