第11話:テレビ局の弁当は食べ放題ですか?〜叙々苑ロケ弁と熱血プロデューサー〜
東京都港区汐留。
天高くそびえ立つ、ガラス張りの巨大な高層ビル。日本のテレビ業界を牽引するキー局の一つ、日本テレビの巨大な本社ビルを見上げながら、篠原結衣はゴクリと大きく生唾を飲み込んだ。
「……すごい。まさか私が、この正面ゲートを『出演者のマネージャー』として堂々とくぐる日が来るなんて……」
ほんの数週間前まで、結衣は底辺のブラック動画制作会社で、下請けのそのまた下請けとして、すり減るような労働を強いられていた。テレビ局に出入りしたことなど一度もない。それが今や、登録者数十万人を突破した大人気YouTubeチャンネル『エルフちゃんねる』の代表として、局の看板プロデューサーから直々に呼び出されているのだ。
緊張で膝がガクガクと震え、手足が一緒に動いてしまいそうになる結衣。
その隣で、あずき色のジャージを着た絶世の美少女――異世界からやってきたはらぺこエルフのシルフィリアは、ビルの頂上をぽかんと見上げていた。
「おおお……! なんと巨大な塔でしょうか! 結衣殿、ここは現代における魔王城ですか? それとも神々が住まう天上界への入り口でしょうか!?」
「どっちでもないわよ! ここはテレビ局。日本中の人たちに映像を届ける、エンターテインメントの総本山。いい、シルフィ。今日は絶対に変なこと言わないでよ? 私たちは今から、テレビ業界の超大物と打ち合わせをするんだから。失礼があったら、一瞬で干されて、二度とお肉が食べられなくなるわよ!」
「お、お肉が食べられなくなる!? それは死活問題です! 承知いたしました、私は借りてきた猫、いえ、森で息を潜めるスライムのように大人しくしております!」
お肉を人質に取られ、シルフィはビシッと背筋を伸ばして敬礼した。
受付で手続きを済ませ、入館パスを受け取った二人は、案内されたエレベーターで上層階へと向かった。
迷路のような廊下を進み、案内されたのは『控室』と呼ばれるエリアだった。ずらりと並ぶドアの一つに、一枚の紙が貼られている。
『エルフちゃんねる シルフィリア様・篠原様 控室』
「……様。様だって、シルフィ。私たち、個室の控室を用意してもらえてる……」
結衣は感動のあまり、その紙をスマホで三枚も写真に収めてしまった。
ガチャリとドアを開けて中に入ると、そこはふかふかのソファと、大きなメイク用の鏡が備え付けられた、広々とした快適な空間だった。
「わぁ……とてもふかふかした椅子ですね! それに、室内なのに暖かくも寒くもない、完璧な温度管理! これがテレビ局という名の魔王城の力……!」
シルフィがソファにダイブしてはしゃいでいる横で、結衣は深呼吸をして、昨日慌ててネット印刷で発注した『エルフちゃんねる事務所 代表・篠原結衣』と書かれた真新しい名刺を取り出し、渡す練習を始めた。
「初めまして、篠原と申します。いつもお世話になっております。……よし、角度は四十五度。笑顔は口角を上げて……」
結衣が名刺交換のシミュレーションに没頭していると、ソファでくつろいでいたはずのシルフィが、突然「ハッ!」と顔を上げ、犬のように鼻をヒクヒクと動かし始めた。
「……結衣殿。私のエルフの嗅覚が、とんでもなく危険な気配を察知しました」
「えっ? 危険って、何が?」
「あちらです! あの部屋の隅に積まれた、黄色い箱の山から……暴力的なまでの『肉とタレとニンニク』の匂いが、封印を破って漏れ出しているのです!」
シルフィが指差した先には、長机の上に高く積まれた、高級感のある黄色い紙袋と弁当箱の山があった。
結衣はそれを見て、ハッと息を呑んだ。
「あれは……! まさか、業界の都市伝説とまで言われている、最高級ロケ弁……『叙々苑の焼肉弁当』!?」
「じょじょえん!? それは、どのような魔物の肉ですか!?」
「魔物じゃないわよ! 叙々苑っていうのは、日本で一番有名と言っても過言ではない超高級焼肉店! そこのお弁当が出されるっていうのは、テレビ業界でも特番のMCクラスか、よっぽどのVIPゲストだけって聞いたことがあるわ! 一つ三千円以上する代物よ!」
「さ、さんぜんえん……! 先日の『しゃけべんとう』の約七倍の価値……!」
シルフィの碧眼が、爛々と輝き始めた。
