第69話『夜明けの光を見守る友』
キールが最深部へ到達する三十分前――。
バルドは研究所をひとり進んでいた。
(これで何もかも終わる)
その瞬間、脳裏に浮かんだのは、なぜかリリアとキールのまっすぐな眼差し。
胸の奥を小さな針で刺されるような感覚に舌打ちする。
「なんでこんな時に」
足を止めずにゲートを開けた瞬間、バルドの呼吸が乱れた。
そこにはルビルの背に腰をおろし、足を組むオーリア。
後ろでゾディアが肩を揉んでいるその光景はまさに歪みそのもの。
血の気が沸騰するように込み上げ、バルドは叫ぶ。
「オーリア・ハールメス!! お前を――お前たちを殺しに来た!!
俺のために。そして……」
バルドはそれ以上は言わずに、影を纏って攻撃を仕掛けようとした時だった。
「◆◆◆◆……今まで、すまなかったな」
その一言で、バルドの動きが止まる。
オーリアはルビルから降り、ゆっくり歩いてきた。
あの時と同じ“優しい父の声”。
「お前にはひどいことをした。だがな、今からでもやり直せないか? 私は病気でもう長くない。死ぬ前に……“家族として”一緒にいたいんだ」
気づけば、オーリアの腕がバルドを抱いていた。
暖かいぬくもり。
その瞬間、バルドの胸の奥で何かが決壊する。
(やめろ。騙されるな。こいつは――)
思考が叫ぶと同時に、別の声が頭の中によぎった。
(パパに抱きしめられたことなんて、あの日から……。
やっと……やっと……一緒に)
目からこぼれた涙は止められなかった。
幼い頃から渇望して、それでも諦めて、憎んで、それでもまだ望んでしまったもの。
父の言葉に縋りつき、バルドはその渇きに逆らえなかった。
「パパ……俺も、一緒にいたい。どうしたらいい?」
オーリアはその顔を覗き込み、完全に狂った光で笑う。
「まずは、私の“椅子”になりなさい。家族団らんの始まりだよ、◆◆◆◆」
ほんの一瞬だけ、バルドは疑問の影を落とすが、その影を自分で潰した。
(……いい。もういい。パパが僕を必要としてくれるならそれだけで)
バルドは微笑んで頷いた。
「わかった。パパのためなら」
そのまま、静かに膝を折り、オーリアの椅子になった。
誇りも、怒りも、矜持も、全て置き去りにして。
時は現在へ戻る。
冷たい鉄の鎖がキールの皮膚に食い込み、擦れるたび血が滲んだ。
その正面に立つルビルは、怒りで顔を歪ませながら拳を構え、そこに“光”を凝縮させていく。
光は熱を帯び、空気を焦がし、部屋全体が焼ける匂いに満たされていった。
「愛を知らない者は死ね!!」
叫びは狂気に染まり、灼熱の拳が一直線にキールの腹へ迫る。
キールは反射的に腹部に水を纏わせ、防御壁を作った。
しかし光の温度は異常で、水の膜は触れた瞬間、蒸気に変わり白い霧となって散る。
(このままじゃ焼き切られる!!)
