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バルコニー  作者: ソラ
21/28

第21章:祭りの色、告白の音

夏の夕暮れは、まるで世界を蜂蜜に浸したような色をしていた。空は茜色と橙色が混ざり合い、アスファルトに残った昼間の熱気が、まとわりつくような湿気となって空気を満たしている。レイは自室のクローゼットから出したばかりの、落ち着いたグレーに藍色のラインが入った浴衣に袖を通しながら、小さくため息をついた。慣れない帯の感触が、どうにも落ち着かない。


鏡に映る自分は、どこか見慣れない男のようだった。


(……本当に、俺が行くのか。祭りに)


自問自答は、もう何度目か分からない。それでも、彼の足は自然と玄関へ向かっていた。ポケットの中のスマートフォンの重みが、今日の約束を現実のものとして伝えてくる。


アオイの部屋の前に立ち、一つ深呼吸をする。インターホンを押す指が、ほんの少しだけ震えた。


カチリ、と軽い音を立ててドアが開く。


そこに立っていたのは、白地に淡い桜の花びらが舞う、繊細なデザインの浴衣をまとったアオイだった。髪は少しだけアップにされ、普段とは違う大人びた雰囲気を漂わせている。そして、その顔には悪戯っぽい、小悪魔のような笑みが浮かんでいた。


「……どうかな。似合う?」


こてん、と首を傾げながら彼女は言った。夕陽の光が彼女の輪郭を柔らかく縁取り、レイは一瞬、息を呑んだ。心臓が、ドクン、と大きく跳ねる。


「……似合ってる」


かろうじて、喉から絞り出すように呟く。


「えー? なあに、聞こえないよ」


アオイはわざとらしく耳に手を当てて、にやにやと笑っている。レイは観念して、もう一度、今度ははっきりと聞こえる声で言った。


「すごく、似合ってる」


「ほぉ……本当? よかった。ありがと」


満足そうに頷くと、アオイは今度はレイの全身をじろじろと眺めた。


「レイさんも、すごく似合ってるよ。なんだか……そう、侍みたい」


「……侍」


「うん。無口で、強そうで、でも本当は優しい感じ」


そう言って笑う彼女の顔は、浴衣のせいか、夕陽のせいか、いつもよりずっと綺麗に見えた。


二人は連れ立ってエレベーターに乗り込み、祭りの会場へと向かった。


最寄り駅を降りると、そこはもう別世界だった。提灯の赤い光がどこまでも連なり、人々の賑やかな声と、ソースの焼ける香ばしい匂いが混ざり合っている。たこ焼き、焼きそば、お面、射的……ずらりと並んだ屋台の光が、アオイの瞳を子供のようにキラキラと輝かせた。


「わ……すごい……!」


あまりの熱気に気圧されたのか、彼女は無意識にレイの浴衣の袖をきゅっと掴んだ。その小さな抵抗が、レイにはひどく愛おしく感じられた。


「……行くぞ」


レイがそう言って彼女の車椅子のハンドルに手をかけた、その時だった。


「待って」


アオイが、少しむっとした表情で彼を見上げた。


「自分で動けるから。レイさんに余計な手間かけさせたくない」


「俺が疲れるかどうかは、俺が決めることだ。お前には関係ない」


「関係なくない! 私の足なんだから!」


「……そうか。じゃあ、俺がそうしたいから、そうするだけだ」


有無を言わせぬ口調に、アオイは一瞬言葉を失ったが、やがて不満そうに唇を尖らせながらも、小さく頷いた。そのやり取りさえも、二人にとっては新しい関係の始まりのようで、どこか心地よかった。


最初に立ち寄ったのは、お面の屋台だった。壁一面に並んだ色とりどりの面に、アオイは目を輝かせている。


「欲しいのあるか?」


「んー……じゃあ、レイさんも買うなら、私も買う」


「……分かった」


アオイは迷わず狐の面を手に取った。白い肌に紅い化粧が施された、少し妖艶な表情の狐。彼女はそれをすぐにつけて、顔の上半分を隠した。レイは少し悩んだ末、ひょっとこのお面を手に取り、それを頭の横にずらしてつけた。


「ぷっ……あはは! 何それ、変なの!」


「お前が選べと言ったんだろ」


狐のお面の下で、アオイの目が楽しそうに細められるのが分かった。


それから二人は、まるで祭りの熱に浮かされるように、屋台の間を巡った。アオイは子供たちに混じって型抜きに挑戦したり、スーパーボールすくいで年配の屋台の主人と競い合ったり、その姿はまるで水を得た魚のようだった。レイはその後ろから、彼女の勝ち取った景品でいっぱいになった袋を静かに持ち、その光景を眺めていた。


