第21話:新人王決定戦・開幕! 集いし胃袋たちと爆音の威圧
秋晴れの青空の下、東京湾からの潮風が吹き抜ける巨大なイベント施設『関東メガ・エキシビションホール』。
普段は大規模な同人誌即売会や、世界的なモーターショーが行われるその巨大な建造物の入り口には、今日、ひときわ目を引く極彩色の巨大看板が掲げられていた。
『全日本大食い競技連盟主催・次世代のスターは誰だ!? 大食い新人王決定戦!』
「…………っ」
その巨大な看板と、会場周辺に群がる大勢の観客やマスコミの数を見て、篠原結衣はゴクリと重い生唾を飲み込んだ。
首から下げた『出場者パス』を持つ手が、微かに震えている。
(すごい……。これが、公式戦のスケール。テレビのバラエティ特番のスタジオとは、また違った独特の緊張感があるわね……)
無理もない。つい数ヶ月前まで、結衣はブラック動画制作会社でパソコンのモニターと睨み合うだけの、名もなき末端ディレクターに過ぎなかったのだ。
それが今や、登録者数八十万人を誇る大人気YouTubeチャンネル『エルフちゃんねる』の代表として、全国から選び抜かれた猛者たちが集う公式大会の会場に、堂々と足を踏み入れている。
人生何が起きるか分からないとはまさにこのことだ。
「おおおおおっ!! 結衣殿、ご覧ください! なんという巨大な闘技場でしょうか!」
結衣の隣で、無邪気な歓声を上げているのは、本日の主役である美少女エルフ・シルフィリアだ。
彼女は今日、結衣が徹夜で手作りした『ファンタジー風ワンピース』に身を包んでいた。森の緑を基調とした軽やかな生地に、金糸でツタの刺繍が施されたその衣装は、彼女の透き通るような金髪と、宝石のように輝く碧眼を、これ以上ないほどに美しく引き立てていた。
すれ違う一般客たちが、あまりの美貌に思わず振り返るほどである。
「天井が高く、まるでドラゴンの巣穴のように広大です! この巨大な空間で、一体どんな素晴らしい宴が開かれるというのでしょうか!? 私の胃袋は、すでに臨戦態勢に入っております!」
シルフィは両手をギュッと握り締め、鼻息を荒くしている。
彼女の頭の中には、「全国の猛者たちとの熾烈な戦い」などという概念は一ミリも存在していない。あるのは先日届いた黒い招待状に書かれていた『最高級食材が無制限の食べ放題』という、神の啓示のような一文だけだ。
「シルフィ、興奮するのは分かるけど、少し落ち着いて。ここはただの宴会場じゃないわ。全国から『私が一番食べる!』って自信満々のバケモノたちが集まってくる場所なんだから」
「バケモノ! それはつまり、オークやトロールの類いですか!? 彼らもまた、食欲旺盛な種族ですからね! ですが、食材への愛ならばエルフである私の方が上です!」
「いや、比喩だからね? 全員普通の人間の女の子だからね?」
結衣はため息をつきながら、シルフィの手を引いて『出場者専用・女性控室』と書かれた重厚な扉を開けた。
――扉を開けた瞬間。
結衣は、思わず一歩後ずさりそうになった。
何十脚もの長机とパイプ椅子が並べられた、体育館ほどもある広大な控室。
そこに充満していたのは、華やかな女の子たちの香水の匂い……などでは決してなかった。
「……な、なにこれ。空気が……重い……」
結衣は思わず身震いをした。
室内にひしめき合っているのは、全国各地の予選を勝ち抜いてきた、あるいは連盟の推薦を受けて集まった、数十名の『女性フードファイター』たちである。
一見すると普通の女の子たちばかりに見えるが、その全員から、言葉にできないほど異様な『殺気』と『執念』が放たれていたのだ。
部屋の隅では、顎の筋肉をほぐすために、顔を限界まで歪めて奇妙なストレッチを繰り返している女性がいる。
窓際では、二リットルの巨大なペットボトルに入った水を、わずか数秒で胃袋に流し込み、胃を限界まで拡張させる『水トレーニング』を黙々と行っている女性がいる。
誰も一言も発さない。ただひたすらに、己の胃袋と向き合い、ライバルたちを威圧するように鋭い視線を交錯させている。
それはまるで、地下格闘技の控室か、あるいは死地に向かう傭兵たちの待機所のような、ヒリヒリとした極限の空間だった。
「わぁ……皆様、とても真剣な表情でお腹を空かせているのですね! 素晴らしいです!」
しかし、そんな殺気立った空気など微塵も感じ取っていないシルフィは、ピクニックにでも来たかのような明るい声で室内を見回した。
その高く澄んだ声が響いた瞬間、室内の数十人のフードファイターたちの視線が、一斉にシルフィと結衣に向けられた。
(ひっ……!!)