「結衣殿、あの黄色い箱は、私に食べられるのを待っているのではないでしょうか? 『早く私を開けて、胃袋に納めてくれ』と、肉の精霊が私に語りかけてきています!」
「ダメよ! あれはおそらく、後から来る陣内プロデューサーや、スタッフさんたちの分も含まれてるの! 勝手に食べたら……」
結衣がシルフィを制止しようとした、まさにその時だった。
『バンッ!!』
控室のドアが、勢いよく開け放たれた。
「やあやあやあ! お待たせして申し訳ない!! 『エルフちゃんねる』のお二人だね!?」
部屋に飛び込んできたのは、声のやたらとデカい、恰幅の良い中年男性だった。
仕立ての良いスーツを着崩し、色付きの眼鏡の奥で鋭い目をギラギラと輝かせている。彼こそが、かつて日本中に大食いブームを巻き起こした伝説の男、日本テレビ制作部の陣内拓海プロデューサーであった。
彼の後ろには、目の下に真っ黒なクマを作った、いかにも激務で疲れ果てた様子の若いADの青年が、台本と資料の束を抱えて控えていた。
「ひゃっ! あ、は、初めまして!」
結衣は慌てて立ち上がり、練習通り四十五度の角度で深くお辞儀をしながら、両手で名刺を差し出した。
「『エルフちゃんねる』事務所代表の篠原結衣と申します! この度は、素晴らしいオファーをいただき、誠にありがとうございます! なにとぞ、よろしくお願いいたします!」
ド緊張で早口になる結衣から名刺を受け取ると、陣内は豪快に笑った。
「はっはっは! 篠原代表、そんなに硬くならないでくれ! 君たちの動画、穴が開くほど見させてもらったよ。君のあの絶妙なテンポの編集と、シズル感たっぷりの映像美……プロ顔負けの素晴らしいセンスだ! 君自身が優秀なディレクターなんだね!」
「えっ……あ、ありがとうございます……!」
ブラック企業で散々「お前の動画はセンスがない」と罵られ続けてきた結衣にとって、テレビ局のトッププロデューサーからの手放しの称賛は、涙が出るほど嬉しい言葉だった。
「そして……君が、ネットを騒がせている美少女エルフ、シルフィリアちゃんだね?」
陣内の視線が、ソファの前に立つシルフィに向けられた。
シルフィはあずき色のジャージ姿という、およそテレビ局には相応しくない格好だったが、その透き通るような金髪と、日本人離れした彫りの深い顔立ち、そして宝石のような碧眼は、実物で見ると映像以上の圧倒的なオーラを放っていた。
「初めまして、陣内殿。私は森の奥からやってきたエルフ、シルフィリアと申します。本日はお招きいただき、心より感謝申し上げます」
シルフィは胸に手を当て、エルフらしい優雅で気品のあるお辞儀をした。
「おお……! このルックスで、あの五キロの二郎系ラーメンを食い尽くすとは……! いやぁ、実物にお会いして確信したよ。君こそが、私の求めていた『最強のエンターテインメント』そのものだ!」
陣内は興奮を隠しきれない様子で、結衣とシルフィにソファに座るよう促し、自らも対面のソファに腰を下ろした。
「さて、さっそく本題に入らせてもらおう。今回君たちを呼んだのは、企画書にも書いた通り、来る年末の超大型特番『日本一決定! 爆食サバイバル・バトルロイヤル』に出演してもらうためだ」
陣内が指を鳴らすと、後ろに控えていたADが、分厚い企画書をテーブルの上に並べた。
「現在、テレビのバラエティ業界はコンプライアンスだなんだと煩くなり、すっかり丸く、おとなしくなってしまった。私がかつて熱狂した『大食い』というジャンルも、今ではただの『デカ盛り店紹介』に成り下がっている。だが、私はもう一度、人間の限界を超える胃袋のぶつかり合い、あの熱いフードファイトをテレビのど真ん中でやりたいんだ!」
陣内の口調は、次第に熱を帯びていく。
彼が身振り手振りを交えながら、テレビ業界の未来と大食いへの熱い情熱を語り始めた時――。
「あの、陣内殿」
シルフィが、スッと静かに手を挙げた。
「おお、なんだいシルフィちゃん? 質問かな?」
「はい。その『てれびの特番』というものに出演すれば……私は、美味しいご飯を無料でお腹いっぱい食べられる、という認識で間違いないでしょうか?」
そのあまりにも直球すぎる、食欲全開の質問に、結衣は顔面から血の気を引かせた。
(ちょっとシルフィ! テレビの仕事をお食事券か何かと勘違いしてない!?)
