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『平戸の海龍~十三歳で家を継いだ海の領主、南蛮船と外交で戦国九州を生き抜く父子二代の海洋戦国記~』  作者: 月神世一


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EP 2

黒島の引き潮(1541年)

 翌朝、辰の刻。平戸の海は、鉛色の重い雲を映して鈍く光っていた。

 沖合の風はまだ冷たく、浜辺には松浦党の一族郎党や浦人たちが黒山の人だかりを作っている。誰もが固唾を呑み、波打ち際に並んだ二隻の船を見つめていた。

「おいおい、見ろよ。若様の船を」

「あれじゃただの小早(こばや)じゃねえか。いくらなんでも無茶だ」

 浦人たちの囁きが波の音に混じる。

 浜辺に据えられたのは、あまりに対照的な二隻であった。

 一方は、一族の長老・松浦弾正が誇る大関船である。白木造りの船体は堂々たる威容を誇り、両舷には三十挺もの艪(ろ)がずらりと並んでいた。甲板には弓や槍で武装した屈強な海の武者たちがひしめき、舳先には弾正の馬印が風にはためいている。

 対する源三郎の船は、十人乗りほどの小ぶりな小早船が一隻きりであった。

 乗り込んでいるのは、艪を握る若い漕ぎ手たちと、舵を握る老船頭の弥平次。そして舳先に立つ、十三歳の源三郎ただ一人である。

「がははは! 源三郎殿、今からでも遅くはないぞ!」

 関船の船尾から、革胴丸を身につけた弾正が野太い声で嘲笑を投げかけた。

「その脆い小舟では、瀬戸の波に揉まれただけで腹を裂かれるわ! 親族一同の前で溺れ死にたくなくば、今のうちに当主の座を降り、館の奥へ引っ込むがよい!」

 関船の武者たちからも、下卑た笑い声がドッと湧き起こる。

 だが、小早の舳先に立つ源三郎は、紺糸威(こんいとおどし)の軽装の鎧に身を包み、薄く口元を歪めただけであった。

「叔父上、無駄口は船足の邪魔になりましょう。勝負の定めは、黒島を回ってこの浜へ先に戻った方の勝ち。……相違ございませぬな?」

「ふん、減らず口を! 泣き叫んでも助けてやらぬぞ!」

 浜辺の物見櫓から、重々しい銅鑼の音が響き渡った。

 ――ボォォン、ボォォン。

 勝負の合図である。

「出せッ! 小僧の船など一息に引き離せ!」

 弾正の怒号とともに、関船の三十挺の艪が一斉に海を噛んだ。

 ザシュッ、ザシュッ、と規則正しい水音が響き、巨大な関船が白波を蹴立てて一気に滑り出す。三十人の屈強な漕ぎ手が体重を乗せて漕ぎ出す力は凄まじく、大関船は見る見るうちに速度を上げ、ぐんぐんと沖へ突き進んでいった。

 一方の小早船は、ゆっくりと遅れて動き出した。

「若、いいんで?」

 舵を握る弥平次が、低い声で尋ねた。

「構わぬ。焦るな」

 源三郎は波の背を見つめながら、静かに息を整えている。

「弾正の関船は重い。風を背に受けている間は速いが、潮が変わればその重さが命取りになる。弥平次、風の匂いはどうだ」

「へへっ、若の読み通りで。西の潮風に、わずかに泥の匂いが混じり始めやした。海底の砂が巻き上がってる証拠さ。……引き潮が、一気に加速してやすぜ」

「よし。奴らの真後ろにつけ。決して引き離されすぎるなよ」

 小早船が波間を軽快に滑り出す。

 沖合へ出ると、平戸瀬戸の猛烈な潮流が船体を揺さぶり始めた。玄界灘からの外海の水と、内海の海水が狭い瀬戸で衝突し、海面には無数の白い渦が巻いている。

 先行する弾正の関船からは、勝ち誇った歓声が上がっていた。

「見ろ! 小童の舟はあんな後ろだ!」

「舵を握るのがやっとのようだな! 追いつけるものか!」

 弾正は腰に手を当て、艪手を怒鳴りつけた。

「黒島を回るぞ! 一気に左へ舵を切れ! あの小僧に、松浦の関船の真の速さを見せつけてやれ!」

 前方に、ごつごつとした岩肌を剥き出しにした黒島が見えてきた。

 黒島の周囲は、平戸でも屈指の難所として知られている。平時は豊かな海水を湛えているが、大潮の干潮時には巨大な岩礁が海面すれすれまで顔を出す、いわば天然の槍襖(やりぶすま)であった。

