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第36話:遭遇! 経理部OL・四宮凛子〜感情なき暴食機械とエルフの美学〜

シルバーの中古ミニバンは、中国地方の山間部を抜ける国道を、少しだけ重々しい空気を乗せて走っていた。

ハンドルを握る篠原結衣の横顔には、いつものような「動画の再生回数が楽しみ!」といった能天気な明るさはなく、まるで見えない強敵の影に怯えるような、ピリピリとした緊張感が漂っていた。


「……間違いないわ。このルート上のデカ盛り店、私たちが到着する数日前に、悉く『謎のメガネOL』に記録を塗り替えられてる」

結衣は信号待ちの間にスマートフォンをスクロールし、全国のデカ盛りファンが集うネット掲示板の情報を食い入るように見つめた。

北海道のジンギスカン、名古屋の味噌カツ、大阪のたこ焼き。

エルフちゃんねるが完全制覇してきたはずのそれらの舞台には、常に自分たちより一歩先を行く『無名の女』の足跡が残されていた。

それも、シルフィリアの叩き出した常人離れしたタイムを、さらに半分近くに縮めるという、物理法則を無視したような異常なタイムで。


「結衣殿、あまり難しい顔をしていると、おでこにシワという名の呪いが刻まれてしまいますよ!」

助手席のシルフィリアは、コンビニで買ったアメリカンドッグにケチャップとマスタードをたっぷりと塗りたくりながら、全く悪びれる様子もなく笑顔で言った。

「私より早くお腹を空かせている人がいるなんて、素晴らしいことではありませんか! きっと、その『めがねのおーえる』という方も、私と同じように全国の美味しいご飯を求めて旅をしているのですね! 早くお会いして、どこのお肉が一番美味しかったか、語り合いたいです!」

「シルフィ……あんたのその底抜けのポジティブさ、ある意味才能よね。でも、相手はただの食いしん坊じゃないわ。あんなタイムを叩き出すなんて、絶対に大食いのプロ……それも、公式戦には出てこない、とんでもない『裏ボス』みたいな存在よ」


結衣がため息をつきながらアクセルを踏み込むと、やがて目的地の看板が見えてきた。

本日のターゲットは、とある地方都市のバイパス沿いにポツンと建つ、知る人ぞ知る町中華の名店『中華飯店・黄龍亭こうりゅうてい』。

ここの名物は、地元の大食い自慢の腹を幾度となく破裂させてきたという、総重量五キログラムを誇る『皇帝チャーハン』である。


「よし、着いたわ。シルフィ、気をつけてね。もしその『謎の女』がまだこの辺りにいるとしたら、この店に現れる可能性は非常に高いわ」

「はいっ! 私の鼻と胃袋のレーダーを全開にして、美味しい匂いと強敵の気配を探ります!」


カラカラカラッ、と引き戸を開けて、二人は黄龍亭の店内へと足を踏み入れた。

昼時のピークを過ぎた午後三時。店内は閑散としており、油で少しベタつく赤いテーブルがいくつか並び、厨房からは中華鍋を振る小気味良い音が響いている。

一見、なんの変哲もない平和な町中華の光景だった。

だが、結衣は店に入った瞬間、背筋にゾクリと悪寒が走るのを感じた。


「……結衣殿」

シルフィが、手に持っていたアメリカンドッグの串を下げ、真っ直ぐに店の一番奥の角のテーブルを見つめた。

「あそこです」

シルフィの視線の先。

薄暗い角の席に、一人の女性が座っていた。


年齢は二十代後半だろうか。

服装は、およそ大食い店には似つかわしくない、グレーの地味な事務服ベストとタイトスカートに、真っ白なブラウス。髪は後ろでキッチリと一つに結い上げ、後れ毛一つない。

顔の半分を覆うような分厚い黒縁メガネをかけ、その奥の瞳は、一切の感情を排したガラス玉のように無機質だった。

彼女は、たった一人で、その席に座っていた。

いや、正確には「一人と、一つの山」だった。


「嘘……でしょ……」

結衣は思わず口元を両手で覆った。

その女性の目の前に置かれていたのは、直径五十センチはあろうかという巨大な中華皿。そこに、パラパラに炒められた黄金色のチャーハンが、まるでエジプトのピラミッドのように高く、美しく、そして暴力的な質量を持ってそびえ立っていた。