射殺されるのではないかと思うほどの鋭い眼光の集中砲火に、結衣は心臓が止まりそうになった。
だが、無理もない。
殺伐とした競技者の集まりの中に、まるでファンタジーRPGからそのまま抜け出してきたかのような、可憐で美しいコスプレ(にしか見えない)衣装を着た金髪の美少女が、ニコニコと笑いながら入ってきたのだ。
あからさまに場違いであった。
「……おいおい。何だありゃ」
張り詰めた静寂を破り、部屋の中央に座っていた一人の女性が、パイプ椅子を蹴るようにして立ち上がった。
極端に丈の短いタイトなドレスに、派手に盛られた巻き髪。長い付け爪にはギラギラとしたストーンが輝いており、どう見ても夜の繁華街からそのまま直行してきたような風貌である。
彼女こそ、一部の大食いファンの間で『ドカ食いキャバ嬢』の異名で恐れられている、関東ブロックの予選突破者・アゲハであった。
アゲハは、ヒールをカツカツと鳴らしながら、シルフィの目の前まで歩み寄ってきた。
「ちょっとあんた。ここが何の控室か分かってんの? コスプレのイベント会場は隣のホールなんですけど」
アゲハの後ろから、もう一人、ジャージ姿に瓶底メガネをかけた、いかにも『胃袋底なし女子大生』といった風貌の地味な女性も、冷ややかな目を向けて近づいてきた。
「……ああ、見たことある。最近YouTubeでバズってる『エルフちゃんねる』でしょ。テレビの特番で、くるみちゃん相手にドローに持ち込んだっていう」
女子大生がボソリと呟くと、アゲハは鼻で笑った。
「ハッ、なるほどね。ネットのお遊びでちょっと有名になったからって、公式戦にまで顔出して売名しようって魂胆? 舐めてんのかって話。あんたみたいなヒョロヒョロのお人形さんが、本物の限界勝負で耐えられるわけないでしょ」
アゲハは長い付け爪の先で、シルフィの胸元をツンツンと小突いた。
「テレビの時は、どうせ裏で局の連中が忖度して、編集か何かで誤魔化したんでしょ? ここはねぇ、そういうヤラセが一切通じない、本物のバケモノだけのコロシアムなの。途中で泣き出してゲロ吐く前に、さっさとその痛い衣装脱いで帰りなさいよ」
あからさまな敵意と、見下すような嘲笑。
結衣は顔を真っ青にして、「ちょ、ちょっと! いくらなんでも言い過ぎじゃ……!」と前に出ようとした。
これほど直接的な悪意をぶつけられては、いくら温厚なシルフィでも傷つくに違いない。
結衣がそう思った、その時だった。
「……なるほど! そういうことだったのですね!」
シルフィは、アゲハの言葉を聞いて、パァッと顔を輝かせた。
「えっ?」
「アゲハ殿……とお呼びすればよろしいでしょうか? あなたは、私がこれほどの細身であるゆえに、この過酷な『食べ放題の宴』でお腹を壊してしまうのではないかと、心底心配してくださっているのですね!」
「……はあ!?」
予想の斜め上をいくシルフィのポジティブすぎる解釈に、アゲハの顔が引きつった。
「違っ……誰が心配なんか……!」
「お気遣い痛み入ります! ですが、ご安心ください!」
シルフィは、自分のペタンコのお腹をポンッと叩いた。
