第19話:看病という名のデカ盛り〜エルフ特製・10リットル中華粥〜
その日、篠原結衣の暮らす築四十年のボロアパートの一室には、キーボードを叩く乾いた音と、マウスのクリック音だけが延々と響き続けていた。
「……よし、ここのカットはもう少し詰めて……テロップの色はピンクベースで……くるみちゃんの笑顔の後に、シルフィの食いっぷりをインサートして……」
結衣は、充血した目でパソコンのモニターを睨みつけ、ブツブツと独り言を呟きながら動画編集ソフトと格闘していた。
現在時刻は午前三時。
テレビの超大型特番に出演して以来、『エルフちゃんねる』を取り巻く状況は文字通り激変していた。チャンネル登録者数はついに七十万人の大台に乗り、毎日のように企業からのタイアップ案件や、テレビ局からの出演オファーのメールが殺到している。
それに加えて、先日撮影したアイドル大食いクイーン・姫野くるみとの『原宿クレープ食べ歩きコラボ動画』の編集作業である。相手が国民的アイドルである以上、映像のクオリティに妥協は許されない。くるみの事務所のチェックも入るため、結衣はディレクターとしてのプライドを懸けて、フレーム単位での緻密な編集作業を三日三晩、ほぼ徹夜で続けていたのだ。
「ふぅ……。ここまでは完璧……。あとは、BGMのタイミングを合わせて……」
結衣がマウスに手を伸ばそうとした、その瞬間だった。
ズキリ、と。
こめかみの奥で、鋭い痛みが走った。
「……あれ?」
パソコンのモニターの光が、突然グニャリと歪んで見えた。視界の端がチカチカと点滅し、全身の血がサッと引いていくような感覚。
そして、急激な悪寒と、立っていられないほどの猛烈なめまいが結衣を襲った。
「ちょっと……ヤバいかも……」
立ち上がってベッドに向かおうとした結衣の足は、もつれて動かなかった。
グラリと視界が反転し、結衣の身体はフローリングの床に向かって崩れ落ちた。
ドンッ、という鈍い音が、静かな部屋に響き渡る。
「むにゃ……? なんの音ですか……? お肉が網から落ちた音……?」
部屋の隅の万年床で、幸せそうに寝言を言いながら丸まっていたシルフィリアが、その物音に気づいてのそりと起き上がった。
そして、パソコンデスクの横で倒れている結衣の姿を視界に捉えた瞬間、シルフィの眠気は完全に吹き飛んだ。
「ゆ、結衣殿!?」
シルフィは慌てて飛び起き、結衣の元へ駆け寄った。
「結衣殿! 結衣殿! どうされましたか!? 息をしてください!」
結衣の身体を抱き起こすと、彼女の顔は異常なほど赤く火照り、苦しそうな荒い息を吐いていた。シルフィが恐る恐る結衣の額に手を当てると、まるで焼け石に触れたかのような凄まじい熱さが伝わってきた。
「ひっ……! なんという熱さ! 結衣殿の身体が、まるで火の魔法でも受けたかのように燃えています! これは、病……いえ、過労による熱の発作ですね!」
エルフの知識と直感で、シルフィは結衣の状態を瞬時に理解した。
この数週間、結衣がまともに睡眠をとらず、自分の食事や世話、そして魔法の板での作業に全ての時間を捧げていたことを、シルフィは知っている。
自分が限界まで美味しいものを食べられているのは、結衣がこうして命を削ってくれているからなのだと、改めて痛感した。
「結衣殿……申し訳ありません。私がもっと気を配っていれば……」
シルフィは、意識の混濁している結衣を軽々と抱き上げると、自分の使っていた万年床の上に優しく寝かせ、布団をしっかりと首元まで掛けた。
結衣は「うぅん……」と苦しげなうめき声を上げ、身をよじっている。
「大変です。すぐに熱を下げ、体力を回復させなければ、結衣殿の命に関わります! 私の故郷の森であれば、癒やしの薬草を煎じて飲ませるところですが……このコンクリートの森には、そのようなものは生えていません」
シルフィは部屋の中をウロウロと歩き回り、必死に解決策を脳内で検索した。
そして、ピタリと足を止める。
