第2話:カロリーは魔力に消える〜から揚げとマンガ盛り白米の洗礼〜
「……あの、大変申し上げにくいのですが」
「なに?」
「先ほどの『しゃけべんとう』とやらは、大変美味でありました。まさに神の恵み、至福の味でした。ですが……」
深夜の公園。時計の針はすでに午前二時半を回っている。
空っぽになったコンビニ弁当のプラスチック容器を大事そうに抱えながら、自称エルフの美少女・シルフィリア(愛称シルフィ)は、もじもじと身をよじらせ、上目遣いで結衣を見つめてきた。
「ですが、なにさ」
「あれは、前菜……なのでしょうか?」
「は?」
『――ギュルルルルルルルルルルルルルッ!!』
シルフィの平らなお腹から、再びけたたましい轟音が鳴り響いた。先ほどシャケ弁当を丸々一つ平らげたばかりだというのに、その音の大きさは全く衰えていない。むしろ、一度胃袋に食べ物が入ったことで、さらに猛烈な食欲が呼び覚まされてしまったかのようだった。
「いやいやいや、ちょっと待って。シャケ弁一つ丸々食べたよね!? 女の子ならあれ一つで十分一食分になるカロリーあるはずだけど!?」
「申し訳ありません……。私の体は、もっと、もっと多くの『食』を求めているようなのです。このままでは、朝日を拝む前に餓死してしまうやもしれません……」
涙目で訴えかけてくるシルフィの顔色は、確かにどこか青白い。シャケ弁当を食べた直後はパッと明るくなったが、数分も経たないうちに再びエネルギーが枯渇してしまったような、異様なやつれ方だった。
(……面倒なことになった)
結衣は頭を抱えた。このまま放っておけば、この電波なコスプレイヤー(結衣はまだエルフだと信じていない)は本当に野垂れ死んでしまうかもしれない。かといって、結衣の財布も給料日前でかなり厳しい状況だ。
「……わかった。わかったから泣かないで。とりあえず、私の家に行くよ。道すがら、私がよく行く定食屋が開いてるはずだから、そこで何か食べさせる。でも、これで最後だからね!」
「おお……! 恩人殿は、女神の化身であらせられますか!?」
「女神じゃなくて篠原結衣。ブラック企業で働くただの社畜だよ」
ため息をつきながら、結衣はシルフィを引き連れて深夜の街を歩き出した。
向かったのは、結衣のアパートの近くにある定食屋『満腹亭』。
昼間は肉体労働のおじさんたちや、近所の学生でごった返す、いわゆる「安くて美味くてバカみたいに量が多い」ことで有名な、地元民に愛されるB級グルメの聖地だ。深夜営業もしており、徹夜明けの結衣が時折お世話になっているオアシスでもあった。
色褪せた赤い暖簾をくぐり、ガラガラと引き戸を開ける。
店内は、長年染み付いた油と醤油、そしてニンニクの香りが渾然一体となった、強烈に食欲をそそる匂いが充満していた。
「へい、いらっしゃい! おお、結衣ちゃんか。また遅くまでお仕事かい? 大変だねぇ」
厨房から顔を出したのは、店主の源田哲三(通称ゲンさん)だ。ねじり鉢巻に分厚い腕、一見すると強面だが、若者のお腹をいっぱいにすることに命をかけている気のいい親父である。
「ゲンさん、こんばんは。今日は私じゃなくて、この子が……」
結衣が背後を指差すと、シルフィはすっかり匂いに当てられてしまい、鼻をヒクヒクさせながら店内の壁に貼られたメニューの短冊を食い入るように見つめていた。
「ほお? 結衣ちゃんのお友達かい? ずいぶんとべっぴんさんだし、すげぇ格好してるな。外人のコスプレイヤーさんか?」
「ま、まぁそんなとこです。ゲンさん、いつもの『唐揚げ定食』、ご飯はマンガ盛りでお願いします」
「おうよ! 唐揚げ定食一丁、マンガ盛りな!」
ゲンさんが手際よく鶏肉に粉をまぶし、油の張られた巨大な鍋に投入していく。
ジュワアアアアアッ! という派手な音とともに、油が弾け、香ばしい匂いが一気に爆発した。
カウンター席に座ったシルフィは、厨房の様子を身を乗り出すようにして見つめている。
「ゆ、結衣殿。あの煮えたぎる黄金の泉に、肉を投げ込むという調理法は一体……!?」
「え、黄金の泉って油のこと? 唐揚げだよ。揚げ物。君の国にはないの?」
「あのような大量の油を高温で熱するなど、我が故郷の森では考えられません。油は非常に高価であり、一部の王族しか口にできない幻の調味料……。それをあのように贅沢に……!」
シルフィが驚愕の声を上げている間に、唐揚げはきつね色に揚がり、油を切られ、山盛りのキャベツの千切りの横にゴロゴロと積み上げられていく。大人の拳ほどもある巨大な鶏の唐揚げが、なんと五個。
そして、その隣にドンッと置かれたのは、巨大な丼にこれでもかと高く盛り付けられた、文字通りの『マンガ盛り』の白米だった。
