第一章 少年領主と黒船の夜明け
十三歳の旗頭(1541年)
玄界灘から吹き付ける潮風が、平戸館の重い杉戸を激しく軋らせていた。
吹き抜ける風の冷たさは、初冬の海そのものである。だが、大広間に満ちる息苦しいまでの殺気は、外の寒風を容易に焼き尽くすほどに煮え滾っていた。
広間の中央、一段高くなった当主の座。そこに座しているのは、元服を迎えたばかりの小柄な少年であった。
黒漆の座敷に置かれた青畳の上で、少年は折り目正しい狩衣の裾を揃え、背筋を微動だにせず伸ばしている。
源三郎――後の平戸松浦家第二十五代当主、松浦隆信である。
その年齢は、数えでわずか十三。
つい先日、第二十四代当主であった父・松浦興信が、にわかに病を得て急逝した。大黒柱を突如として失った松浦宗家には、確たる後見人も定まらぬまま、この十三歳の少年だけが取り残されたのである。
「――おい、源三郎。聞いておるのか」
板敷きを踏み鳴らし、どすの利いた声が広間の空気を裂いた。
声を上げたのは、松浦党の親族衆でも随一の武辺を誇る一族の長老、松浦弾正であった。白髪交じりの熊髭を震わせ、大柄な体を威圧するように前へ乗り出している。
弾正の背後には、同じく不満と野心を瞳の奥にぎらつかせた一族の武頭や有力者たちが、帯刀したまま居並んでいた。
「亡き御屋形様の法要は滞りなく相済んだ。……だがな、ここから先は児戯ではないのだぞ」
弾正が膝を叩き、吐き捨てるように言った。
「北を見よ。かつて肥前を治めた少弐の家は風前の灯火、いまや周防の大内義隆公がこの北九州の津々浦々までその手を伸ばしておる。豊後には大友があり、東の佐賀郡では龍造寺の残党が蠢いておるのだ。この乱世の荒波のただ中にあって、乳臭い童が松浦の舵を握るなど、臍が茶を沸かすわ!」
「弾正殿の申される通りじゃ!」
居並ぶ重臣のひとりが声を張り上げた。
「松浦党は古来より、荒海を駆ける海の武士団よ! 潮の流れも知らぬ小童が頭領に居座っては、大内に呑まれる前に身内同士の争いで家が四分五裂いたす! 源三郎殿、潔く当主の座を分家の長老へお譲りあれ!」
「宗家の血を引くとはいえ、十三の童に何ができよう。館の奥で手習いでもしておるのがお似合いよ!」
嘲笑と野次が、次々と少年の頭上に浴びせかけられる。
言葉の刃は容赦がない。父親を亡くしたばかりの十三歳の子供なら、恐怖に震え、泣き叫んで母の胸へ逃げ帰ってもおかしくはない場面であった。
だが。
上座の源三郎は、瞬きひとつしていなかった。
澄み切った瞳が、喚き立てる大人たちの顔を、端から順に冷ややかに値踏みしている。
(……騒ぐのは、いつも声の大きい無能からだ)
源三郎は、袖の中で小さく息を吸い込んだ。
大内が怖い、大友が怖いと騒ぎ立てながら、その実、彼らが狙っているのは宗家の港の支配権であり、入港する商人たちから巻き上げる帆別銭(関税)の利権にすぎない。幼い自分を傀儡として祭り上げるか、さもなくば引きずり降ろして平戸の富を奪い取る腹づもりなのだ。
広間の片隅、柱の影に、粗末な水干をまとった初老の男が控えていた。
潮風に焼かれて銅色の肌をした、筋骨逞しい男――平戸瀬戸の潮目を誰よりも知る老船頭の弥平次である。
弥平次が、誰にも気づかれぬよう、源三郎へ向けてわずかに顎を引いた。
(若、刻限でさあ。沖の風が西へ回り始めやしたぜ)
言葉はなくとも、目配せひとつで通じ合っていた。
源三郎は幼い頃から、城奥の座敷で経文を読むよりも、浜辺に出て弥平次ら海の男たちの船に潜り込むことを好んだ。玄界灘の荒波、暗礁の連なり、干満によって川のように荒れ狂う平戸瀬戸の潮流。それらすべてを、少年は自らの足と目で叩き込んできたのだ。
源三郎はおもむろに、すっと口元を緩めた。
「……ふふ」
広間の怒号が、唐突に止まった。
静寂が落ちる。
嘲笑を浴びせられていたはずの十三歳の少年が、あろうことか、並み居る歴戦の武士たちを見下ろして笑ったのである。
「な、何がおかしい、源三郎殿!」
弾正が血相を変えて立ち上がりかけた。
源三郎はゆっくりと顔を上げ、弾正の目を正面から射すくめた。その眼光の鋭さに、大男であるはずの弾正が、思わず気圧されて息を呑む。
「叔父上方の仰せ、実にもっともに聞こえましてな」
