第14話:プロの技術 vs 素人の味覚〜大食いは競技か、食事か〜
「――現在、経過時間はちょうど三十分! 折り返し地点を過ぎたところで、両者の差はなんとダブルスコアにまで広がっているぅぅっ!!」
実況席に座る陣内拓海の絶叫が、熱気に包まれた日本テレビの巨大スタジオにビリビリと響き渡った。
巨大なLEDモニターに映し出されたデジタルタイマーが、無情にも『残り30分00秒』を刻む。
そして、その横に表示された現在のスコアボードは、観客席の誰もが予想だにしなかった、いや、ある意味では「プロと素人の残酷なまでの実力差」を如実に物語る数字を示していた。
『姫野くるみ:42皿』
『シルフィリア:21皿』
「圧倒的! まさに圧倒的です! 現役アイドル大食いクイーン・姫野くるみ、一切ペースを落とすことなく、次々と超高級スイーツの山を胃袋へと葬り去っていく! 対するエルフちゃんねるのダークホース・シルフィリア、食べる量こそ素人離れしていますが、いかんせんスピードが遅い! このままでは、時間切れで女王の圧勝となってしまうのかぁぁっ!?」
セットの裏側、カメラの死角となる袖のスペースで、篠原結衣は爪を噛みながら、焦燥感で顔を真っ青にしていた。
(ダメだ……! 全然追いつけない……!)
結衣はギリッと奥歯を噛み締めた。
シルフィリアの胃袋に限界がないことは、結衣が誰よりもよく知っている。彼女の体内にあるエルフ特有のマナ・クラフター(魔力変換器官)は、食べた端からカロリーを魔力へと変換して消費してしまうため、「お腹がいっぱいになる」という物理的な満腹は絶対に訪れない。
先ほど、シルフィがメイドに「五皿同時に持ってきてください」と宣言した時は、結衣も「これで一気に逆転できる!」と拳を握りしめた。
確かに、シルフィは五皿のケーキをペロリと平らげた。
だが、問題は『スピード』だった。
大食いというジャンルにおいて、『胃袋の容量』と『食べる速度』は全く別の能力である。
どんなに無限の胃袋を持っていようと、この勝負には『六十分』という絶対的なタイムリミットが存在するのだ。時間内に飲み込めた数だけがスコアとなる競技において、シルフィの戦い方は、あまりにも致命的な欠陥を抱えていた。
「う〜んっ! この『おぺら』という名前の茶色いケーキ、素晴らしいです! 表面のチョコレートのほろ苦さと、間に挟まれた珈琲のクリームが、大人の階段を登るような複雑な味わいを生み出しています! そして何より、この金箔! 魔力を帯びた黄金を食べる日が来るとは……むぐむぐ。はぁ〜っ、至福です!」
シルフィは、目の前に置かれた二十二皿目の『オペラ(フランス発祥のチョコレートケーキ)』をフォークで上品に切り分け、口に運ぶたびに目を閉じて、うっとりとした表情で食レポを叫んでいた。
その顔は、この世の全ての幸福を独り占めしているかのように美しく、見ている観客たちを微笑ましい気持ちにさせている。
しかし、彼女が一口のケーキを『咀嚼し』『味わい』『飲み込む』までに、およそ二十秒の時間を費やしている計算になる。
対して、隣の席で戦う『女王』の戦いぶりは、完全に異次元のものであった。
「はいっ、次お願いしまぁ〜すっ♡」
姫野くるみは、カメラに向けてとびきりのアイドルスマイルを振りまきながらも、その手元は一切の狂いなく、精密機械のような反復運動を繰り返していた。
彼女の目の前に、二十三皿目となる『ミルフィーユ』が置かれる。
何層にも重なったパイ生地と、濃厚なカスタードクリーム。普通に食べればパイ生地がボロボロと崩れ、口の中の水分を根こそぎ奪っていく、大食いにおいては最悪の難敵の一つだ。
しかし、くるみは全く動じなかった。
彼女はフォークの背を使って、美しいミルフィーユを上からグシャッ!と無慈悲に押し潰したのだ。
(なっ……!?)
袖で見ている結衣が息を呑む。
空気を多分に含んで高く盛り付けられたミルフィーユは、くるみの手によって一瞬にしてペラペラの高密度の塊へと圧縮された。
くるみはその塊をフォークで突き刺し、一思いに口の中へ放り込む。
そして、ここからがプロの真骨頂だった。
くるみの左手には、常に水の入ったグラスが握られている。
彼女はケーキを口に入れた瞬間、すぐさまグラスの水を口に含んだ。
ゴクッ。
わずか一回の咀嚼。いや、咀嚼というよりは、舌と上顎でケーキをすり潰しただけ。あとは水流に乗せて、胃袋の奥底へと直接『流し込んだ』のである。
「はぁ〜い、美味しかったぁっ♡ 次、お願いねっ!」
時間にして、わずか五秒。
シルフィがオペラケーキのチョコレートの余韻に浸っている間に、くるみはパイ生地の難敵を、瞬きする間に処理してしまったのだ。
(水……いや、ただの水じゃない!)