「私の胃袋は、エルフの森が育んだ無限の宝物庫! どれほどの最高級食材が押し寄せようとも、決して泣き言など言わず、最後の一口まで美味しく、満面の笑みで平らげてみせます! あなたのお気遣いに報いるためにも、今日は絶対に手を抜きませんよ!」
シルフィの、一片の曇りもない純粋な瞳。
そこには、嫌味や強がりなど微塵もなく、ただただ「美味しいご飯への期待」と「ライバル(?)への感謝」だけが満ち溢れていた。
「なっ……なんだこいつ、話が通じない……っ! ふざけるな、私はあんたを潰すって言ってんのよ!」
完全にペースを乱されたアゲハが、顔を真っ赤にして怒鳴り声を上げた。
「昨日の夜だって、胃を広げるために特大ステーキ三キロと牛丼五杯を詰め込んできたんだからね! あんたみたいな小娘の胃袋、開始五分で絶望させてやるわよ!」
アゲハが凄み、周囲のフードファイターたちも「あのコスプレ娘、アゲハを怒らせたな」と冷ややかな視線を送る。
「おおお! すてーき三キロと牛丼五杯! それは素晴らしい前菜ですね!」
シルフィは心底感心したように手を叩いた。
「ですがアゲハ殿! 今の私には、そのような前菜のエピソードを聞かされるのは、少しだけ……いえ、非常に『毒』かもしれません!」
「ど、毒ぅ!? あんた、ついに本性現したわね……!」
アゲハがギリッと奥歯を噛み締め、シルフィに詰め寄ろうとした。
一触即発。
結衣が「やめて!」と叫ぼうと息を吸い込んだ、まさにその瞬間だった。
『――――ゴギュルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥンッッッ!!!!』
「ひっ!?」
「きゃああっ!?」
控室にいた全員が、短い悲鳴を上げて耳を塞ぎ、その場にしゃがみ込みそうになった。
それは、ただの音ではなかった。
巨大なイベントホールの壁をビリビリと震わせ、長机の上に置かれたペットボトルの水を激しく波立たせるほどの、物理的な『衝撃波』を伴った轟音。
まるで、深い地底の底で眠っていた伝説の古竜が、空腹に耐えかねて目覚めの咆哮を上げたかのような、圧倒的な重低音である。
その轟音の震源地は――言うまでもなく、シルフィリアの平らな腹部であった。
「……あわわわ。申し訳ありません」
シルフィは、恥ずかしそうに両手でお腹を押さえ、頬をほんのりと赤く染めた。
「朝からおにぎりを十個ほどしか食べていなかったもので、マナ・クラフター(魔力変換器官)が限界を訴えておりまして……。そこに、アゲハ殿の『すてーき三キロ』などという魅惑的な単語をお聞きしてしまったため、胃袋が暴走してしまいました。お恥ずかしい限りです」
――シーン。
広大な控室が、水を打ったような、いや、時間が停止したかのような静寂に包まれた。
シルフィに突っかかっていたアゲハと女子大生は、顔面を真っ青にして、幽霊でも見るかのようにシルフィの腹部を見つめていた。
周囲の数十人のフードファイターたちも同様である。
(な……なんだ、今の音は……!?)
アゲハの背筋に、ゾクリと氷のような悪寒が走った。
(お腹の鳴る音!? いや、あり得ない! あんな、空気が振動するような音が、人間の腹から出るわけがない! それに、朝からおにぎり十個食ってて、あんなに腹が減るってどういう構造してんだよ!?)
