第16話:空っぽの厨房と芽生えた友情〜限界の先のドローと、交わされた約束〜
「次!! 早く、次のお皿を持ってきなさいっ!!」
姫野くるみの、もはやアイドルとしての声色をかなぐり捨てた悲痛な叫びが、熱気渦巻く日本テレビの巨大スタジオに響き渡った。
制限時間は残り三分。
両者のテーブルには、もはや空になった色とりどりの皿が天を衝くほどの塔となって聳え立っていた。
スコアは『74対74』。
テレビ界の歴史に残る、極限のデッドヒート。
くるみの胃袋は、すでに許容量の限界を遥かに突破していた。水で無理やり流し込んだことでスポンジ生地が胃の中で膨張し、内臓が悲鳴を上げている。一口飲み込むごとに、全身の筋肉が拒絶反応を示し、額からは脂汗が滝のように流れ落ちていた。
それでも、彼女はプロの意地だけで、目の前のフォークを動かし続けていた。
「美味しい! 次です、メイド殿! まだ私の胃袋には、秋の味覚を受け入れるだけの広大な森が広がっています!」
対照的に、シルフィリアは七十四皿目の特製マロンパイを平らげ、満面の笑みでバンザイをしていた。
汗一つかかず、息も乱れず、ただ純粋な『食への愛』と、暴走する『マナ・クラフター(魔力変換器官)』の力によって、信じられないスピードで最高級スイーツを平らげていく。
勝負は最終局面。このまま行けば、確実にシルフィが逆転し、女王の座を引きずり下ろすことになるだろう。
誰もがそう思った。
しかし――。
「…………え?」
くるみとシルフィが、ほぼ同時に空の皿を差し出し、背後を振り返った時。
そこに待機しているはずのメイドたちの手には、もう何のトレイも握られていなかった。
彼女たちは真っ青な顔をして、フロアの隅にいるディレクター陣の方をすがるように見つめている。
「ど、どうしたのですか? メイド殿。お腹が空いて動けなくなったのですか?」
シルフィが不思議そうに小首を傾げる。
実況席の陣内拓海も、異変に気づき眉をひそめた。
「どうした!? スタッフ、ケーキの供給が止まっているぞ! 残り時間はまだ二分半ある! 両者まだまだ食べる気満々だ、早く次を出せ!!」
陣内の怒声に対し、インカムを押さえたフロアディレクターが、スケッチブックの裏に太いマジックで殴り書きをした『カンペ』を、震える手で陣内に向かって掲げた。
そこには、たった一言、こう書かれていた。
『ケーキ、全部なくなりました』
「…………は?」
百戦錬磨の伝説的プロデューサーである陣内の口から、間の抜けた声が漏れた。
「なっ……バカな。銀座の『ル・ショコラ』にも、表参道の『ストロベリー・ガーデン』にも、予備を含めて一人につき百皿分、合計二百皿以上のスイーツを用意させていたはずだぞ!? いくらなんでも、六十分の制限時間でそんな量が尽きるわけが……」
陣内は慌てて手元の資料と、現在のスコアボードを見比べた。
スコアボードの数字は、両者合わせて『148皿』。
だが、それはあくまで『テーブルに運ばれ、完食された数』である。
実は、この異常なスピードで爆食を続ける二人の美少女に追いつくため、裏の調理スペースでは、スタッフたちが必死になってケーキを箱から出し、皿に盛り付ける作業を続けていたのだが……その『箱のストック』自体が、完全に底をついてしまったのだ。
テレビ局の予算と、有名店が総力を挙げて用意した最高級スイーツの山が、たった一時間の間に、二人の胃袋(主にシルフィの魔力変換)によって、跡形もなく消滅してしまったのである。
「じ、陣内さん! どうします!? もう出せるものがありません! 控え室のスタッフ用のせんべいならありますが……!」
ディレクターの悲鳴に、陣内は一瞬だけ呆然とした後。
「……っはっはっはっはっは!!」
またしても、スタジオの天井を突き破らんばかりの、豪快な爆笑を巻き起こした。
「最高だ! 最高じゃないか!! テレビの想定を、局の予算を、はるかに凌駕するバケモノたちの宴!! これこそが、私の求めていた究極のエンターテインメントだ!!」
陣内はマイクをひったくり、セットのど真ん中へと躍り出た。
「ストォォォォォォォォップ!! 試合終了!! そこまでだぁぁぁっ!!」
突如として鳴り響いた終了のゴング。
残された時間はまだ二分以上あった。くるみもシルフィも、ポカンと口を開けて陣内を見つめている。
観客たちも、何が起きたのかわからず、ざわめき始めていた。
「皆様! 魔法の板の向こうの視聴者の皆様も、どうか聞いていただきたい!」
陣内は、大仰な身振りで両手を広げた。
