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第65話『バルド』



画家の老人の拍手はくしゅが、広いギャラリーに静かに響いた。



「十五歳でこれほどの才能。君の名前は?」



少年は、(うつむ)きながら低く答える。



「バルド。それ以下でも以上でもない」



右目に深い傷跡は、彼の過去を雄弁(ゆうべん)に物語っていた。



オーリアに捨てられたあの日から、◆◆◆◆という名前を捨て、少年は街の影の中をさまよい続けていた。

空腹と寒さが当たり前になったころ、彼は時折(ときおり)、壁に絵を描いていた。

それだけが唯一、心の重さを忘れられる瞬間だった。




ある日。



落書きのように描いた壁画(へきが)の前に、ある軍人が立ち止まる。



「君の才能は本物だ。ぜひ、紹介したい人がいる」



「おっさん誰だよ」



バルドは(にら)むように聞くと、軍人は手を差し伸べた。



「私はフラーケン・ディラック。絵には目がなくてね」



少年はその手をゆっくりとり、自分の道を歩み始める。



(これからは何もかも忘れて生きるんだ。もう他人に任せるんじゃなく、自分で幸せを(つか)んでやる)



少年はバルドと名乗り、それから何度も賞を獲得し、絵で生計を立てるようになった。



だが、審査室では冷たい声が飛ぶ。



「作者は黒人なのか?なら審査の外だ。話にならん」



「肌が黒い者の描いた絵など、誰が買うと言うのだ」



変わっていくレアマシーの中で、時折見せる差別は形を変えて息を(ひそ)めていた。




それでもバルドは努力の末、レアマシー最高峰(さいこうほう)の芸術賞トリンガを獲得。


18歳という異例の若さで最年少受賞者となったその夜、バルドは照明に照らされた自分の絵の前に静かに立っていた。



深い闇を切り裂くような絵。

その奥に、誰も触れられない孤独が沈んでいる。



「ねぇ、あなたの絵――全部、悲しいね」



緑髪の女性が、シャンパンを持ったままバルドの横に立っていた。

バルドはゆっくり目を細める。



「どういう意味?」



彼女は(わる)びれもせず、軽い笑みで答えた。



「つまんないってこと。もっと明るい絵を描かなきゃダメよ。

こんなの、見てて息が()まるじゃない」



その言葉にバルドは舌打ちをする。



「賞を取ったのは俺だ。あんたの好みなんか関係ない」



緑髪の女性はむくれた顔になり、頬をぷくっと(ふく)らませた。



「はぁ?  私の“三連勝”を止めたくせに(えら)そうね。で、このあと空いてる?」



バルドは露骨(ろこつ)に嫌そうな顔をし、深く息を吐く。



「空いてない」



きっぱりと言い捨てたが、彼女は突然バルドの手をつかんだ。



「いいから付き合いなさいよ。私の絵、あなたより絶対いいから。見たら分かるわよ」



強引で、自由奔放(じゆうほんぽう)で、無遠慮むえんりょ

けれど不思議と、振り払う気にはならなかった。



(なんなんだ、この女)



バルドはわずかに眉をひそめ、引かれるまま会場の外へ歩き出した。





翌朝



ぼやけた視界が鮮明(せんめい)になり、天井がゆっくりと形を取り戻す。



「ここ、どこだ?」



バルドは身を起こそうとして、(やわ)らかいベッドの感触に気づいた。

そして、隣で緑髪の女が静かに眠っている。



(…………え?)



自分を見ると、裸であり、胸の奥がざわりと波立った。



(俺……この人と?  いや、どういう……)