 関船が黒島の北端を大きく回ろうとした、その時だった。

「叔父上! ずいぶんと大回りなことで!」

 鋭い声が波を裂いた。

 弾正が驚いて振り返ると、いつの間にか源三郎の小早船が、関船のすぐ右舷後方まで迫っていた。

「なにッ!? いつ追いついてきおった!」

「潮の流れに乗れば、艪の数など関係ありませぬ!」

 源三郎は舳先から不敵な笑みを投げかけると、あろうことか、小早の舵を左へ急旋回させた。大回りを続ける関船の内側――黒島と小島の間にある、狭く険しい浅瀬の海峡へと船首を突っ込んだのである。

「ば、馬鹿めが!」

 関船の船頭が叫んだ。

「あの浅瀬は暗礁だらけだ! あんなところを突っ切れば、小舟とて無事では済まんぞ!」

「待て!」

 弾正の目がギラリと血走った。

「あそこを抜けられたら、内回りで先を越されるぞ! 追え! あの小僧の船に舳先をぶつけ、浅瀬の岩に叩きつけて沈めてしまえ!」

「弾正様、なりませぬ! 今は引き潮の刻限、関船の深さでは底を擦りやす!」

「黙れ! わしの関船が小舟に負けて逃げたとあっては、一族の物笑いの種じゃ! 漕げッ! 全力で突っ込めえッ!」

 焦りと驕りに狂った弾正の怒号に押され、関船は源三郎の小早を追って狭い海峡へと舳先を向けた。

 だが、それこそが十三歳の少年が仕掛けた、冷徹な罠であった。

 ――巳の刻。

 潮の満ち引きが、完全に満潮から干潮へと切り替わる瞬間が訪れた。

 突如として、瀬戸の海が巨大な川のように引き始めた。轟々たる水音が響き、足元の海水が滝のように外海へと吸い出されていく。海面が一尺、二尺と急速に下がり、波間に黒々とした尖った岩肌が次々と頭を覗かせた。

「ひ、引き潮だ! 潮が落ちるのが早すぎる!」

 関船の漕ぎ手たちが悲鳴を上げた。

 一方、前を行く源三郎の小早船は、木の葉のように軽やかであった。

「弥平次、右の白波の切れ目だ!」

「合点承知ッ!」

 弥平次が全身の力で舵を押し込む。小早船は鋭い岩礁の間を、針の穴を通すような絶妙な航路で、水面すれすれの岩肌をかすめながらすり抜けていった。源三郎が幼い頃から弥平次と共に海へ出て、干潮のたびに海底の岩の並びを頭に叩き込んできたからこそできる曲芸であった。

 そして――。

「舵が利かん! 底を引いているぞ!」

 関船の船頭が絶叫した。

 大関船は、小早船とは比べものにならないほど船体が重く、水面下に深く沈み込んでいる。急速に水深を失った海峡で、逃げ場などあるはずもなかった。

 ――ズガガガガッ!