「……そうだ! 以前、魔法の箱の幻影で見たことがあります。この国の人間は、病に倒れた時、お米をドロドロに煮込んだ『お粥』という魔法の食べ物を摂取して、体力を回復させるのだと!」
シルフィの碧眼が、カッと見開かれた。
「お米は、生命の源。それを消化しやすく煮込むことで、弱った胃腸にもダイレクトに魔力を注ぎ込むことができる……理にかなっています!」
さらに、シルフィのエルフ式・極端ロジックが、ここで恐るべき方向へと飛躍した。
「茶碗一杯の『お粥』で人間が元気になるのなら……それを大量に摂取させれば、熱など一瞬で吹き飛び、魔王すら倒せるほどの力がみなぎるはず!!」
病人に大量の食事を与えることがいかに危険かという、現代日本の常識は、底なしの胃袋を持つはらぺこエルフには一切通用しなかった。
「決まりました! 結衣殿、待っていてください! 私が、最強の回復魔法薬(デカ盛りお粥)を作って差し上げます!」
シルフィは、決意に満ちた表情で狭いキッチンへと向かった。
彼女が引っ張り出してきたのは、以前定食屋の『満腹亭』のゲンさんから、「これならエルフちゃんがいっぱい食べる時も便利だろ」と貰い受けていた、業務用サイズの巨大な寸胴鍋である。
普通ならラーメン屋でスープを仕込むために使うような、容量十リットルを優に超える巨大な銀色の鍋を、ガスコンロの二つの口を跨ぐようにしてドカンと置いた。
「まずは、白い妖精たち(お米)です!」
シルフィは、米びつから一升(十合)の白米をボウルに移し、手早く、しかし米粒を潰さないように優しく研いでいく。普段、結衣やゲンさんが料理をしている姿を、食い入るように見つめていたシルフィの脳内には、料理の基礎知識がしっかりとインプットされていた。
研いだ米を巨大な寸胴鍋に入れ、そこにたっぷりの水を注ぐ。
だが、ただの白粥ではエルフの美学が許さなかった。
「病の時には、ただのお米だけでは力がつきません! ここは、ゲンさん直伝の『中華風』で攻めるべきですね!」
シルフィは冷蔵庫を開け、結衣が買い置きしていた食材を次々と取り出していく。
鶏モモ肉のパック、長ネギ、生姜、ニンニク、そして中華スープの素(粉末)。
「生姜とニンニクは、身体の芯から熱を呼び起こし、病魔を焼き払う炎の精霊のハーブ! そして鶏肉の脂は、生命の潤滑油!」
シルフィは包丁を握り、驚くべき手際で生姜とニンニクをみじん切りにし、長ネギを刻み、鶏モモ肉を細かく切っていった。
それらを全て、一升の米と大量の水が入った寸胴鍋の中にドサドサと放り込む。
さらに、中華スープの素を惜しげもなく投入し、風味付けの胡麻油をタラーリと回しかけた。
「よし! あとは火の精霊の力に任せるのみ!」
コンロの火を最大にし、グツグツと煮立ち始めたら弱火にして、鍋底が焦げないようにお玉でゆっくりと、愛情を込めてかき混ぜ続ける。
コトコト、コトコト……。
およそ一時間が経過した頃。
狭いワンルームのアパートは、とんでもなく食欲をそそる暴力的な匂いで充満していた。
胡麻油の香ばしい香り。生姜と長ネギの爽やかで食欲を刺激する風味。そして何より、鶏肉から染み出した黄金色の脂と、お米の甘みが溶け合った、極上の中華スープの匂い。
「はぁ〜っ……! なんという芳醇な香り! 私の胃袋が、結衣殿よりも先に回復してしまいそうです!」
よだれを拭いながら味見をしたシルフィは、その完璧な出来栄えにガッツポーズをした。
米は完全にトロトロに崩れ、スープの旨味を極限まで吸い込んでいる。鶏肉の旨味と生姜のポカポカとした熱が、喉を通った瞬間に身体を芯から温めてくれるのだ。
完成したのは、寸胴鍋の縁ギリギリまで波打つ、総重量『約十リットル』の特製中華風お粥であった。
* * *
「……ん、んん……」
結衣は、強烈なごま油と鶏肉の匂いに鼻腔をくすぐられ、重い瞼をゆっくりと開けた。