キールは咄嗟の判断で“全方向へ向けた爆発”のように、周囲に水を放出した。
水が全てを吹き飛ばすように床を抉り、空気をねじ曲げるほどの圧。
「なっ……何これ!!!」
ルビルは悲鳴をあげる間もなく水圧に呑まれ、背中から壁に激突した。
ルビルはその場に崩れ落ち、咳き込みながら必死に息を吸い込む。
同時に、ゾディアが操っていた鎖も水圧を受け、金属音を響かせながら砕け散った。
「はぁ……っ……はぁ……っ……」
拘束から解放されたキールはその場に膝をつき、肩で荒い呼吸を繰り返す。
(まずい……水を使いすぎた。残りはほんのわずかしか……)
キールは立ち上がろうとするが、膝が震え、床に手をついて支えるしかなかった。
ルビルが怨念のような目で見つめながら立ち上がる。
「痛いじゃない!! ゴミが調子に乗らないで!!」
その横で、ゾディアが水で濡れた鎖の残骸を踏みつぶしながら進み出た。
「俺たち家族に歯向かう危険さをもう一度教えた方がよさそうだな」
再びゾディアが腕を広げる。
その指先から鎖が“無数”に生まれ、蛇の群れのようにうねり、キールへと標的を定めた。
同時に、ルビルは両手の拳を胸元で組むように構え、そこに白熱した光を集約させていく。
キールは荒い息を整えながらゆっくりと膝に手をつき、立ち上がる。
(まだ、終われない。僕は……まだやれる)
片手を胸の前に掲げると、指先に透明な球状の水が集まり始める。
その水は彼の意志に応じて細長く伸び、やがて鋭く研ぎ澄まされた刃の形へと変化した。
光を返すほどに透き通った刀身は、ただの武器ではなく、彼の決意そのものだった。
キールは静かに刀を握り直し、目を開く。
「絶対にこの歪んだ“愛”を断ち切ってみせる」
その言葉と同時に、鎖が一斉に襲いかかってきた。
床を擦りながら巻き上がる鎖の渦、ルビルの光の拳が一直線に突き進んでくる。
キールは地を蹴り、刀を大きく振り抜いた。
キールを襲う鎖は、刀で切断され、金属片となって床へと散る。
ルビルが光の拳を振り下ろしてくるが、その軌道を読み切ったキールはわずかな体捌きで拳を外に流し、同時に刀を滑らせて鎖の第二波を断ち切った。
「くっ……こいつ……なんなのよ!!」
ルビルの顔に焦りが走るが、キールは言葉を返さない。
キールが見ていたのは、戦場の奥に座り込むバルドだった。
「バルドさん!!!!」
その一言に、バルドの視線がわずかに揺れる。
キールはその隙も逃さず、叫び続けた。
「家族が大切なのはわかります!! 僕も母親を愛していました」
ルビルの拳がキールの頬をかすめ、光が弾ける。
だがキールは怯まず、刀を旋回させて鎖をまとめて切り裂いた。
水の刀が光を受けて美しく輝き、その輝きはまるでキール自身の覚醒を示すかのようだった。
ルビルが悲鳴混じりに吠える。
「ふざけんなぁぁぁぁ!!」
ルビルは全力の拳を振りかぶった。
キールは拳をかわして、刀の反りの部分をルビルの首筋に軽やかに当てる。
強すぎず、弱すぎない――完璧な加減の一撃。
ルビルの身体がふらつき、そのまま床に崩れ落ちた。
視線の先、バルドは目を見開いたまま動けない。
「でも、母を愛してないと気づいたんです。世界でひとりになるのが怖くて、縋っていただけだった。でも……大切な友達ができてわかったんです。
“誰かと生きること”、“繋がり”って恐怖だけじゃなくて……救いにもなるんだって」
バルドの瞳孔が大きく開く。
「……友、だち……?」
その言葉は、長い冬の隙間から落ちてきた光のように、バルドの喉の奥から勝手にこぼれていた。
彼の人生にあったのは――家族という檻と、恋人という幻影、それだけだった。
バルドの胸の奥で、凍りついていた何かが軋む音を立てる。
オーリアは焦燥を隠せずに叫んだ。
「友など家族には勝てん!! ゾディア、早く殺せ!!」
「分かっています。父上!!」
ゾディアは狂ったような笑みで鎖を限界まで生み出す。
キールは崩れ落ちそうな膝を無理やり立ち上がらせ、水の刀で迫りくる鎖を切り裂きながら、必死に声を張り上げた。
「僕に“繋がり”を教えてくれたのは……亡くなった友達と、リリアさん、そしてみんななんです!!」
鎖がキールの腕に絡んでも、キールは笑う。
「だから――バルドさん! 僕とお友達になりませんか!?
