EP 3
周防の風と杉の御方(1542年)
黒島沖の船競べで長老・松浦弾正をねじ伏せてから、巡る季節は早や一年が過ぎていた。
天文十一年(一五四二年)。
数えで十四となった源三郎――松浦隆信は、相も変わらず平戸館の主座に身を置いていた。
あの日以来、表立って当主の座を奪おうと声を荒らげる者はいなくなった。だが、血判の誓紙一枚で人の腹の底まで塗り替えられるほど、乱世の武士の業は浅くはない。大広間に控える重臣たちの視線には、なおも冷ややかな警戒と値踏みの色が張り付いていた。
さらに、平戸の外に広がる世界は、少年当主の頭痛の種であった。
北九州の覇権を握るのは、周防・長門をはじめ六か国を領する大大名、大内義隆である。
大内家は遣明船を仕立てて莫大な富を誇り、精強な軍勢をもって肥前・筑前へその触手を伸ばしていた。かつてこの地で権勢を誇った名門・少弐氏は風前の灯火となり、いまや平戸の海とて大内家の意向を無視して一日たりとも平穏ではいられない。
「若、大内からの使節が瀬戸を渡って参りまし立て」
広間の片隅で、老船頭の弥平次が膝を進めて囁いた。
「迎えの軍船は整えてありやす。……ですが、館の年寄りどもは、周防から嫁御寮が来ると聞いて露骨に顔を顰めてやすぜ」
「分かっている」
隆信は静かに頷いた。
平戸松浦家が大内の大波に呑まれず、領主としての自立を保つための布石。それが、大内家の重臣・杉隆景の娘を妻として迎えるという政略の縁組みであった。
だが、誇り高き松浦党の土豪たちにとって、大内は長年争いを繰り広げてきた油断のならぬ隣人である。
(周防の狐が、我が館に目付を送り込んできおったわ)
(十四の童を操るために、女をあてがう気か)
館の奥、女房衆や親族の長老たちの間には、そんな棘のある囁きが満ちていた。
味方であるはずの家中すべてが、冷え切った針の筵である。父を失い、十三で家を背負った隆信の周囲には、心を許して弱音を吐ける者など誰一人としていなかった。
――港に、周防の塗船が舳先を寄せた。
初夏の日差しが平戸瀬戸の青波を眩しく照らし出す中、白無垢の打掛を羽織った輿が館へと運び込まれる。
大広間に響く衣擦れの音。
居並ぶ松浦一族の男たちが品定めするように見つめる中、輿の簾が静かに上げられた。
現れたのは、隆信と同年代とおぼしき少女であった。
周防の名門の血を引く、杉隆景の娘――後の「杉の御方」である。
透き通るような白い肌に、涼やかな目元。だが、その華奢な佇まいとは裏腹に、背筋を凛と伸ばした姿には、寄せ手の武士たちを圧倒するほどの気品と揺るぎない覚悟が満ちていた。
ざわつく広間に、静寂が落ちる。
少女は上座に座す十四歳の当主・隆信を見つめると、乱れの露ほどもない所作で深く平伏した。
「周防より参りました、杉隆景の娘にございます。今日よりはこの平戸の土となり、松浦の家に命を捧げる所存。殿、どうぞよろしくお引き回しくださりませ」
澄んだ声が、大広間の梁に凛として響いた。
居並ぶ長老たちの中から、小さく息を呑む音が漏れた。
大内家笠に着て高飛車に出るか、あるいは見知らぬ海の島へ売られてきたと怯え泣くか。どちらに転んでも蔑んでやろうと待ち構えていた大人たちの思惑は、少女の毅然とした礼法によって、一言の下に打ち砕かれたのである。
上座の隆信は、わずかに目を見張った。
(……この女子、ただの深窓の姫ではない)
自らの置かれた立場を、完全に理解している。周防と平戸の危うい均衡の上で、自分がどのような顔をしてこの館に足を踏み入れねばならぬかを、十四、五の小娘がすでに呑み込んでいるのだ。
「よく参られた」
隆信は短く応じ、頷いた。
「長旅、大儀であった。この平戸の潮風は周防に比べて荒々しかろうが、存分に馴染まれよ」
「身に余るお言葉、恐悦に存じます」
二人の視線が、わずかに交錯した。
その刹那、張り詰めた広間の空気が、微かに和らいだのを誰もが感じ取っていた。
その夜。
祝言の喧騒がようやく引き潮のように引き、館の奥の寝所には、初夏の夜風が吹き抜けていた。
遠く平戸瀬戸の潮騒が、低く轟いている。
縁側に立ち、暗く沈む日の岳の山影を見上げていた隆信の背後に、気配が忍び寄った。
「……殿。まだお休みになられぬのですか」
衣を改めた杉の御方が、盆に湯呑みを載せてしずしずと歩み寄ってきた。
「あのような荒っぽい祝宴は、初めてであったろう」
隆信は振り返らずに言った。
「松浦党の武士どもは、海賊の血を引く野育ちばかりだ。都風の雅な礼法など知らぬ。酒に酔えば刀を抜きかねぬ男たちゆえ、さぞや恐ろしかったであろう」
「いいえ」
杉の御方は微笑み、盆を置くと、隆信の半歩後ろに腰を下ろした。
「荒々しくとも、嘘のない男衆でございます。……それに、あの者たちの目にあるのは、私への敵意ではありませぬ」
「ほう?」
隆信が初めて眉を動かし、新妻を振り返った。
「では、何だというのだ」
「恐れ、にございます」
少女は静かに、だが確信に満ちた瞳で隆信を見つめ返した。
「大内という巨大な家への恐れ。そして何より、十三歳でその長老たちを海の底へ沈めかけた、若き当主――殿ご自身への底知れぬ恐れでございます」
隆信の息が、わずかに止まった。
昨年の船競べの真相を、この少女は周防の地にあってすでに聞き及んでいたのだ。