間違いなく、この店の最凶メニュー『五キロ皇帝チャーハン』である。


しかし、結衣を戦慄させたのは、そのチャーハンの大きさではない。

その女性の、『食べ方』であった。


カチャリ。スッ。ゴクリ。

カチャリ。スッ。ゴクリ。


店内に響くのは、レンゲが皿に当たる微かな金属音だけ。

女性は、右手に持ったレンゲで、巨大なチャーハンの山を一切の無駄のない動きで掬い上げ、口に運んでいた。

だが、彼女の『左手』は、テーブルの上に置かれたスマートフォンの画面を操作し続けているのだ。

結衣が目を凝らすと、その画面に映っているのは動画でもSNSでもなく、細かい数字とセルがびっしりと並んだ『Excelエクセル』のデータ表であった。


彼女は、スマートフォンの画面で仕事の経理データらしきものをスクロールして確認しながら、それに全く影響されることなく、右手だけで五キロのチャーハンを機械のように処理し続けているのだ。

「なっ……なんだあれ……」

結衣は恐怖すら覚えた。

フードファイトは、極限の集中力を要する競技だ。胃の容量、咀嚼のペース、嚥下のタイミング、それらすべてに意識を向けなければ、五キロもの食材を腹に納めることなど不可能である。

だが、あの女は違う。

食事を『片手間』でやっているのだ。

まるで、車を運転しながらガムを噛むような、呼吸をするのと同じレベルの無意識の動作として、五キロのチャーハンを胃袋に処理している。

一口の量、咀嚼の回数、飲み込むタイミング。

それらが完全に一定のペースで刻まれ、まるで精密な時計か『メトロノーム』を見ているような、得体の知れない不気味さがあった。


「結衣殿。あの方が、先回りしていた戦士ですね」

シルフィが、静かな声で言った。

結衣が止める間もなく、シルフィはツカツカとその女性のテーブルへと歩み寄っていった。

「あ、ちょっとシルフィ!」

結衣が慌てて後を追う。


シルフィは、グレーの事務服の女性のテーブルの真横に立ち、ピタリと足を止めた。

至近距離で見ると、そのチャーハンからは、焦がし醤油とラード、そしてたっぷりと入った角切りチャーシューの強烈に食欲をそそる香りが立ち上っていた。

普通の人間なら、一口食べれば「美味い!」と顔をほころばせるであろう極上の仕上がりである。

しかし、女性の顔には、汗一つ、感情の一片すら浮かんでいない。

美味しいとも、苦しいとも、熱いとも感じていない。ただただ、無表情でレンゲを動かし続けている。


「……あの」

シルフィが、透き通るような声で話しかけた。

「美味しいですか?」


その問いかけに。

カチャリ、と。

女性の右手が初めて動きを止め、スマートフォンの画面をスクロールしていた左手もピタリと止まった。

ゆっくりと、首だけを動かして、黒縁メガネの奥の冷たい瞳がシルフィリアを捉える。


「……美味しいか、と問われましたか」

女性の声は、抑揚のない、まるで合成音声のような冷たさを持っていた。

「はい。黄金色に輝くお米一粒一粒が、豚肉の脂とネギの香りを纏い、とても素晴らしいご馳走に見えます。ですが、あなたはそれを食べている間、一度も笑わなかった。それが不思議でたまらないのです」

シルフィの純粋な疑問。

それは、食べることを「至上の喜び」とし、一口ごとに感動して魔力へと変換する彼女にとって、最も理解できない光景だったからだ。


女性は、手元の巨大なチャーハンの山に一度視線を落とし、そして再びシルフィの顔を見た。

「味は、問題ではありません」

彼女は、淡々と、感情の欠片もない声で言い放った。

「これは、単なる『カロリーと塩分の摂取』です。私の身体の生命維持機能において、通常の人間より大量のエネルギーを必要とするため、この質量を胃に納めているに過ぎません。……食事は、業務タスクです。そこに感情や味覚の評価を挟むことは、処理速度を低下させる無駄な行為でしかありません」


「タスク……無駄な行為……?」

シルフィの碧眼が、大きく見開かれた。

「ご飯を食べることが、無駄だと仰るのですか!?」

「『味わうこと』が無駄だと言っているのです」

女性はメガネの位置を中指でクイッと押し上げた。

「大食いという行為において、味覚は最大の障害です。熱さ、辛さ、脂っこさ、甘さ。それらはすべて脳に対するノイズとなり、嚥下機能にブレーキをかけます。……あなたも、フードファイターならば理解できるはずですが」


