第1話:異世界の胃袋、日本の公園に立つ
深夜二時。
街灯が一つだけ、申し訳程度にチカチカと点滅している寂れた公園のベンチで、篠原結衣(しのはら ゆい・二十六歳)は、今日何度目かわからない深い、深いため息を吐き出した。
「……なんで私、こんな時間に公園で一人、冷え切った弁当を広げようとしてるんだろう」
自問自答しても、答えは明白だった。
結衣が勤めているのは、業界でも有数の『ブラック』と名高い弱小動画制作会社だ。今日も今日とて、理不尽なクライアントの無茶振りと、丸投げ体質のクソ上司(通称:ハゲタカ)のおかげで、三日連続の徹夜作業を強いられていた。
編集ソフトが三回クラッシュし、ようやく書き出しが終わったのがつい先ほど。疲れ果てた体に鞭を打ち、フラフラと帰路につく途中で立ち寄ったコンビニで、結衣は本日の初めてのまともな食事となる『特製・シャケ弁当(四百五十円)』を購入した。
アパートまで持ち帰る気力すらなく、途中の公園に座り込んでしまったのだ。
秋の気配が近づく夜風が、冷たく頬を撫でる。
膝の上に乗せたコンビニ袋から、結衣はシャケ弁当を取り出した。透明なプラスチックのフタ越しに見えるのは、白いご飯の上に鎮座する、一切れの塩焼きシャケ。申し訳程度に添えられたちくわの磯辺揚げと、ピンク色の大根の桜漬け。
「はぁ……。でもまぁ、今の私にとってはこれが三ツ星レストランのフルコースだよ」
独り言を呟きながら、結衣はパチン、と割り箸を割った。
冷めきった弁当だが、空腹の限界を迎えている胃袋は、シャケの塩気と白米の甘味を強烈に欲している。
いざ、命の恵みを。
結衣が箸を伸ばし、白米とシャケを一緒に掬い上げ、口に運ぼうとした――まさにその時だった。
『――キュルルルルルルルルルルルルルルルルッ!!』
『ゴロゴロォォ……ギュルギュルギュルゥゥゥゥ!!』
「ひっ!?」
静まり返った夜の公園に、まるで大型の肉食獣が唸り声を上げたかのような、けたたましい重低音が響き渡った。
ビクッと肩を震わせ、結衣は箸を止める。
音の出所は、ベンチのすぐ斜め後ろにある、薄暗い植え込みの茂みからだった。
「な、なに? 野犬? それとも熊……? いやいや、ここ都内だし!」
ガサガサッ、と茂みが揺れる。
結衣は心臓をバクバクさせながら、手に持った割り箸を武器のように構えた。もし不審者や狂犬が飛び出してきたら、このシャケ弁当だけは死守して逃げなければならない。
ガサガサガサッ!
茂みをかき分け、這い出るようにして『それ』は姿を現した。
「……え?」
結衣は思わず、構えていた割り箸を下ろし、ポカンと口を開けてしまった。
そこにいたのは、獣でも不審者でもなかった。
街灯の薄暗い光の下でもはっきりとわかる、透き通るような金髪。泥や葉っぱがついて汚れているにも関わらず、息を呑むほどに美しい、陶器のように白い肌。深い森の湖を思わせる、澄んだ碧眼。
年齢は結衣より少し下、二十歳前後だろうか。
彼女は、まるでファンタジーRPGからそのまま飛び出してきたかのような、奇妙な衣装を着ていた。革の胸当てに、金糸の刺繍が施されたマント。しかし、それらの衣装はところどころが破れ、焼け焦げたような跡があり、ボロボロになっている。
「な、なんだ? 外国人? それとも……」
結衣の混乱をよそに、謎の金髪美女は、地面に手をついたまま、ゆらりと顔を上げた。
『ギュルルルルルルルルルッ……!』
再び、彼女の腹部から、世界を滅ぼす魔獣のような轟音が鳴り響く。
間違いない。さっきの音は、この美少女の『腹の虫』だったのだ。
美女の碧眼が、結衣の膝の上にあるシャケ弁当を、射抜くように見つめていた。その瞳には、餓死寸前の遭難者がオアシスを見つけたかのような、切実で強烈な光が宿っている。
「そ、その……光り輝く食べ物を……」
かすれた、しかし鈴の転がるような美しい声で、彼女は言った。
「光り輝く……? いや、これただのコンビニのシャケ弁だけど」
「どうか……一口、一口だけでいいのです……恵んでくだされ……」
美女は地面を這うようにして、結衣の足元へとすり寄ってくる。
「ちょっと待って! ストップ! 近寄らないで!」
「ああ……芳醇な海の香りと、神々の恵みのような純白の粒……。私の故郷の森には、あのような美しい食べ物は存在しませんでした……。どうか、どうか慈悲を……」
パタリ。
美少女は、力尽きたように結衣の足元にうつ伏せに倒れ込んでしまった。ピクリとも動かない。
「ええええええっ!? ちょっと、嘘でしょ!? 死んでないよね!?」
結衣は慌てて弁当をベンチに置き、彼女の肩を揺さぶる。
微かに息はしているが、顔色は青白く、本当に栄養失調で倒れているように見えた。
「マジか……。面倒事には巻き込まれたくないんだけど……。でも、ここで見殺しにしたら夢見が悪すぎるし……」