結衣はディレクターとしての観察眼で、くるみが飲んでいるグラスの中身に気がついた。
グラスには水滴がついておらず、時折かすかに湯気が上がっている。
(『ぬるま湯』だ……! 冷たい水を飲んだら、ケーキのバターや生クリームの動物性油脂が胃の中で冷えて固まってしまう。だから、体温に近いぬるま湯を使って、口の中で脂を溶かしながら流し込んでいるんだわ……!)
背筋に冷たい汗が流れる。
ケーキを圧縮して容積を減らす技術。
咀嚼による顎の疲労と時間のロスを極限まで削るための、ぬるま湯を使った流し込み技術。
これが、厳しいテレビ業界のフードファイト企画を勝ち抜いてきた、絶対女王・姫野くるみの『プロの技術』だった。
彼女は今、味わうという行為を完全に放棄し、ただひたすらに『制限時間内に、いかに多くの固形物を胃という名のタンクに移動させるか』という競技の最適解だけを実行しているのだ。
「す、すごい……! 姫野くるみ、まるでバキュームカーのような吸引力! ミルフィーユのサクサク感などお構いなし、完全に水で流し込んでタイムを削っていくぅっ!」
陣内の実況が、くるみのプロフェッショナルな戦いぶりを称賛する。
「シルフィ! ダメよ、味わってる場合じゃない!」
ついに結衣は耐えきれず、セットの陰から身を乗り出し、小声で、しかし必死の形相でシルフィに向かって叫んだ。
「あんたも水を使うの! グラスの水を飲んで! 噛まなくていいから、とにかく丸呑みして胃に流し込みなさい! そうしないと、時間に間に合わなくて負けちゃうわよ!」
結衣の必死の指示が、シルフィの耳に届く。
シルフィはピタリとフォークを止め、結衣の方を振り返った。そして、自分のテーブルの脇に置かれた、手付かずの水のグラスを見つめた。
結衣の言う通りにすれば、エルフの身体能力を持つシルフィなら、くるみ以上のスピードでケーキを丸呑みできるはずだ。胃袋の限界がないのだから、物理的な流し込みの速度勝負になれば絶対に負けない。
しかし。
シルフィはグラスを手に取ると、ゴクリと一口だけ水を飲み――そして、口の中をリセットするように軽くゆすいだ後、グラスをトンッとテーブルに戻してしまった。
「し、シルフィ!?」
「結衣殿」
シルフィは、困ったような、しかしどこか毅然とした表情で、首を横に振った。
「結衣殿の仰ることは、戦術としては正しいのでしょう。ですが……私には、できません」
「なんで!? 負けてもいいの!?」
「負けるのは嫌です。お肉が食べられなくなりますから。ですが……」
シルフィは、次に運ばれてきた二十三皿目の『マカロンの盛り合わせ』を愛おしそうに見つめた。
「こんなに美味しいものを、水で無理やり流し込むなんて、作ってくれた職人の方々……いえ、食材となってくれた命に対する冒涜です。サクサクとした生地の食感、間に挟まれた果実のジャムの香り、口の中で溶けていくクリームの余韻。それら全てを味わい尽くすことこそが、食事の喜びではありませんか!」
「それはそうだけど……今は競技中なのよ!」
「競技であろうと何であろうと、食べ物は味わうためにあるのです! 私は、私のやり方で、全てを美味しくいただいて勝利してみせます!」
シルフィは譲らなかった。
彼女の純粋すぎる『食への愛』が、大食いという競技において、最大の枷となって彼女自身の首を絞めていた。
シルフィは再びフォークを持ち、マカロンを一つ一つ、サクッ、サクッと良い音を立てて咀嚼し、目を細めて味わい始めた。
そのやり取りを、隣の席で聞いていた姫野くるみは、カメラに映らない角度で、冷酷な嘲笑を浮かべていた。
(バカね。やっぱり、ただの食い意地が張っただけの素人じゃない)
くるみは五十皿目のタルトをぬるま湯で流し込みながら、心の中でシルフィを見下した。
(味わう? 食材へのリスペクト? 笑わせないでよ。そんなおままごとみたいな綺麗事で、この私が命削って戦ってる『プロの世界』で勝てるわけないでしょ)
くるみの脳裏に、これまでの過酷な下積み時代がフラッシュバックする。
アイドルとしてデビューしたものの、鳴かず飛ばずだった日々。なんとかテレビに映るため、自分の身体を痛めつけてまで大食いの技術を磨いてきた。吐き気を催すほどの脂の塊を笑顔で飲み込み、胃拡張で内臓が悲鳴を上げても、カメラの前では「美味しいっ♡」と言い続けてきた。
そうやって血反吐を吐くような努力で手に入れた『女王』の座なのだ。
(ぽっと出のYouTuberなんかに、私の積み上げてきたものを壊されてたまるか!)