「お待ち遠さん! 満腹亭名物、大盛り唐揚げ定食だ!」
ドスン、とカウンターに置かれた定食の凄まじい質量に、シルフィは目を丸くした。
「こ、これが……現代の料理……!」
「冷めないうちに食べな。ゲンさんの唐揚げは世界一だからね」
結衣に促され、シルフィは震える手で割り箸を割った。
まずは、メインの唐揚げに箸を伸ばす。巨大な肉塊を危なげなく持ち上げると、彼女は大きく口を開け、思い切りかぶりついた。
『サクッ!!』
店内に、小気味良い音が響く。
片栗粉と小麦粉の黄金比でブレンドされた衣は、極限までサクサクに仕上がっている。そして、その薄い衣の壁を突破した瞬間、中から溢れ出すのは、秘伝のニンニク醤油ダレに一晩じっくりと漬け込まれた、圧倒的にジューシーな鶏モモ肉の肉汁だった。
「っっっっっっっっ!!!!」
シルフィの動きが、雷に打たれたように完全に停止した。
碧眼が限界まで見開かれ、頬が紅潮していく。
「ど、どう? 熱かった?」
結衣が心配して声をかけると、シルフィは咀嚼をしながら、ブルブルと肩を震わせ、ついに感動の涙を滝のように流し始めた。
「美味です……! なんという暴力的なまでの旨味! サクサクとした心地よい食感の後に、肉の奥底から溢れ出す濃厚な肉汁! ニンニクという強烈な香辛料が肉の獣臭さを完全に消し去り、それどころか食欲を無限に増幅させる魔法のような役割を果たしています! それに、この『油』! 油がこれほどまでに人間の本能を刺激する甘露であったとは!!」
シルフィは唐揚げを一口飲み込むと、間髪入れずにマンガ盛りの白米に喰らいついた。
口の中の濃厚な油と肉汁を、真っ白でホカホカのご飯が優しく包み込み、完璧なハーモニーを奏でる。
「あああっ! 白い妖精たち(お米)が、口の中で唐揚げと踊っています! 結衣殿、これは奇跡です! 現代日本は、神の国に違いありません!!」
「いや、ただの定食屋だから。でも気に入ってくれたなら良かったよ」
結衣が苦笑している間にも、シルフィの箸は止まらない。
驚くべきは、その食べる『速度』と『美しさ』だった。
巨大な唐揚げと山盛りのご飯。普通なら口の周りを油だらけにしたり、ご飯粒をこぼしたりしてしまいそうなものだが、シルフィの食べ方は非常に洗練されていた。
背筋をピンと伸ばし、一口のサイズはそれなりに大きいものの、決して下品ではない。咀嚼する横顔は絵画のように美しく、油でテカる唇すらも魅力的に見えてしまう。
映像ディレクターとしての結衣の直感が、「この子の食べている姿、カメラを通したら絶対に映える」と告げていた。
ものの五分。
一般の成人男性でも苦戦する大盛り唐揚げ定食を、シルフィは一粒の米すら残さず、完全に平らげてしまったのだ。
「ふう……ごちそうさまでした。素晴らしい手料理でした、店主殿」
シルフィがお茶を飲みながら優雅に微笑むと、厨房のゲンさんはポカンと口を開けたまま固まっていた。
「お、お嬢ちゃん、すげぇな……。うちの定食をそんなスピードで、しかもあんなに美味そうに食ってくれた奴は初めてだぜ」
「ええ、とても美味しかったです。ですから――」
シルフィは、空になった巨大な丼と皿をゲンさんに向かってスッと押し出した。
「おかわりを、いただいてもよろしいでしょうか?」
「……は?」
結衣とゲンさんの声がハモる。
「え、まだ食べるの!? 今ので余裕で二千キロカロリーくらいあるんだけど!」
「お恥ずかしながら、まだ胃袋の入り口が少し潤った程度にしか……。あの神の肉(唐揚げ)、もう十個ほどお願いできますか?」
「じゅ、十個!? おうよ! やってやろうじゃねぇか! 料理人魂に火がついたぜ!」
ゲンさんは嬉々として再び鶏肉に粉をまぶし始めた。結衣の「あ、ちょっとゲンさん!」という制止の声は、油の爆ぜる音にかき消されてしまった。
そこから先は、圧巻の一言だった。
おかわりとして出された二人前の唐揚げ定食を、シルフィは全くペースを落とすことなく、むしろさらに嬉しそうな笑顔で完食。
それでも飽き足らず、「次はカツ丼というものを!」「あの炒飯という山も気になります!」と次々に注文を繰り返し、ゲンさんも汗だくになりながら大鍋を振り続けた。
最終的に、シルフィが完食した量は以下の通りである。
・唐揚げ定食(ご飯マンガ盛り)×五人前
・特大カツ丼×二人前
・五目炒飯×三人前
時間にしてみれば、わずか一時間弱の出来事だった。
深夜の定食屋にたまたま居合わせた数人の客たちも、最初は「なんだあの可愛い子」と見ていたのが、いつの間にか自分たちの食事を忘れ、シルフィの神々しいまでの爆食いっぷりに魅入られてしまっていた。
「……ぷはぁっ。ようやく、お腹の虫が大人しくなりました。大変美味しゅうございました」