フードファイターである彼女たちには、胃袋の動きや消化の音には人一倍敏感だ。
だからこそ、今のシルフィの『腹の虫』が、いかに常軌を逸した、生物としての根源的な強大さを示しているかが本能で理解できてしまったのだ。
「あ、あの……アゲハ殿?」
シルフィが、心配そうに顔を覗き込んでくる。
「顔色が優れないようですが、やはりお腹の調子が悪いのですか? 無理をしてはいけませんよ?」
「ひぃっ……!」
アゲハは、シルフィの純粋な碧眼に見つめられ、思わず一歩、二歩と後ずさった。
先ほどまでの敵意や見下すような態度は完全に霧散し、圧倒的な『捕食者』を前にした小動物のような恐怖が彼女を支配していた。
(この子……バケモノだ! テレビのドローはヤラセなんかじゃない……本物の、底なしの胃袋を持つ怪物なんだ……!)
アゲハだけではない。
控室にいた全員が、たった一回の『爆音の腹の虫』によって、シルフィの底知れぬポテンシャルを強烈に刻み付けられ、完全に威圧されてしまっていたのである。
「し、シルフィ……あんたって子は……」
結衣は、額の汗を拭いながら、一人だけ状況を全く理解していないエルフの少女を見て、深い深いため息をついた。
(天然の食欲と空気の読めなさが、最強の威嚇効果を生んでるじゃないの……。ある意味、大食い競技者としては無敵のメンタルね)
その時。
張り詰めた空気を切り裂くように、控室のスピーカーから、軽快なチャイム音と共にアナウンスが響き渡った。
『――出場者の皆様、大変お待たせいたしました。これより、大食い新人王決定戦・予選第1ステージを開始いたします。皆様、速やかにメインステージへとご移動ください』
「おおおおおっ!!」
アナウンスを聞いた瞬間、シルフィは両手を天高く突き上げた。
「ついに! ついに神の宴が始まります! 結衣殿、行きましょう! 私の胃袋は、もう一秒たりとも待てません!」
「は、はいはい。分かったから走らないの! 転んだら危ないでしょ!」
意気揚々と控室を飛び出していくシルフィと、慌ててそれを追いかける結衣。
残されたフードファイターたちは、嵐が過ぎ去った後のような疲労感を感じながら、重い足取りでメインステージへと向かうのだった。
巨大イベントホールのメインステージ。
重厚な扉が開き、シルフィが足を踏み入れた瞬間、彼女の尖ったエルフの耳と、鋭い嗅覚が、その空間を支配する『異変』を察知した。
「……ん? 結衣殿、この匂いは……?」
シルフィは足を止め、鼻をクンクンと動かした。
会場に漂っているのは、肉の焼ける匂いでも、海鮮の香りでもない。
鼻腔の奥をツンと突き刺し、目から自然と涙が滲み出そうになるほどの、強烈で、刺激的で、暴力的なまでの『スパイス』の香りだった。
「これは……私の故郷の森に生えていた、火吹鳥のフンより強烈な匂いがします! 一体、何を食べさせようというのでしょうか!?」
シルフィが驚愕の声を上げた時、ステージの中央に立つ熱血実況MC・陣内拓海の野太い声が、会場中に轟いた。
「さあ、全国から集いし胃袋の猛者たちよ! 過酷なる新人王決定戦、予選第1ステージの種目は……!! 『特製・超激辛スパイスカレー』だぁぁぁぁっ!!」
大食いにおける、最大の罠。
『量』でも『脂』でもなく、痛覚を直接攻撃してくる『辛味』の地獄。
異世界から来たエルフの未発達な辛味センサーが、今、現代日本の凶悪なスパイスの洗礼を受けようとしていた。
新人王決定戦の過酷な幕が、ついに切って落とされたのである。