視界はまだ少しぼやけているが、身体の熱は布団のおかげか少しだけ引いているような気がした。
「……あれ? 私、倒れて……?」
「結衣殿!! お目覚めですね!!」
すぐ真横から、元気いっぱいの声が降ってきた。
ビクッとして振り向くと、そこには満面の笑みを浮かべたシルフィが、信じられないほど巨大な『銀色の筒(寸胴鍋)』を両手で抱え込み、結衣の顔の真ん前に突き出していた。
「なっ……なになになに!? シルフィ、それ何!?」
「特製の回復魔法薬! エルフ流・栄養満点の中華お粥です!」
シルフィがドヤ顔で胸を張る。
鍋の中からは、モウモウと熱い湯気が立ち上り、病人の弱った胃腸には明らかに刺激が強すぎるであろう、黄金色の脂とネギが浮いたドロドロの物体が、マグマのように波打っていた。
「お、お粥って……。えっと、なんでそんな業者サイズなの? これ、どう見ても十リットルくらいあるんだけど……」
「はい! 人間は病の時にお粥を食べると回復すると聞きました! ならば、たくさん食べれば食べるほど、早く治るという完璧な計算に基づいております! さあ結衣殿、まずはこの一口目からどうぞ!」
シルフィは、ラーメン屋のスープをすくうような巨大な金属製のお玉でお粥をすくい上げ、結衣の口元へとグイッと押し付けてきた。
「熱っ! ストップストップ! シルフィ、あんたバカでしょ! 熱で倒れてる人間に、そんな凶悪な量と脂っこい中華粥を食べさせたら、治るどころか胃が破裂して死んじゃうわよ!」
結衣は必死に首を振り、巨大なお玉から逃れようとした。
「ええっ!? 死んでしまう!? ですが、私の計算では、この十リットルを全て胃袋に納めれば、結衣殿の魔力タンクは完全に満タンになり、明日の朝には空を飛べるようになるはずですが!」
「私はエルフじゃないの! ただのひ弱な人間のOLなの! お願いだから、普通サイズのお茶碗に少しだけよそって……」
結衣の必死の懇願を受け、シルフィはようやく事態を理解したのか、「し、しょんぼり……」と肩を落とし、大人しく普通のご飯茶碗にお粥をよそって持ってきてくれた。
「……はぁ。でも、作ってくれたのは本当にありがとう、シルフィ」
結衣は身体を起こし、シルフィからお茶碗とスプーンを受け取った。
熱々のお粥をフーフーと冷まし、少しだけ口に運ぶ。
「…………あっ」
結衣は、目を見開いた。
美味しい。
信じられないほど、美味しいのだ。
見た目は脂っこく見えたが、生姜とニンニクの風味が絶妙に効いており、鶏肉の臭みを完全に消し去っている。何より、お米が鶏の出汁を極限まで吸い込んでおり、口に入れた瞬間にトロリと溶けて、じんわりとした優しい温かさが食道を通って胃袋へと染み渡っていく。
熱で冷え切っていた身体が、内側からポカポカと温まり、細胞の一つ一つが喜びの声を上げているような感覚だった。
「美味しい……。すごく美味しいよ、シルフィ。生姜が効いてて、身体が温まる……」
結衣が素直に感想を伝えると、シルフィの顔がパァッと明るくなった。
「本当ですか!? 良かった! ゲンさんの手つきを思い出しながら、一生懸命お鍋をかき混ぜた甲斐がありました!」
「ふふっ……あんた、食べるだけじゃなくて、料理の才能もあるんじゃない? これなら、食欲がなくても全部食べられそう……」
結衣はフーフーと冷ましながら、あっという間に茶碗一杯分の中華粥を平らげてしまった。
胃袋に温かい食べ物が入ったことで、安心感と強烈な睡魔が同時に襲ってくる。
「……ごちそうさま。ごめん、シルフィ……私、もうちょっと寝るね……。編集の続きは……明日の朝、絶対にやるから……」
「はい! 魔法の板のことは気にせず、ゆっくりお休みください! 結衣殿の護衛は、この私がお引き受けいたします!」
シルフィの優しい声を聞きながら、結衣は再び深い眠りへと落ちていった。
* * *
「スゥ……スゥ……」
規則正しい結衣の寝息を確認し、シルフィはそっと立ち上がった。
