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第66話『影の中に沈む傷』


バルドは長い時間、言葉を失ったまま硬直(こうちょく)していた。

呼吸の仕方すら忘れたように、ただクファルを見つめる。



「クファル、嘘だよな??」



クファルはうつむいたまま、弱々しく首を振った。

バルドは理解を(こば)むように、空笑(からわら)いで言う。



「いつものからかいだよな? なぁ、クファル。

 俺を焦らせたいだけの…悪い冗談なんだろ?」



返事のない沈黙が、刃物のように胸を刺した。

クファルは苦しそうに顔を上げ、震える声で言う。



「本当に……ごめんなさい」



その一言で、バルドの全身がか細く震えた。



「いったい誰と……なんで……」



怒りよりも先に、理解できないという困惑(こんわく)が勝っていた。

クファルは唇を()んだまま、言葉を(しぼ)り出すように告げる。



「ゾディア・ルミータの社長と」



その名を聞いた瞬間、バルドの体が強張(こわば)った。

目の奥が真っ赤に染まっていくようだった。



「あいつ……」



血が(にじ)むほど強く拳を握りしめる。

クファルは必死に弁明(べんめい)した。



「あの人は悪くないの。私が絵を褒められて、浮かれたの」



クファルは視線を落とし、胸の前で握った手の指先が震える。

言葉と一緒に、どこか飲み込みきれないものが喉の奥でつかえているようだった。

バルドは静かに(にら)む。



「あいつを(かば)うのか」



クファルは目をそらし、誰よりもその視線から逃げるように息を呑んだ。

バルドの声がかすれる。



「別れて……どうすんだよ……」



バルドの目に涙が()まり、視界が揺れた。

クファルは息を詰め、言う。



「結婚を申し込まれたの」



バルドは(ひざ)から崩れ落ち、声を(しぼ)り出した。



「俺との結婚の約束は?」



クファルは言葉を発するたびに手が小さく震える。



「わかってて行ったの。あの人は私の絵をもっと世界中に広げてくれるって夢みたいだった」



声は震えていたが、その震えは涙ではなく――“言い訳を重ねて自分をごまかそうとする痛み”だった。



「それに……お腹の子に、罪はないでしょ?

 今の私たちには、この子を育てられるほど余裕(よゆう)……ないよ」



バルドの瞳から、光がひとかけらずつ消えていく。



「自分勝手すぎないか。俺の気持ちはどうなるんだよ」



声は乾いて、ひび割れていた。

クファルはかすかに顔をそむけながら言う。



「あんたと本当に結婚したい。

 でもね……あんたの絵を見るたびに苦しくなったの。

 好きなのに、隣にいると追い越されてく気がして。

 でも、あの人は、その全部を受け止めてくれたの」



バルドの脳裏に、ゾディアの不敵な笑みが浮かび、指先が白くなるほど拳を(にぎ)りしめた。

その憎しみを押し殺し、それでもクファルを取り戻そうと手を差し出す。



「クファル、お前は何か(おど)されてるんだろ?言ってくれよ、頼む」



クファルは何も言わずに、首を振った。

バルドはそれでも力強く伝える。



「早まらないでくれ。お腹の子は俺たちで育てよう。だから……あいつのところへだけは行っちゃだめだ」



バルドの瞳は、壊れかけの希望を必死に(つな)ぎ止めていた。

クファルは一瞬その手を見つめる。

ほんの一瞬、指先が触れかけたが、彼女はゆっくりと手を遠ざけた。



「バルドは本当にやさしいね。でも、あの人のことを知ってるならわかるでしょ?」



クファルは涙を(こら)えるように声を震わせる。



「私はバルド、あんたを愛してる。

 でも……それ以上に……あの人のことをどうしようもないくらい……」



その瞬間、バルドの胸の奥で“何かが決定的に音を立てて折れた。

かつてのクファルの言葉が、(どろ)のように脳内に流れ込んでくる。



『私が気に入ったものを手放すわけないだろ』



――全部が嘘だったのか?



『あんたを幸せにするのが、私の役目なんだから』



――全部が軽い言葉だったのか?



『あんたと出会えてほんとによかった!!』



――それとも最初から、俺が勘違いしていただけなのか?



胸の奥で、何年間も積み上げた幸せが音もなく“深い影”へと崩れていった。

クファルは顔を伏せ、(しぼ)り出すように(つぶや)く。



「全部、私のせい。 幸せにしてあげられなくて……ごめんね……」



バルドは怒鳴ることもできなかった。

崩れた心を抱えたまま、静かに、無言で部屋を出る。



(結局、人間は自分のことしか考えない。だったらもう二度と――)