「叔父上方は、私を化け物を見るような目で見ておる」
自嘲気味に呟き、隆信は再び暗い海を見つめた。
「父が急に身罷り、頼る者とてなく、力づくで大人たちを屈服させねば、私が殺されるところであった。……だが、一度そうして爪を見せれば、もはや誰も私を信じぬ。親族も、重臣も、皆が腹の探り合いだ。一歩でも足を踏み外せば、背後から突き落とされる」
誰にも言えなかった本音が、少年の口から自然と零れ落ちていた。
十三で当主の重荷を背負わされ、常に研ぎ澄まされた刃のように張り詰めて生きてきた隆信。その張り詰めた糸の限界を、この新妻は初日の夜にして見抜いていた。
杉の御方はそっと手を伸ばし、自らの袖の中から一振りの懐剣を取り出した。
白鞘に収められた、細身の短刀である。
「なれの短刀をどうする」
「周防を立つ際、父・杉隆景より授けられたものにございます」
少女は両手で懐剣を押し抱き、低く語りかけた。
「父は申しました。『大内の利のために平戸の動向を見張り、もし松浦家が大内に仇なす気配あらば、この刃で己が命を絶つか、さもなくば殿を刺せ』と」
「……」
夜風が止まり、張り詰めた冷気が二人を包み込んだ。
隆信の右手が、無意識に腰の脇差の柄へと伸びる。
だが、杉の御方はふっと柔らかく目を細めると、その懐剣をためらうことなく、隆信の足元へと差し出した。
「お預けいたします、殿」
「……何?」
「私は、大内の間者としてこの島へ参ったのではございませぬ」
少女の澄んだ声には、一点の曇りもなかった。
「今日この時より、私は松浦源三郎殿の妻にございます。殿が海へ出られるならば、私は館の奥を守りましょう。家中の女房衆の不満を鎮め、親族の長老たちの腹の内を探り、殿が背後を恐れずに前だけを見つめられるよう、この身を盾として尽くします」
「……そなたの生家を、大内を敵に回すことになってもか」
「はい」
即座の返答であった。
「殿が選ばれる道こそが、私の進む道にございます」
隆信は差し出された懐剣を見下ろし、それから目の前の新妻の顔をまじまじと見つめた。
自分と同じ年頃の少女が、すべてを捨てて己の命を預けようとしている。
孤独に凍りついていた隆信の胸の奥で、何かが静かに溶けていくのを感じた。
少年領主は差し出された短刀を取り上げると、鞘から抜くことなく、そのまま新妻の手の中へと押し戻した。
「……持っておれ」
「殿……?」
「そなたが私を刺さぬことは分かった。ならば、その刃は館の奥に巣食う害虫を払うために使え」
隆信の口元に、あの日、船競べで見せたような不敵な笑みが浮かんだ。
「館の女どもや分家の年寄りどもが、そなたを侮って嫌がらせをしてくるやもしれぬ。その時は容赦するな。松浦宗家の正室として、堂々とねじ伏せてみせよ」
杉の御方は驚いたように目を見張り、それから、ころころと鈴を転がすように笑った。
「ふふ……殿は、まことに噂通りの御方にございますね。嫁に害虫を払えと仰せになるとは」
「嫌か?」
「いいえ。弱々しい夫を持つより、よほど頼もしく存じます」
夜の帳の中、二人の間に初めて心からの笑顔がこぼれた。
隆信は縁側に腰を下ろし、新妻を隣に招いた。
「見よ、あの日の岳の向こうを」
隆信が指差す先、暗い水平線の向こうには、玄界灘の果てしない闇が広がっている。
「大内は強い。だが、大内とて陸の檻に囚われた古臭い大名にすぎぬ。この海の先には、明があり、南蛮があり、誰も見たことのない莫大な富が眠っているのだ」
「海の先……」
「そうだ。米の取れ高ばかりを競い合って領地を奪い合う乱世など、くだらぬとは思わぬか。私はこの平戸の港を、天下で最も豊かな海の都へと変えてみせる。……そのためには、そなたの知恵と強さが要るのだ」
杉の御方は胸の前で両手を重ね、隆信の横顔を見つめた。
十四歳の少年が語る、途方もない夢。並の大人であれば「子供の戯言」と笑い飛ばしたであろう。
だが、少女の瞳には、少年の見つめる水平線の光が確かに映り込んでいた。
「お供いたします、どこまでも。……殿の夢が、この平戸の海を照らすその日まで」
周防の風を背に受けて平戸へやってきた聡明な妻は、その言葉通り、たちまちその才覚を発揮し始めた。
大内家仕込みの洗練された礼法と細やかな気配りをもって、館の女房衆を瞬く間に心服させ、反発を強めていた長老たちの屋敷へも巧みに使者を送り、頑なな頑固者たちの警戒を解いていったのである。
背後を完全に任せられる唯一無二の伴侶を得たことで、隆信は家中の小競り合いから解き放たれ、その鋭い視線を外海へと集中させることができた。
そして――。
翌年の天文十二年(一五四三年)。
平戸の浜に、南の種子島から一艘の早船が飛び込んできた。
「若様! 大変でございます!」
駆け込んできた弥平次の顔は、恐怖と興奮で引き攣っていた。
「種子島の南に、異国の黒い船が現れ申した! その船に乗っていた南蛮人どもが、雷のような音を立てて人を撃ち倒す、『鉄の筒』を持っていたそうで……!」
鉄砲の伝来。
そして時を同じくして、平戸の水平線の彼方から、日本の和船を遥かに凌駕する武装巨大唐船の影が、ゆっくりと姿を現そうとしていた。
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