混乱した思考を(かか)えたまま頭を押さえると、女がまぶたを開く。



「ん……おはよー。昨日は……いやぁ、びっくりしたよ」



寝起きなのに(みょう)に色っぽい声だった。

彼女は枕元のタバコに火をつけ、ゆるりと煙を吐く。

バルドは息を飲み、問いかけた。



「あんた、俺に酒を飲ませて……襲ったのか?」



バルドは思わず顔が赤くなり、女はケラケラと笑いながら首を振る。



「違うわよ。あんたが言い寄ってきたの。すごく真っすぐで、熱くて……。」



煙を指で散らしながら、にやりと笑った。



「童貞とは思えなかったけどね?」



バルドは耳まで真っ赤になり、言葉を詰まらせる。

女はすっと手を差し出す。



「私はクファル・ウンゲット。あんたより五つ上のお姉さん。これから、よろしくね?」



指先まで自信に満ちた手。

まるで彼女は、自分の心の奥を最初から知っていたかのようだった。

バルドは、かすかに震える手でその手を握る。



「昨日、あんたに言ったこと思い出した。だから……俺の前から消えないでくれ」



クファルは一瞬、目を丸くしたあと、バルドの頬にそっと唇を寄せた。



「バカだねあんた。私が気に入ったものを手放すわけないだろ」



朝日が差し込み、緑の髪が黄金に透ける。

いたずらっぽく細められた瞳、ポニーテールが肩で揺れた。

その屈託(くったく)のない笑顔に、まだ少年の面影(おもかげ)を残すバルドはあっという間に心を奪われてしまった。



(あぁ、この人が……)



それからバルドとクファルは同じ部屋で目覚め、同じテーブルで食事をし、同じ未来を語るようになる。


展示会では、光を描くクファルの絵と、影を抱えたバルドの絵が壁に並んで(かざ)られた。


まるで正反対なのに、不思議と寄り添い合って見えた。

そして毎朝、キッチンからクファルの明るい声が聞こえる。



「バルドー! 今日のパン、いつもより焼きたて! はい、あーん!」



振り返ると、パンをバルドの口元に突き出してくるクファル。

バルドはため息をつくが、耳まで赤くしながらそっぽを向いた。



「いい加減にしろよ……。俺、もう十九歳だぞ。子ども扱いはやめてくれって」



クファルはその反応がたまらないと言わんばかりにニヤリとする。



「いやだね。あんたくらい素直に照れてくれる男、滅多にいないし。

それとも……私のこと、食べたい?」



わざと妖艶(ようえん)な声で(ささや)いた。

バルドは顔を(おお)いながら、ぼそっと言う。



「わかったよ。食べればいいんだろ」



観念したように口を開くと、クファルは嬉しそうにパンを差し込む。



「よくできました!」



彼女の笑い声は、朝の窓辺(まどべ)の光と混ざって優しく広がった。

バルドはその横顔を(なが)めながら思う。



(ずかずかと心の奥まで入ってきて、勝手に(あか)りをつけていく。怖いくらいに温かい。でもクファルといれば、俺は……)