結衣が食べてくれたのは、茶碗に軽く一杯だけ。
背後のキッチンには、巨大な寸胴鍋になみなみと入った、残り『9.9リットル』の中華風お粥が、手付かずのまま残されている。
「……結衣殿の命を救うためとはいえ、少し作りすぎてしまいましたね」
シルフィは寸胴鍋の前に立ち、腕を組んで思案した。
「食べ物を粗末にするのは、森の精霊の怒りを買う最大の禁忌。結衣殿がこれ以上食べられないのであれば……」
『――ギュルルルルルルルルルルルルルルルッッッ!!』
シルフィのペタンコのお腹が、待ってましたとばかりに歓喜の轟音を鳴らした。
「ふふっ。仕方がありませんね。結衣殿の看病で消費した私の魔力も、しっかりと補給しておかなければなりません」
シルフィは、ニヤリと極上の笑みを浮かべ、巨大なお玉と、自分のための『ラーメン用の特大どんぶり』を手に取った。
数分後。
「はぁ〜っ!! 美味しいです! やはり自分の好みに合わせたごま油多めの味付け、最高ですね! お粥という食べ物は、噛む必要がないので、文字通り『飲み物』のように胃袋へと吸い込まれていきます!」
静かな深夜のアパートに、お粥を豪快にすする音が響き渡る。
シルフィは、先ほど結衣に見せた優しい看病の顔から一転、一人の圧倒的なフードファイター(ただの食いしん坊)へと変貌を遂げていた。
特大どんぶりに山盛りのお粥を、わずか数十秒で平らげては、寸胴鍋から次々とおかわりを注ぎ込んでいく。
九リットルを超える炭水化物と水分の重い塊が、エルフの魔力変換器官を通ることで、一瞬にして光り輝くマナへと変換されて消えていく。
「熱い! 熱いですが、それがまた次の一口を誘います! 鶏肉の旨味、生姜の刺激! お粥とは、なんと奥深く、恐ろしい食べ物なのでしょうか!」
結局、シルフィが十リットルの寸胴鍋を完全に空にするまでに、三十分もかからなかった。
「ぷはぁっ! ごちそうさまでした! これで私の魔力も完全に満タンです! 明日の朝ごはんは、結衣殿と一緒に何を討伐しましょうか!」
ピカピカになった寸胴鍋を前に、満足げにお腹をさするシルフィ。
翌朝。
シルフィの特製中華粥のおかげか、結衣の熱はすっかり下がり、体調は嘘のように回復していた。
「うーん……よく寝た。あれ? 身体がすごく軽い」
結衣が身を起こすと、キッチンで鼻歌を歌いながら洗い物をしているシルフィの姿があった。
「あ、結衣殿! おはようございます! 顔色がすっかり良くなりましたね!」
「うん。シルフィのお粥のおかげだよ。ありがとう。……あれ? そういえば、あのとんでもない量の残りのお粥は?」
結衣がキッチンを見回すと、そこには綺麗に洗われてひっくり返された寸胴鍋があった。
「はい! 私が責任を持って、昨夜のうちに全て胃袋に納めさせていただきました!」
「……え? あれ、十リットル近くあったわよね?」
「はい! 噛まなくていいので、とても効率的な魔力補給になりました!」
「……そ、そう。あんたの胃袋、病気の時でも通常営業なのね」
結衣は呆れながらも、相棒の頼もしすぎる(?)食欲に思わず吹き出してしまった。
二人で笑い合っていると、ふと、結衣のスマートフォンの通知音が鳴った。
「ん? 事務所のポストに、郵便物が届いてるみたい」
結衣がアパートの一階にある郵便受けから持ってきたのは、一通の分厚い封筒だった。
「なにこれ……? 差出人は……『全日本フードファイト連盟』?」
結衣の手には、高級感のある真っ黒な封筒が握られていた。
それは、ただのテレビ特番やネットのバズりを超えた、大食い界の『真の頂点』を決める公式な戦いへの招待状。
この一通の黒い封筒が、『エルフちゃんねる』の二人を、さらなる過酷で熱い大食いの世界へと引きずり込むことになるとは、この時の二人はまだ知る由もなかった。
激闘の第2章が終わりを告げ、いよいよ猛者たちが集う第3章『大食い新人王決定戦』の幕が、静かに上がろうとしていた。