「我が日本テレビが総力を挙げ、この日のために用意した全国の有名店絶品スイーツ。その数、実に二百皿以上。それがなんと……今、この瞬間、スタジオの裏の冷蔵庫から、一つ残らず消え去りました!!」
「「「「ええええええええええええっ!?」」」」
観客席から、地鳴りのような驚愕の悲鳴が上がった。
「つまり、物理的にこれ以上の対決の続行は不可能です! よって、この勝負……『74対74』をもって、前代未聞の、そして伝説となる『ドロー(引き分け)』といたします!!」
陣内がビシッと右手を掲げると、スタジオ内に、割れんばかりの大歓声と拍手が巻き起こった。
「うおおおおおおおおっ!!」
「すごい!! あの二人、局の用意したケーキ全部食い尽くしたぞ!!」
「伝説だ!! 神回確定だろこれ!!」
「くるみちゃんお疲れ様! エルフちゃんスゲェェェ!!」
降り注ぐ極彩色の紙吹雪と、熱狂的な歓声。
その中心で、シルフィは「なんと! すべてのケーキを討伐してしまったのですね! 我ながらあっぱれです!」と無邪気に両手を挙げて喜んでいた。
しかし、その隣の席で。
姫野くるみは、アイドルの笑顔を貼り付けたまま、テーブルの下でギュッと強く、爪が食い込むほどに拳を握りしめていた。
* * *
収録後。
『姫野くるみ様』と書かれた個室の楽屋。
バタンッ! と乱暴にドアを閉め、鍵をかけた瞬間、くるみの顔から完璧なアイドルの仮面が剥がれ落ちた。
「…………っ!!」
くるみは、そのまま崩れ落ちるようにソファに倒れ込み、両手で顔を覆った。
極限まで酷使した胃は、石を飲み込んだかのように重く、痛い。喉の奥からは甘ったるい香りが込み上げ、何度も吐き気に襲われる。
だが、肉体的な苦痛よりも、彼女の心を深く抉っていたのは、拭いようのない『敗北感』だった。
結果はドローだ。引き分け。
だが、くるみ自身が一番よくわかっていた。もし、あのままケーキのストックがあり、時間が最後まで続いていたら……確実に、自分はあのエルフの少女に負けていた。
自分は、水を使い、咀嚼を省略し、プロとしてのあらゆる技術を駆使して、命を削ってケーキを飲み込んでいた。
対して、シルフィリアは。
最初から最後まで、一切のテクニックを使わず、ただ純粋に「美味しい」と味わいながら、自分と同等、いや、終盤は自分以上のスピードでケーキを胃袋に収めていたのだ。
才能の差。
生まれ持った、圧倒的な『バケモノ』としての素質。
自分がどれだけ血反吐を吐いて努力しても、決して埋めることのできない、絶望的な壁。
「……悔しい……っ……」
くるみの目から、ポロポロと涙がこぼれ落ちた。
誰もいない楽屋で、彼女は声を押し殺して泣いた。
大食いアイドルとしてデビューし、周囲から「どうせ無理して吐いてるんだろ」「顔だけの偽物」と陰口を叩かれながらも、絶対に頂点を取ってやると誓って、胃袋を拡張する地獄のトレーニングに耐えてきた。
その全てが、あんな、どこから来たとも知れないジャージ姿のYouTuberに、たった一時間で粉々に打ち砕かれたのだ。
「何が、食への愛よ……。何が、味わうためにある、よ……。私だって……私だって、本当はケーキ、大好きだったのに……っ」
勝つために、味わうことを捨てた。
大好きなスイーツを、ただの『固形物』として処理する機械になった。
その自分の覚悟すらも、彼女の無邪気な食欲の前に否定されたような気がして、くるみの心はズタズタに引き裂かれていた。
コンコン。
不意に、楽屋のドアがノックされた。
「……誰よ。マネージャーなら後にしてって言ったでしょ」
くるみが涙声で怒鳴ると、ドアの向こうから、鈴を転がすような澄んだ声が聞こえてきた。
「私です。シルフィリアです。くるみ殿、少々よろしいでしょうか?」
「…………は?」
くるみは、慌てて涙を拭い、ソファから立ち上がった。
なぜ、あのエルフが私の楽屋に? まさか、引き分けになったとはいえ、実質的な勝者として、私を嘲笑いに来たのだろうか。
「笑いに来たの……?」
くるみはドア越しに、敵意を剥き出しにして声を尖らせた。
「同情なんていらないわよ。あんたの実力は認めるわ。でも、私はまだ負けてない! 次は絶対に……」
「いいえ、笑いに来たのではありません」
ドアの向こうのシルフィの声は、どこまでも真っ直ぐで、真剣だった。
「どうしても、くるみ殿に直接、お伝えしたいことがあったのです」
「伝えたいこと……?」
くるみは訝しげに眉をひそめ、ガチャリとドアの鍵を開けた。
ドアの隙間から顔を出したシルフィは、先ほどまでのジャージ姿ではなく、結衣が用意してくれた少しよそ行きのワンピースに着替えていた。