ふと、言葉がこぼれた。



「クファル……俺、お前を幸せにするよ」



クファルはぽかんとしたあと、耳まで真っ赤になってバルドの胸を軽く叩く。



「な、なに言ってんだよ……!私はもう幸せだよ。あんたを幸せにするのが、私の役目なんだから」



その照れた横顔が、バルドの胸にじんわりと染みていった。

朝の光の中、二人は自然と笑い合う。


その笑顔は、バルドが長い絶望の後にようやく手にした“普通の幸せ”だった。

そしてクファルもまた、彼の笑顔を見るたびに、自分でも気づかぬほど深く彼を愛し始めていた。





二人の日常は、毎日はまるで色の()い絵の具をキャンバスに重ねていくように(あざ)やかだった。



初めての誕生日、クファルが無理やりサプライズをやろうとして失敗した昼のこと。


二人でシャンパンを飲みながら窓の外のネオンを(なが)めた夕日。


勢いのまま、互いに求め合うように激しく燃えた夜。



どれもこれも、言葉にするだけで胸が温かくなる思い出ばかり。





4年後――バルド22歳、クルーズ船



ゆるやかにオレンジ色に染まる海面を、クルーズ船が(すべ)るように進む。

潮風(しおかぜ)に髪を揺らしながらクファルが振り返った。



「ねぇ、バルド。この夕焼け、絵にしたらどう?」



バルドは思わず笑みをこぼし、スケッチブックを開く。



「動くなよ。最高の一枚にするから」



「また大げさなこと言って~」



そう言いながらも、クファルはしっかりとそこに立ち続けてくれる。



1時間後



「――できた」



バルドが差し出したスケッチを見たクファルは、言葉を失ったあと、ゆっくりと微笑んだ。



「……うそ。こんな……1時間で?ほんとに天才じゃん、あんた」



そこには夕焼けの海と、愛おしいほど(やわ)らかい笑顔のクファル。

光と影のすべてが美しく封じ込められていた。

バルドは照れ隠しのように言う。



「クファルが可愛いから、手が勝手に動くんだよ」



クファルの顔が一瞬で真っ赤になる。



「な、なに言ってんのバカ!!」



次の瞬間、彼女は勢いよくバルドの背中を叩き、そのまま手首を(つか)んで船室へ引っぱっていった。



扉が閉まる。



クファルは突然バルドを壁際(かべぎわ)に押し付け、真剣な眼差しで顔を近づける。



「ねぇ、バルド。あんた、私と……結婚する気ある?」



言葉が空気を(ふる)わせた瞬間、バルドは静かにクファルの頬に触れた。



「今すぐにでもしたいよ」



クファルの全身が一瞬で熱を帯び、耳まで真っ赤にして叫び声にも似た喜びの声を漏らす。



「あんたと出会えてほんとによかった!!」



そのまま抱きつき、涙がこぼれそうなほど強く、深くキスをした。

胸の奥からこみあげる幸福が、二人の身体を包み込んでいく。



それは、誰にも壊せず、誰にも踏み込めない、確かな絆だった。



その夜、二人は正式に結婚を誓い、描いた絵を少しずつ売っては、結婚資金を積み立てていた。





そんなある日のこと。



バルドはクファルへの婚約(こんやく)指輪を買い、気分は絶好調。

彼女が喜ぶ顔を想像するだけで胸が熱くなる。



(まだ渡すのは先になるけど、あいつサプライズ大好きだからな。きっと泣くほど喜ぶだろうな)



明るい気分のまま角を曲がったとき、誰かと肩がぶつかった。



「すみません。前を見てなくて――」



何気なく顔を上げた瞬間、バルドの呼吸が止まる。

そこにいた男は、皮肉(ひにく)げに口の端を()り上げた。

高級スーツと爪先まで磨かれた靴。

忘れもしないあの冷たい目をしたゾディアだった。



「ずいぶん久しぶりだな」



世界が一瞬で色を失い、胸の奥の古傷が熱をもって(うず)き出す。

心が壊れたあの瞬間がフラッシュバックし、足元が揺れた。

ゾディアは冷笑を浮かべたまま言う。



「絵で食ってるんだろ? 奴隷のガキが、よくもまぁ偉そうに。こんなところで何してんだ?」



バルドの喉が震えた。



「あんたに関係ないだろ」



ゾディアの眉がわずかに動き、機嫌(きげん)(そこ)ねたときの、あの悪意を含んだ目。



「へぇ……ずいぶん偉くなったじゃねぇか。

 絵なんて誰の役にも立たないゴミだろ」



怒りと恐怖と憎しみが全部ごちゃ混ぜになり、胃がねじれるような感覚が走る。

それでもバルドは、震える拳を握りしめて言った。



「あんたなんかに、わかるわけない」



バルドは重い影を背負いながらその場を去る。

背後からあの足音が追ってくる気がしたが、振り返らないと決めて歩き続けた。





一週間後



クファルはトリンガの受賞パーティに姿を見せていた。

(あざ)やかな緑の髪はライトに照らされ、まるで絵画の一部のように美しい。



バルドは別の用件で来れず、少し寂しがっていたクファルだが、酒が回るといつもの明るさに戻った。

グラスを(かたむ)けていた時、ひとりの男が近づく。



「あなたの絵は、本当に素晴らしい。ぜひ、語り合いたい」



クファルは、()められた舞い上がり笑って、応じた。



「わかってるじゃん! 語ろ、語ろ!」





数ヶ月後



クファルの帰りは遅くなり、夜にひとりで出歩く回数が目に見えて増えていた。



「絵のインプットだよ」



クファルはそう言って笑い、その言葉を信じるしかなかった。



ドアが開き、クファルがゆっくりと中へ入ってくる。



バルドはすぐに気づくほど、いつもの光輝くクファルの目が笑っていない。

呼吸が浅く、手が震えている。



「おかえり。どうした? 何かあった?」



バルドが駆け寄ると、クファルはその場に立ち尽くし――長く、痛々しい沈黙が続く。



「……バルド」



声は震えていた。



「別れよう」



バルドは思わず笑おうとする。



「は?  何の冗談だよ……クファル、何言って――」



だが、クファルは涙を(こら)えるように唇を噛み、(しぼ)り出す。




「……私、妊娠したの」




バルドの時間はそこで完全に止まった。

バルドは声を失い、ただクファルの顔を見る。

クファルは泣きそうな顔で続けた。



「ごめん……ほんとに、ごめん。バルド」



その声は弱く、震えていて、まるで自分を責めて壊れそうだった。

バルドは、胸の奥で何かがぐしゃりと音を立てて(つぶ)れるのを感じた。


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