 鈍く、腹の底に響く凄まじい衝撃が走った。

 関船の竜骨が、海中に隠れていた黒島の大暗礁に真っ向から激突したのである。

「うわあっ!?」

「ぐわっ!」

 衝撃で、甲板の武者たちが将棋倒しになって転がった。手にした弓や槍が海へと滑り落ちる。

 続いて、バリバリという生々しい木脈の裂ける音が船底から響き渡った。

「み、水だ! 船底が割れたぞ! 潮が噴き出してくる!」

「浸水を防げ! 艪を逆へ漕げ!」

「無駄だ、動かん! 完全に岩に乗り上げた!」

 阿鼻叫喚の地獄絵図であった。三十挺の自慢の艪は岩に挟まれてへし折れ、船体は右舷へ大きく傾き、見る見るうちに海水が甲板へと流れ込んでくる。

 弾正は甲板にしがみつき、びしょ濡れになりながら目を剥いた。

「おのれ……謀ったな、源三郎ッ!」

 波の向こうから、すうっと音もなく一隻の船が戻ってきた。

 難所をやすやすと抜け出た源三郎の小早船である。

 小早は傾いた関船のすぐ傍ら、弓の射程のぎりぎりにぴたりと横付けされた。

 小早の舷側から、源三郎の手勢である若い武士たちが、一斉に弓を引き絞って矢の切っ先を弾正たちの眉間に向けた。弓弦の軋む冷たい音が、潮騒の中に響く。

「う、動くな……!」

 弾正の配下たちが青ざめて両手を上げた。船底を破られ、足元を水に浸された状態では、戦うどころではない。

 舳先に立つ源三郎が、冷え切った眼差しで見下ろしていた。

「……叔父上。平戸の海はいかがでございますか」

 その声には、嘲りも怒りもなかった。ただ、氷のような現実だけが宿っていた。

「海を知らぬ者が、数と力だけに頼って船を出すからこうなるのです。潮の満ち引きひとつ読めぬ者が、松浦の旗頭を気取り、誰に指図を出そうというのか」

「ぐ、ぬぬ……っ!」

 弾正は歯を食いしばり、悔しさに体を震わせた。だが、浸水は止まらず、船は刻一刻と沈みかけている。このまま潮が完全に引けば、船体は自重で真っ二つにへし折れる運命にあった。

「命が惜しくば」

 源三郎は懐から一枚の白い料紙を取り出し、濡れた甲板の弾正の前へ投げ落とした。

「この場で、松浦宗家への絶対の服従を誓う誓紙に血判を押しなされ。……叔父上だけではありませぬ。そなたら全員だ」

「な、何だと……!?」

「拒むならば、助け舟は出しませぬ。このまま黒島の藻屑となり、冷たい瀬戸の底で魚の餌となりなされ」

 十三歳の少年の言葉に、迷いは一片もなかった。

 逆らえば、本当に見殺しにされる。武士たちはその瞳の冷酷さに震え上がった。

「書く! 書くから助けてくれ!」

「弾正様、早く! 早く血判を!」

 手勢たちが半狂乱になって叫ぶ中、弾正は膝をつき、震える指を刀の刃で切った。

 真っ赤な血が、料紙に押しつけられる。

「……参った。わしの負けじゃ、源三郎殿……!」

 弾正が血判を押した誓紙を両手で掲げ、屈辱に塗れた顔を甲板に擦りつけた。

 源三郎はそれを受け取ると、懐深くへと収めた。

「弥平次、縄を投げよ。船が砕ける前に、引き潮の流れから引きずり出すぞ」

「へいっ!」

 小早船から投げ渡された太縄が、関船を安全な深みへと手際よく曳航していく。

 やがて、浜辺に二隻の船が帰り着いた。

 ずぶ濡れになり、肩を落として項垂れる歴戦の武者たち。そしてその先頭を歩く、十三歳の新当主・源三郎。

 浜を埋め尽くしていた一族の武頭や浦人たちは、誰一人として言葉を発することができなかった。ただただ畏怖の眼差しをもって、少年の歩む道を開けていく。

 もはや、この若き領主を小童と侮る者など、平戸の地のどこにも存在しなかった。

 源三郎は浜辺に立ち止まり、ざわめく玄界灘の水平線を見据えた。

 潮風が、少年の濡れた前髪を激しく揺らしている。

 平戸の海を制した。だが、少年の視線はすでに、この狭い瀬戸の先――見渡す限りの大海原の向こうへと向けられていた。

読んでいただきありがとうございます。

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