夜空の光は、もう二度と二人を照らすことはなかった。





翌日



バルドはゾディアの家に忍び込み、怒りに任せて拳を振るう。

しかしボディガードが壁のように現れ、ほんの一撃を入れただけで即座(そくざ)に取り押さえられた。

(なぐ)られたゾディアは頬を押さえながら笑った。



数か月後 裁判所



バルドが少し(なぐ)ったのは事実だが、ゾディア側が巧妙(こうみょう)(いつわ)った証言・映像により、“計画的な殺人未遂(みすい)”として扱われた。


そして、判決が言い渡される。



「被告を絞首刑(こうしゅけい)(しょ)す」



言い渡された瞬間、バルドは呆然(ぼうぜん)と立ち尽くした。



「なんで殴っただけで死ななきゃならねんだよ!」



ゾディアは法廷の中央で、わざとらしく肩をすくめて笑う。



「はぁ、ほんとバカだな。

 お前みたいな“色”の連中は、生きてるだけで死刑当然なんだよ」



その隣にはお腹が(ふく)れたクファルが座っていた。

バルドは彼女がなぜここにいるのかわからず、困惑しながら見ている。


クファルはずっと下だけを見ていた。

顔は強張(こわば)り、指先が(ひざ)の上で固く(にぎ)られている。


ゾディアは、そんな彼女の肩に“自分のモノだ”と言わんばかりに腕を回しながら、バルドの心をへし折るように言った。



「身ごもるほどのアツさってやつを、 俺はちゃんと持ってんだよ。

 クファルはそれに応えただけだ」



バルドは叫び出しそうになる。

だが警官に押さえつけられ、身動きがとれない。


ゾディアはゆっくり歩み寄り、バルドの目の前まで来てわざと声を低くした。



「お前さぁ……クファルがどんな顔で俺に(また)を開いたと思う?」



「きさまぁぁぁ!!!」



バルドの目は怒りに満ち(あふ)れ、ゾディアを(にら)んでいる。

ゾディアはとどめを刺すように笑った。



「クファルのから俺のほうに歩み寄った。それにクファルはお前のた――」



「やめて!!」



クファルが鋭く叫ぶ。

(のど)が裂けるような悲痛な声だった。



「《《あのこと》》だけは言わない約束でしょ」



ゾディアはつまらなそうに肩をすくめる。

バルドは警官に押さえつけられたまま連れていかれ、涙でぐしゃぐしゃの顔でクファルを見つめていた。



「こんなのあんまりだ」



クファルは顔を上げられず、涙だけを床にこぼす。



「本当に……ごめんなさい……」



その小さな声だけが、法廷の冷たい空気に沈んでいった。





刑務所



バルドは、鉄格子(てつごうし)の向こうに落ちる自分の影をただ見つめていた。

瞳は死んだように(くも)り、呼吸だけがかすかに上下する。



(全部……全部、あの一家のせいだ。あいつらのせいで……俺の人生は……)



あの日から胸の奥で燃え続けていた怒りは、もう“怒り”ですらなくなっていた。



そう心の中で(つぶや)いた“その瞬間”――影が揺れた。

風など吹いておらず、床に落ちた影だけが、ひとりでに震えている。

置かれた食べ物が、黒い水面に沈むように影に飲み込まれた。



「……は?」



バルドはそっと手を伸ばす。

影の中に沈んだリンゴを引き抜いた。

まるで(あご)()(つぶ)されたように、形が崩れている。



「なんだ……これ……」



影が、形を変え、伸びたり、細くなったり、波立ったりした。



(いや、違う……俺が?)



バルドは震える指先を影に向けると、影が指を追うように動く。



(俺の意思で?)



恐怖ではなく、身体の奥底で「何か」が静かに笑った。



数日。数週間。

彼はの牢屋の中で毎日、少しずつ試していった。



「影で“俺自身”を作れる」


影で作った“分身”が、バルドの隣に立つ。

バルドと容姿は同じだった。



「影で少し容姿を変えられる」



分身の輪郭(りんかく)を操作すると、背が伸びたり縮んだり、顔の一部が変わる。



「影を広げられるし物を入れられるのか」



床一面に黒が広がり、まるで夜が牢屋に落ちてきたようだった。

そして何より――影の中に、自分自身が“溶ける”ように入っていける。



(これを使えば――)



牢屋という牢屋、鍵という鍵、監視という監視、すべてが意味をなさなくなる。

バルドは冷たく微笑んだ。



脱獄を決意したある夜。



分身を牢屋(ろうや)に残し、実体は影へと沈む。

冷たかった影は、今では温度すら感じない“自分の居場所”だった。


壁の影へ溶け込み、次の影へ渡り、死角へ潜り込み、足音を一つも立てないまま移動する。


そして――夜が明けた頃、バルドはレアマシーの街のどこかに、静かに立っていた。

誰にも気づかれずに脱獄した。



バルドの脱獄が判明したのは、二ヶ月も経った後のことだった。



その後、顔写真はレアマシー全土に張り出される。

バルドは影の中に(ひそ)み、昼も夜も、人の目を()けるように生きるしかなくなった。


代わりに足を踏み入れたのは闇の世界。


しかし、ひとつだけどうしても消せないクファルの存在。

ゾディアの腕の中で(ふく)らんだ腹。泣きそうな顔でバルドを見ずにいた彼女。


ゾディアに復讐(ふくしゅう)して八つ裂きにしたいそう思えば思うほど、頭の奥で別の声が邪魔(じゃま)をした。



(ゾディアに近づけば、クファルが傷つけられるかもしれない)



あれだけ裏切られたのに、それでも彼女が傷つくのは嫌だった。

そして静かに蓄積(ちくせき)されたものが、彼を全てを変える。



(関わるから裏切られる。信じるから奪われる。優しくするから壊される。だったら――)




“傷つけられる前に、傷つける”




それが唯一自分を守る方法だと気づいた。



(奪われるくらいなら、先に奪え。 裏切られるくらいなら、最初から信じるな。

 そして、最初から誰にも俺を触れさせない)



バルドはゆっくりと、夜のように黒い影の中へ沈む。



誰にも触れず、傷つける存在。それが、これからの“バルド”だった。


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