「ちょっと、エルフちゃん?」
くるみは、マイクが拾わないギリギリの小声で、隣で優雅にマカロンを食べているシルフィに話しかけた。
「……はい? くるみ殿、何か?」
シルフィが顔を向けると、くるみは口元だけは笑ったまま、目は完全に座った状態で言い放った。
「あんたさ、大食いを舐めてるの? 『食べ物は味わうもの』? ここはカフェじゃないのよ。全国放送のテレビ番組の、真剣勝負の舞台なの。あんたのその甘ったるいお食事会ごっこ、見てて反吐が出るわ」
「お食事会、ごっこ……」
「そうよ。勝つ気がなくて、ただ美味しいケーキを食べたいだけなら、さっさとギブアップして控え室に帰りなさいよ。本気で限界と戦ってる私に対して、失礼だと思わないの?」
くるみの言葉は、鋭い棘となってシルフィの胸に突き刺さった。
プロとして、勝つために手段を選ばず、味わうことすら切り捨ててタイムを削る姫野くるみ。
食を愛し、どんな時でも食材への感謝と味わう喜びを最優先にするシルフィリア。
大食いとは『競技』なのか、それとも『食事』なのか。
二人の根本的なイデオロギーが、この巨大スタジオのど真ん中で激しく衝突していた。
「……残り時間、あと二十分を切りましたぁっ!!」
陣内の声が、無情にもタイムリミットの接近を告げる。
『姫野くるみ:55皿』
『シルフィリア:28皿』
その差は、もはや絶望的とも言える『二十七皿』。
時間的に考えても、シルフィの現在のペースでは、たとえくるみが今この瞬間に食べるのをやめたとしても、追いつくことは物理的に不可能な計算だった。
観客席からも、初めの頃の「エルフちゃん美味しそうに食べるなぁ」という和やかな空気は消え、「さすがに勝負あったな」「くるみちゃんの実力が違いすぎる」という、諦めにも似たヒソヒソ声が漏れ始めていた。
セットの陰で、結衣は力なく膝から崩れ落ちた。
(ダメだ……。私のプロデュースミスだ。シルフィを勝たせたい一心でテレビに出したけど、大食い競技の『技術とルール』を教え込んでいなかった。シルフィの食への純粋な愛を、私が戦いの道具として利用しようとしたから……こんな残酷な結果を招いてしまったんだ)
結衣は涙を滲ませ、うつむいた。
だが。
絶望的なスコア差を前にしても。
プロからの辛辣な言葉を浴びせられても。
シルフィリアの碧眼に宿る光は、決して消えてはいなかった。
「……くるみ殿」
シルフィは、フォークを置き、静かな、しかし凛とした声で隣の女王に語りかけた。
「私は、決して大食いを、そしてあなたを舐めているわけではありません。あなたが勝つために血の滲むような努力と工夫を重ねていることは、その研ぎ澄まされた動きを見ればわかります」
「だったら……」
「ですが」
シルフィは、スッと背筋を伸ばし、スタジオの強い照明を正面から受け止めた。
「『味わったら勝てない』というのは、人間の限界の話ですよね?」
「……は?」
「私はエルフです。森の精霊に愛されし、気高き種族です」
シルフィは、自分のテーブルの前に積み上げられた、次の五皿のケーキ――チョコレートパフェ、チーズケーキ、マロンタルト、ティラミス、そしてショートケーキ――を、まるで愛しい我が子を見るような目で見つめた。
「食べ物を味わい尽くすことと、勝負に勝つこと。その両方を同時に成し遂げてこそ、真の『食事』と言えるのではないでしょうか」
「なっ……何言ってんのあんた。この時間と皿の差を見て言いなさいよ。物理的に不可能なのよ!」
「いいえ、不可能ではありません」
シルフィは、再びフォークとスプーンを両手に構えた。
「なぜなら……私の胃袋は今、この素晴らしいスイーツたちを味わった感動によって、かつてないほどの『魔力』を生み出そうとしているからです!」
その瞬間。
シルフィの身体から、目には見えない、しかし確かな『熱』のようなものが立ち上ったのを、隣にいたくるみだけが肌で感じ取った。
(な、なに……? こいつの周りの空気が……揺らいでる……!?)
シルフィの体内。
マナ・クラフター(魔力変換器官)が、危険信号を発するレベルで暴走を始めていた。
『美味しい』という究極の感情が、エルフの潜在能力のストッパーを完全に破壊したのだ。
制限時間は、残り十五分。
絶望的なスコア差を覆すための、一切の妥協を許さない『味わい尽くす爆食』が、いよいよ真の目覚めを迎えようとしていた。
「メイド殿」
シルフィは、振り返らずに背後のスタッフに告げた。
「追加のケーキは、これより……十皿単位でテーブルに並べてください」
「えっ……? じゅ、十皿ですか!?」
「はい。一秒たりとも、私の口の中からこの幸福を絶やしたくありませんので」
プロの計算と技術か。
素人の純粋な食欲と魔力か。
テレビ界の歴史に残る、極限の甘味地獄のクライマックスが、ついに火蓋を切ろうとしていた。