一緒にやるバドミントン楽しいですよ! だから、」
バルドの頬を、勝手にひと筋の涙が伝った。
止めようとしても、涙は勝手に落ちていく。
キールは鎖に巻きつかれ、空気を奪われていった。
「戻って……きて……ください……」
声は震え、息は細くなる。
「バ……ルド……さん……っ……」
オーリアは狂気の笑みで言った。
「見ただろう? 友など裏切りの入口だ。家族こそが絶対だ!!」
バルドの頭の中に、いくつもの“光”が一気に流れ込む。
――「ねぇ英くん。もし別れても友達でいてね!」
リリアのまぶしい笑顔。
――「なんだお前、結構いいやつだな! 気が合いそうだ!」
サイラスのはにかんだ笑顔。
――「ひとりじゃなくていいんですよ」
キールの、真っ直ぐすぎるまなざし。
胸の奥で、死んだはずの心臓が、痛みに似た熱を取り戻していく。
バルドは奥歯を噛みしめ、震える息を吐き出した。
(なんだよ、これ。全部壊したはずなのに……まだ……俺は……)
復讐、憎悪、奪われた恋人、埋まらない心の穴。
“奪われる前に奪う”と誓い続けた暗い信念。
すべてが、この瞬間だけは黒い霧が晴れていった。
「ハハハハハ……」
バルドは突然、胸の底から笑い声をこぼす。
オーリアに眉間にしわを寄せた。
「何がおかしい?」
バルドは額に触れ、深く息を吐く。
(ああ、本当に俺はどうしようもない人間だ。
心が光にも影にも動いちまう。そんなブレブレの人間だ。
それでも、これだけは揺るがない)
バルドが、自らオーリアをそっと押しどけて立ち上がった。
「な……何をする!! 椅子に戻れ!!」
オーリアの声は恐怖と焦りに濁っていた。
バルドは、初めて父に向けて“憐れみ”の眼を向けて言う。
「悪いな、親父」
バルドの足元から影が沸き立ち、その全身を漆黒の鎧のように包み込んだ。
「俺は友達を、レストを信じる。もうなにがあってもこれは揺るがない」
リリアとキールが二人で笑いあっている光景が、頭の中に輝くように浮かぶ。
あの時、自分が抱いていた希望も、どこかで信じていた未来も、気づけば二人の背中に重ねていた。
(俺はリリアを幸せにできなかった。だが、レスト……お前ならできるよな。
お前たちは俺の光だ。だから、お前らのまぶしい光の影の中から見守ることにするよ)
バルドの姿が消え、ゾディアの足元に落ちた影が異様にうねった。
影から飛び出したバルドの拳が、ゾディアの背中を爆撃のように突き抜ける。
ゾディアは叫ぶ間もなく壁に叩きつけられた。
「がっ……!!?」
影が荒れ狂う鞭のように伸び、キールを縛る鎖へと襲いかかる。
影の腕が十、二十、無数に増え、鎖を力づくで引き裂き、鎖は粉々に砕け散った。
キールはその場でうずくまり咳をする。
「げほっ……げほっ……」
バルドはその姿を見て、鼻で笑いながら言い放った。
「助けに来た奴が、助けられてどうすんだよ」
キールは胸を押さえながら、息を切らして返す。
「すみません。僕……いつもこうなんです」
バルドは笑いながら、信じられないほど優しい手つきでキールへ手を差し出す。
「レスト。俺の初めての友達になってくれ」
キールの瞳が大きく開き、その顔が子どものように綻んでいく。
「もちろんです!! いっぱい話して、ケンカしましょう!!」
お互いの手を強く握り、バルドの心にあった闇は、ほんの少しだけ薄くなる。
長い長い夜の底で、バルドの心に、かすかな朝が差し込むように。
これは――影で生きてきた男が初めて光と影を選んだ、その第一歩だった。