空になった食器の山(タワーと呼んだ方が正しい)の前で、シルフィは満足げにお茶をすすった。
厨房では、すべての食材を出し尽くしたゲンさんが、灰のように真っ白になって燃え尽きている。
そして結衣は、会計の伝票を見て、絶望のあまり魂が抜けかけていた。
(し、一万五千円……。深夜の定食屋で払う金額じゃない……私の、今月の食費が……)
震える手で財布からなけなしの諭吉を引き抜き、なんとか会計を済ませた結衣は、店を出るなりシルフィの両肩をガシッと掴んだ。
「ちょっとアンタ! どういう体の構造してるの!? あれだけ食べたのに……!」
結衣の視線は、シルフィの腹部に向かっていた。
十キロ近い食材と、一万キロカロリーを優に超える熱量を摂取したはずなのに、シルフィのお腹はペタンと平らなまま。くびれたウエストには微塵の膨らみも存在していないのだ。
「妊婦さんみたいにお腹が膨れるならまだしも、どこに消えたのよ!? 胃袋が四次元ポケットにでも繋がってるわけ!?」
「あ、いえ、四次元ポケットなる魔法具のことは存じ上げませんが……これは、私の種族の特性と言いますか、生存本能のようなものでして」
シルフィは申し訳なさそうに身をすくめながら、自身の体内で起きている『異常事態』について説明を始めた。
「私のようなエルフは、本来、大気中に存在する『マナ(魔力)』を皮膚呼吸のように取り込み、それを生命維持のエネルギーの一部として変換して生きています。ですから、故郷の世界では、木の実や少しの野菜を食べるだけで十分生きていけました。むしろ、粗食で済むエコな種族なのです」
「……マナ? 魔力? エコ?」
「はい。ですが……この世界には、空気中にマナが一切存在していません」
シルフィは夜空を見上げ、真剣な表情で言った。
「マナが存在しない空間に放り出された私の体は、深刻なエネルギー不足に陥りました。そして、生存の危機を察知した体内器官が、暴走を始めてしまったのです」
「暴走って……どうなるのさ」
「外部からマナを取り込めないなら、内部で作るしかない。つまり、摂取した食物のカロリーを、すべて強制的に魔力へと変換し、消費し続けるシステムに切り替わってしまったのです。現代の言葉で言えば、基礎代謝が常人の数百倍から数千倍に跳ね上がっている状態、とでも言いましょうか」
「か、カロリーを魔力に強制変換……?」
「はい。先ほどの一万キロカロリーも、私の細胞を維持するための魔力に瞬時に変換され、消費されてしまいました。なので、脂肪として蓄積されることは絶対にありませんし、お腹が膨れることもありません。……その代わり、常に莫大なカロリーを摂取し続けないと、すぐに魔力が底をつき、餓死してしまうのです」
結衣は、開いた口が塞がらなかった。
つまり、こういうことだ。
この美少女エルフは、「どれだけ食べても絶対に太らない、むしろ常に限界まで腹を空かせているブラックホールのような胃袋」を、このマナのない現代日本において強制的に獲得してしまったのだ。
「結衣殿……」
シルフィが、再び結衣の袖をちょこんと掴み、うるうるとした上目遣いで見上げてきた。
「私には、この世界に身寄りも、帰る術もありません。そして、先ほどのような美味しいご飯を毎日大量に食べなければ、三日で命を落としてしまうでしょう。どうか、どうか私を拾っていただけないでしょうか……?」
「……」
家事手伝いや、できることは何でもやります、と懇願するエルフ。
結衣は、絶望的な気分で夜空を仰いだ。
こんな底なしの胃袋を養っていけるほどの稼ぎは、底辺ディレクターの結衣にはない。普通なら「警察に行け」と突き放すところだ。
しかし、先ほど定食屋で見せた、彼女のあの『圧倒的に美しく、人を魅了する食べっぷり』が、結衣のクリエイターとしての脳裏に焼き付いて離れなかったのだ。
「……はぁ。わかった、わかったよ。とりあえず、うちに来な。明日以降のことは……明日考える」
「本当ですか!? ありがとうございます、結衣殿! 明日の朝ごはんは、何を用意していただけるのでしょうか!?」
「さっきあんなに食べたのに、もう明日の朝ごはんの心配してるの!?」
「生存がかかっていますから!」
「……私の貯金が底をつくのが先か、あんたが餓死するのが先か、チキンレースの始まりね」
頭を抱えて歩き出す結衣の背中を、シルフィは「日本の朝ごはんは美味しいと聞きました!」と無邪気な声で追いかけていく。
こうして、限界社畜ディレクターと、燃費最悪のはらぺこエルフによる、奇妙な同居生活が幕を開けたのである。
この数日後、結衣が自身の破産を免れるために、とんでもない企画を立ち上げるとは、シルフィはまだ知る由もなかった。