射的の屋台の前で、アオイの足が止まった。景品が並んだ棚と、銃を構えるカウンターの間には、少し高い段差があった。


「……あれ、やりたいんだけどな」


悔しそうに呟く彼女を見て、レイは何も言わずに屋台の主人に声をかけた。そして、近くにあったビールケースを二つ重ねて即席の台座を作ると、アオイの方に向き直った。


「え、ちょっ……」


レイは驚く彼女をものともせず、その体をひょいと抱き上げ、台座の椅子にそっと座らせた。ふわりと、シャンプーと彼女自身の甘い匂いが鼻をかすめる。


「……な、なにも、ここまでしなくても」


顔を真っ赤にしてうろたえるアオイに、レイはぶっきらぼうに言った。


「カウンターが高すぎるんだ。これじゃ、誰でも届くわけじゃない」


その言葉は、彼女の障害を憐れむものではなく、ただ純粋な事実として響いた。アオイは一瞬驚いた顔をしたが、すぐに彼の不器用な優しさを理解し、にこりと笑った。


「……じゃあ、見てて。あのパンダ、絶対落とすから」


宣言通り、彼女は驚異的な集中力で次々と的を撃ち抜き、見事、一番大きなパンダのぬいぐるみを勝ち取った。


その後も二人は、りんご飴を半分こにしたり、焼きそばを食べさせ合ったり、まるで何年も一緒にいる恋人たちのように自然な時間を過ごした。


やがて、空に最初の花火が打ち上がった。


ドン、という腹に響く音と共に、夜空に巨大な光の花が咲く。二人は少し離れた、人の少ない土手の上からそれを見上げていた。


赤、青、金、緑。次々と色を変え、形を変え、夜を照らす光の饗宴。


そのあまりの美しさに、アオイは言葉を失っていた。ただ静かに空を見上げる彼女の頬を、一筋の涙がそっと伝うのを、レイは見逃さなかった。それは悲しみの涙ではなく、どうしようもないほどの幸福感から溢れ出た、温かい雫だった。


祭りの喧騒が遠ざかり、帰り道はしんと静まり返っていた。レイが車椅子を押しながら、夜道をゆっくりと進む。アスファルトを転がる車輪の音だけが、辺りに響いていた。


不意に、その音が途切れた。


レイが足を止め、振り返ると、アオイが少し離れた場所で立ち止まり、俯いていた。


「……どうした?」


彼の問いかけに、すぐには答えが返ってこなかった。長い沈黙の後、絞り出すような、か細い声が響いた。


「……レイさんと、初めて話したきっかけは、一本の煙草だった」


彼女は顔を上げないまま、ぽつり、ぽつりと語り始めた。


「最初はただの、隣人との何気ない会話だった。でも、それが毎日になって、声を聞くのが当たり前になって……いつの間にか、その時間が永遠に続けばいいなって、思うようになってた。……でも、まさか、あなたが病気で倒れてる私を見つけて、助けてくれるなんて思わなかった。……それどころか、『好きだ』なんて言ってくれるなんて」


彼女の声が、震え始める。


「私ね、分かってるの。自分のこと。……こんな体だから、誰かが本気で好きになってくれるなんて、想像もできなかった」


彼女は自分の体を見下ろし、自嘲するように続けた。


「……なのに、あなたは一緒に買い物に行ってくれて、父さんのお見舞いにも付き合ってくれて、美味しいご飯も作ってくれた。……嬉しかった。すごく、すごく……」


言葉が途切れ、彼女はぐっと唇を噛んだ。


「……それでね、分かったの。あの夜、電話の向こうから、他の女の人の声が聞こえた時……心臓が、ぎゅって……痛くて、苦しくて……。その時に、はっきり自覚した。私、もうずっと前から、あなたのことが好きだったんだって。このまま何もしなかったら、あなたも、いつかどこかへ消えちゃうんじゃないかって、怖くなったの」


そこまで一気に言うと、彼女は自分の浴衣の胸元を強く握りしめた。俯いた顔から、ぽた、ぽたと涙が地面に落ちていく。そして、決壊したように、叫んだ。


「だから、言わせて! 好き、好き、大好き……! あなたに相応しいかなんて分からないけど、私、頑張るから……だから……っ、そばにいてください……!」


嗚咽混じりの、魂からの告白だった。


レイは、黙ってそれを聞いていた。そして、ゆっくりと彼女の方へ歩み寄ると、その震える頭の上に、そっと自分の手を置いた。


驚いて顔を上げたアオイの、涙で濡れた瞳が、真正面から彼を捉える。


次の瞬間、彼女の視界はレイの顔でいっぱいになり、唇に柔らかく、温かい感触が触れた。


「――っ!?」


それがキスだと理解するのに、数秒かかった。アオイの目が、これ以上ないくらい大きく見開かれる。


ゆっくりと唇が離れ、レイはいつもの仏頂面で、彼女の額を指で軽くこつん、と弾いた。


「バーーーカァ」


「……へ?」


「俺がいつ、お前の体のことなんて気にするって言った? そんなくだらないこと、俺にはどうでもいい。……お前の状況を知った上で、好きだと言ったんだ。二度と、自分を卑下するようなこと言うな。お前らしくない」


そして、彼は少し気まずそうに視線を逸らしながら付け加えた。


「……それに、あの電話の女は、ただの冗談好きな同僚だ。深い意味はない」


「……え」


「だから、もう終わりだ。帰って休むぞ」


アオイは呆然としたまま、ただ彼を見つめていた。


帰りの電車の中、並んで座席に腰掛ける。パンダのぬいぐるみが、二人の間で窮屈そうにしていた。しばらく続いた沈黙を破ったのは、アオイだった。


「……ねえ、レイさん」


「なんだ」


「……私たちって、その……今、恋人、なのかな」


レイは窓の外に流れる夜景を見ながら、少しだけ笑って、答えた。


「……たぶん、そうなんだろ」


その短い肯定が、どんな言葉よりも、アオイの心を温かく満たしていった。

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