結衣は葛藤した。
自分の命を繋ぐはずだった、大切な大切なシャケ弁当。残業代ゼロの過酷な労働の果てに得た、ささやかなご褒美。
しかし、目の前で絶世の美女が餓死しかけているのを放置するほど、結衣は非情にはなれなかった。
「あーもう! わかった! わかったから起きて! あげる! これあげるから!」
結衣がシャケ弁当を顔の前に突き出すと、倒れていた美女は、まるでゾンビが蘇るかのような勢いでガバッと跳ね起きた。
「ほ、本当ですか……!? この神の食べ物を、私のような見ず知らずの者に……?」
「神の食べ物って……ただの冷めたシャケ弁だけどね。ほら、手も汚れてるみたいだし、割り箸、私が食べさせてあげるから。あーんして」
結衣はヤケクソ気味に、シャケの身を少しほぐし、白米と一緒に箸でつまんで、美女の口元へ運んだ。
美女は震える口を開け、パクリと、それを受け取った。
モグ、モグモグ……。
ゆっくりと咀嚼を始めた彼女の動きが、ふいにピタリと止まった。
美しい碧眼が、これ以上ないほどに見開かれる。
「っ……!?」
「ど、どう? 冷めてて不味いかもしれないけど、背に腹は代えられないでしょ」
すると、美女の目から、ボロボロと大粒の涙がこぼれ落ち始めた。
涙は頬を伝い、ボロボロの衣服を濡らしていく。
「あ、甘い……!!」
美女は、夜空に向かって叫ぶように声を上げた。
「え?」
「なんという甘さ! なんという豊潤さ! この白い粒の一つ一つから、生命の喜びが弾け飛んでくるようです! それに、このピンク色の魚肉……! 塩という貴重な調味料が惜しげもなく使われ、口の中でとろけるような脂の旨味が……ああ、私は死んで神の国へ導かれたのでしょうか!?」
「いや、だからただのシャケ弁だってば……。しかも防腐剤とかも入ってるだろうし、神の国どころかジャンクな現代社会の象徴だよ」
困惑する結衣をよそに、美女の食欲に完全に火が点いた。
「すみません、もどかしいです! 自分で食べてもよろしいでしょうか!?」
「あ、うん。いいけど……」
結衣が弁当箱ごと手渡すと、美女は目にも止まらぬ速さで弁当をかきこみ始めた。
箸の使い方を知らないのか、最初は手で掴もうとしていたが、結衣が慌ててスプーン(スープ用にコンビニでもらっていたもの)を渡すと、それを器用に使って猛烈な勢いで食べ進める。
その食べっぷりは、異常だった。
たかがコンビニの弁当だ。冷え切っていて、米も少し固くなっているはずだ。
しかし彼女は、まるで世界で一番美味しいご馳走を食べているかのように、至福の笑みを浮かべ、時折「んん〜っ!」と歓喜の声を漏らしながら、ものの数十秒で弁当を空にしてしまったのだ。
最後には、容器にこびりついた米粒一つ、シャケの皮の欠片一つ残さず、スプーンで綺麗に掬い取って口に入れた。
「ぷはぁっ……!!」
空っぽになったプラスチック容器を両手で大事そうに胸に抱え、美女は満面の笑みで大きく息を吐いた。
「ごちそうさまでした……。我が人生において、これほど美味なる晩餐は初めてです。恩人殿、この御恩は、精霊に誓って一生忘れません!」
「あ、うん。どういたしまして……」
結衣は空腹で鳴りそうになる自分のお腹をさすりながら、目の前の謎の美女を改めて観察した。
食べ終わって人心地ついたのか、彼女の表情には少し余裕が出ている。
それにしても、不思議な出で立ちだ。
よく見ると、金髪の間から覗く耳の先が、人間よりも長く、尖っているように見える。コスプレの小道具にしてはやけにリアルだ。
「あのさ、君、一体何者? 家出? それとも、どこかのイベントの帰り? それにしてもボロボロすぎるけど……」
結衣が尋ねると、美女は姿勢を正し、胸に手を当てて恭しく頭を下げた。
「申し訳ありません、名乗り遅れました。私はシルフィリア。誇り高き『エルフ』の民にして、森の奥の古代遺跡を散歩中に、うっかり転移陣を踏み抜いてしまい……気づけばこの見知らぬ鉄とコンクリートの森に迷い込んでいた者です。よろしければ、シルフィとお呼びください」
「……」
澄み切った瞳で、大真面目にそんなことを言い放つシルフィ(自称エルフ)。
結衣は、数秒間無言で彼女を見つめ返した。
透き通るような金髪。尖った耳。ファンタジーRPGそのままの衣装。そして「転移陣」という謎のワード。
(……なるほど、把握した)
結衣は、両手で自分の顔を覆い、天を仰いだ。
(ヤバい、電波系の家出コスプレイヤーを拾ってしまった……!!)
ブラック企業での過酷な労働に疲れ果てた二十六歳のOLと、底なしの胃袋を持つ異世界の美少女エルフ。
後に日本のフードファイト界を席巻し、数々の伝説と大食い記録を打ち立てることになる『エルフちゃんねる』の二人の出会いは、深夜の公園での、四百五十円の冷めたシャケ弁当から始まったのである。