相変わらず、胃に七十皿以上のケーキが収まっているとは到底思えないほど、スッキリとしたお腹と美しい顔立ちをしている。
「……何よ。言いたいことがあるなら、早く言いなさいよ」
くるみが腕を組み、精一杯の虚勢を張って睨みつけると、シルフィは深く、丁寧にお辞儀をした。
「くるみ殿。本日は、素晴らしい戦いをありがとうございました」
「……え?」
「私は、エルフの森で一人で粗食を食べて育ち、この現代日本に迷い込んでからも、いつも結衣殿に見守られながら、自分の欲望のままにご飯を食べてきました」
シルフィは顔を上げ、澄み切った碧眼でくるみを真っ直ぐに見つめた。
「ですが……今日、あなたという素晴らしい『好敵手』の隣で、一緒に全力を出し切ってスイーツを食べたことで、私、初めて知ったのです」
シルフィの顔に、ひだまりのように温かく、純粋な笑顔が広がった。
「誰かと競い合い、お互いの限界をぶつけ合いながら食べるご飯が……あんなにも、あんなにも美味しく感じられるものだということを」
「…………っ」
くるみは、息を呑んだ。
「あなたが隣で、命を削るような凄まじい気迫で食べていたからこそ。私の中の魔力が……いえ、食への情熱が限界を突破し、あのような至福の味に到達できたのだと思います。あなたのおかげで、今日のケーキは、いつもより何百倍も美味しく感じました」
シルフィは、自分の胸に手を当て、心の底からの感謝を込めて言った。
「くるみ殿。本当に、ごちそうさまでした!」
その言葉には、一切の裏表も、嫌味も、勝者の驕りもなかった。
ただ純粋に、美味しいものを一緒に食べた仲間への、そして自分を高めてくれたライバルへの、純度一〇〇パーセントの敬意と感謝だけが詰まっていた。
「…………馬鹿じゃないの」
くるみは、ポツリと呟いた。
「な、何か失礼なことを言ってしまいましたか!?」
「馬鹿よ。ほんと、底抜けの大馬鹿」
くるみは、張り詰めていた心の糸が、プツンと音を立てて切れるのを感じた。
同時に、胸の奥底に溜まっていた泥のような敗北感と自己嫌悪が、シルフィのその無邪気すぎる光によって、綺麗に洗い流されていくのが分かった。
(こんなに真っ直ぐに『美味しい』って言われたら……私が今までやってきたこと、全部肯定されたみたいじゃない……)
くるみの瞳から、再び涙が溢れ出した。だが、それは先ほどまでの悔し涙とは違う、温かい感情の雫だった。
「……ずるいわよ、あんた」
くるみは手の甲で乱暴に涙を拭い、鼻をすすると、シルフィに向かってビシッと指を突きつけた。
「今日はドロー。引き分け。私の負けじゃないからね!」
「はい! 素晴らしいドローでした!」
「でも……あんたの実力は、認めてあげる。私が戦ってきた中で、文句なしの最強よ」
くるみは、少しだけ頬を赤く染め、ツンデレ気味に顔をプイッと背けた。
「だから……次は絶対に負けないから! 次戦う時は、水なんか使わなくてもあんたに勝てるように、もっともっと胃袋鍛え直してくるから! 首洗って待ってなさいよ!」
それは、ただの敵意ではない。
同じ大食いを愛し、高みを目指す者同士として認めた、本物の『ライバル宣言』だった。
「おおおっ!! 望むところです、くるみ殿!」
シルフィの碧眼が、再びキラキラと輝いた。
「今度お会いする時は、ぜひ『お肉』か『白米』で勝負したいです! 私、甘いものも好きですが、やはりあの脂と塩分の暴力が忘れられません!」
「……あんた、あれだけケーキ食っといてまだそんなこと言えんの? ほんとバケモノね。……ふふっ、あははははっ!」
くるみは、ついにお腹を抱えて笑い出した。
シルフィもつられて、「ふふふっ、美味しいものを食べると笑みが出ますね!」と笑う。
楽屋の前に隠れて様子を伺っていた結衣は、二人の楽しげな笑い声を聞いて、ホッと胸を撫で下ろした。
(よかった……。シルフィのあの天然の食欲、ある意味、どんな人の心も溶かす最強の魔法かもしれないわね)
テレビ界の絶対女王と、ネットから現れた異世界のバケモノ。
甘い地獄での死闘を経て、二人の間には、決して切れることのない『好敵手としての友情』が確かな芽を出していた。
この日の特番の放送は、後日、日本中のテレビのお茶の間を大いに沸かせ、凄まじい視聴率を叩き出すことになる。
『エルフちゃんねる』の知名度は、ネットの枠を完全に超え、全国区へと爆発的に広がっていった。
街を歩けば声をかけられ、テレビ局からは出演オファーが殺到する。
シルフィと結衣の生活は、この日を境に、劇的な変化を遂げていくことになるのであった。