女性の目が、シルフィの緑色のワンピースと、その後ろで青ざめている結衣を順番に観察した。

「……なるほど。あなたが、ネット上で非合理的な数値を叩き出しているという、『エルフちゃんねる』のシルフィリアさんですね。大会のデータはすべて収集・分析済みです」

「わ、私たちのことを知っているんですか……?」

結衣が恐る恐る尋ねると、女性は小さく頷いた。

四宮凛子しのみや りんこ。それが私の名前です。株式会社・玄海物産の経理部に所属しております。……あなた方の大会での映像を確認しましたが、非常に非効率な食事法ですね。一口ごとに味に反応し、無駄な感情を露わにしている。あれでは、胃袋のキャパシティ以前に、脳が先に疲労するはずですが」


四宮凛子。

それが、日本中のデカ盛り店を密かに蹂躙し続けてきた、感情なき暴食の機械、見えない裏ボスの名前であった。


「非効率……」

シルフィは、凛子の言葉を聞いて、ギリッと奥歯を噛み締めた。

シルフィは怒っていた。大会でどんなに卑劣な罠を仕掛けられた時でも笑顔を絶やさなかった彼女が、初めて明確な『怒り』の感情を見せたのだ。

「凛子殿。あなたのその『ご飯をタスクと呼ぶ』考え方は、私には到底理解できません」

シルフィは、凛子の目の前にあるチャーハンを指差した。

「このお料理が、どれだけの時間と手間をかけて、農家の方々が育てたお米や、お肉の命をいただいて作られているか。そして、厨房で炎と格闘している料理人の方の想いがこもっているか。……それを『カロリーの摂取』などという冷たい言葉で片付け、味も分からずに飲み込むなんて、命に対する最大の冒涜です!」


シルフィの凛とした声が、静かな店内に響く。

しかし、凛子の表情は微塵も動かなかった。

「感情論ですね。……命の感謝と、物理的なカロリー処理速度には、何の因果関係もありません。現に、私の完食タイムは、あなたの叩き出した記録をすべて上回っている。それが結果データです」

凛子は、再び右手のレンゲを持ち上げた。

「おしゃべりは終わりです。昼休みの時間がもったいないので、業務しょくじを再開します。経理の月末処理が残っていますので」

そう言うと、凛子は再びスマートフォンのExcel画面に視線を落とし、カチャリ、スッ、ゴクリと、メトロノームのような正確なリズムで五キロのチャーハンを崩し始めた。


その光景は、結衣に強烈な絶望感を抱かせた。

大食いという競技において、シルフィリアの強さは「美味しく食べることで魔力変換を活性化させる」という特異体質(エルフの能力)にある。美味しいと感じれば感じるほど、彼女は強くなる。

だが、目の前の四宮凛子は、その『味覚』そのものを完全にシャットアウトしているのだ。

満腹中枢も、味覚の疲労も、熱さの痛みも、すべてを脳の処理から切り離し、ただ胃袋という名の焼却炉に物理的な質量を放り込み続ける完全な機械。

感情をエネルギーにする者と、感情を完全に排除した者。

対極に位置する、二人のバケモノ。


「結衣殿」

シルフィが、振り返らずに静かに言った。

「私、決めました。このままでは、全国の美味しいご飯たちが可哀想です」

「えっ……シルフィ?」

「彼女に、教えてあげなければなりません。ご飯を『美味しい』と思って食べることが、どれほど素晴らしく、そしてどれほどの『力』を生み出すのかということを」

シルフィの碧眼に、かつてないほどの闘志が燃え上がっていた。


「すいません、店主殿!」

シルフィは、厨房の奥に向かって大きな声で叫んだ。

「あのチャーハンという黄金のお山、私にも一つ……いえ、この方と同じものを、今すぐに出してください!」

「お、おう! 五キロの皇帝チャーハンだな、すぐ作るぜ!」

厨房から景気の良い返事が響く。


カチャリ、と。

凛子のレンゲが、再びピタリと止まった。

「……私と、勝負をするおつもりですか?」

凛子がメガネの奥から冷ややかな視線を向ける。

「勝負ではありません。ただ、あなたに証明したいだけです」

シルフィは、凛子の隣の席にドカッと腰を下ろし、真っ直ぐに凛子を見据えた。

「ご飯は、データで食べるものではありません。心(愛)で食べるものだということを!」


食を純粋に愛し、その喜びを魔力に変えるエルフ・シルフィリア。

食を単なる生物学的なタスクと捉え、一切の感情を排除した無貌のOL・四宮凛子。

相容れない二つのイデオロギーが、場末の中華料理店で火花を散らす。

カメラの回っていない、誰の目にも触れない場所で、二人の怪物による非公式のデッドヒートが、今、静かに幕を開けようとしていた。

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