少年の声は、澄んでいながら驚くほど低く、広間の隅々まで染み渡るように響いた。
「大内は強い。大友も侮れぬ。陸の戦国大名たちは、互いの領地を奪い合って泥まみれの戦に明け暮れております。……なれど、弾正殿。我が平戸は、いつからその泥を奪い合う野武士に成り下がったのでございますか?」
「な、何だと……!?」
「松浦の力は海にあります」
源三郎は膝に置いた手を握りしめ、前を見据えた。
「陸の者が米を奪い合っている間に、我らは海を走り、船を操り、海の恵みと商いの富を握る。それこそが、我が松浦党が数百年にわたりこの肥前で生き残ってきた誇りではなかったのか」
言葉の重さに、長老衆の何人かが顔色を変えた。
だが、弾正は引き下がらない。侮りを隠そうともせず、鼻を鳴らした。
「理屈は聞き飽いたわ! 海の武士団じゃと? そうじゃ、海を駆けてこその松浦よ! だからこそ申しておるのだ。一度時化に遭えば木の葉のように沈む海の恐ろしさを、畳の上で育った小童が知るはずもなかろうとな!」
「私が海を知らぬ、と」
「知るものか! 船頭の指図ひとつ満足に出せぬ童に、誰が命を預けられるか!」
「ようございます」
源三郎は即座に応じた。迷いの欠片もない即答であった。
「そこまで仰るなら、言葉で争うても埒は明きますまい。――弾正殿、船をお出しなされ」
「……何じゃと?」
「明日、辰の刻。平戸瀬戸にて、叔父上のお手勢と、私の船とで『船競べ』を行おうではありませぬか」
広間がざわめいた。
船競べ――軍船を繰り出し、定められた海域を回って速さと操船の技を競う、海の武士の誇りを懸けた演習である。
「ほう……! 船競べじゃと?」
弾正の口元が醜く歪んだ。
「この松浦弾正の関船に、貴様の小舟で挑もうというのか! 笑止千万、親族一同の前で無残に潮に流され、恥をかくだけぞ!」
「もし、私の船が遅れを取り、叔父上の軍船に後れを取るようなことがあれば」
源三郎は涼やかな笑みをたたえたまま、言い放った。
「私はこの場で家督を退き、松浦の惣領の座を叔父上へお譲りいたしましょう」
「――! まことだな!?」
弾正の目が欲に光った。広間の長老たちからも、どよめきが湧き上がる。
十三歳の小僧が、自ら退路を断ったのだ。関船の漕ぎ手も、操船の経験も、百戦錬磨の弾正が負ける道理など万に一つもない。
「武士に二言はございませぬ。……ただし」
源三郎の眼光が、氷のように研ぎ澄まされた。
「もし私が勝ったあかつきには、叔父上方をはじめ一族の長老衆すべて、亡き父上と同じく、この源三郎を松浦宗家の主と認めていただきます。異存はございませぬな?」
「ハッ、面白いわ! 受けて立つわ小僧! 明日の昼には、貴様が浜辺で泣きべそをかいておる姿が目に浮かぶわ!」
弾正は高笑いを残し、手勢を連れて広間を足荒に去っていった。他の長老たちも、冷笑を浮かべながら次々と席を立っていく。
やがて、広間には静寂が戻った。
柱の陰から、老船頭の弥平次が音もなく歩み寄ってくる。
「……若、本気でございますかい」
弥平次が、苦笑いを浮かべながら顎を撫でた。
「弾正の旦那の関船は、腕利きの漕ぎ手を三十人も揃えた大船でさあ。風を孕めば、矢のように走りやすぜ。いくら若が腕を上げたとはいえ、真っ向から漕ぎ比べちゃ敵いっこねえ」
源三郎は立ち上がり、縁側へ歩み出た。
見下ろす先には、白波が渦を巻き、急流となって流れる平戸瀬戸の海が広がっている。
「弥平次。真っ向から速さを競うなどと、誰が申した?」
「へ……?」
「明日の巳の刻、潮はどちらへ動く?」
弥平次は目を丸くし、それから天を仰いだ。
「……明日の巳の刻といえば、大潮の引き時でさ。瀬戸の潮は引くだけ引いて、黒島の沖合じゃ隠れ暗礁が水面すれすれまで顔を出しやす。並の船頭なら、恐ろしくて近寄れねえ魔の海域で」
「そうだ」
十三歳の少年は、吹きつける玄界灘の強風を正面から浴びながら、獰猛なまでの笑みを浮かべた。
「海を知らぬ者が、平戸の主を気取るなど虫唾が走る。……見せてやるのだ、弥平次。海を支配する者が、真に誰であるかをな」
乱世の海へ、いま一匹の若き龍が、その爪を研ぎ澄まそうとしていた。
読んでいただきありがとうございます。
面白いと思っていただけましたら、★評価やブックマークで応援していただけると励みになります。