結衣が慌ててフォローに入ろうとしたが、陣内はポカンとした後、再び「あっはっはっは!」と腹の底から笑い声を上げた。
「間違いない! その通りだ! 番組が用意するのは、日本中の最高級食材、あるいは誰も見たことがないような巨大な絶品グルメばかりだ。勝てば勝つほど、君は最高の料理をタダで食いまくることができるぞ!」
「なんと! やはりここは天上界でしたか!」
シルフィの碧眼が、これ以上ないほどに爛々と輝いた。
「素晴らしい条件です! 私、結衣殿のため、そして私自身の胃袋のために、その戦いに参加することを、森の精霊にかけて誓います!」
「よし、言質は取ったぞ! だが、君の前に立ち塞がるのは一筋縄ではいかない猛者ばかりだ。中でも最強の壁となるのが……現在、テレビ界で無敗を誇る『アイドル大食いクイーン』、姫野くるみだ」
陣内は企画書のページをめくり、一人の少女の写真を指差した。
ピンク色のフリフリの衣装を着て、ウインクをしながらピースサインをしている、いかにも「あざとかわいい」王道アイドルといった風貌の女の子だ。
「彼女は可愛いだけじゃない。その胃袋と、食べるスピード、そしてフードファイトにおける『技術』は、歴代のチャンピオンたちをも凌駕する本物の怪物だ。素人である君が彼女に勝つには、相当な覚悟が……」
陣内が熱く語り続けている、その最中だった。
シルフィの視線は、陣内の顔でも企画書でもなく、部屋の隅にある『黄色い箱の山』に完全にロックオンされていた。
(テレビに出れば、タダで美味しいものが食べられる……。ということは、あそこに積んである『じょじょえん』という高級なお肉の箱も、食べても良いということですよね?)
シルフィは脳内で勝手なエルフ式論理を展開させると、陣内が熱弁を振るっている隙を突き、音もなくスススッ……と立ち上がり、長机の方へと移動した。
「いいか、姫野くるみに対抗するには、ただ量を食べるだけじゃダメだ。ペース配分、顎の疲労、そして何より満腹中枢との戦いになる! 君のその細い体のどこにそれだけのエネルギーが……」
陣内が身を乗り出して結衣に語りかけている背後で、シルフィは一つ目の黄色い箱を開封した。
パカッ。
現れたのは、白いご飯の上に敷き詰められた、タレがたっぷりと染み込んだ極上の網焼きカルビ。そして、ナムル、キムチなどの色鮮やかな付け合わせ。
漂い上がる、強烈なごま油と秘伝のタレの香り。
「……っ!」
シルフィは声を出さずに感動の涙を流し、割り箸を割った。
エルフの敏捷性を全開にした彼女の動きは、誰の目にも留まらないほど俊敏だった。
パクリ。モグモグ、ゴクッ。
最高級の焼肉が、白いご飯と共に、一瞬にしてブラックホールのような彼女の胃袋へと吸い込まれていく。
冷めていても信じられないほど柔らかい肉。甘辛いタレと、付け合わせのキムチの酸味が、食欲を無限に増幅させる。
(美味しい……! さすがは魔王城(テレビ局)の宴の料理! ですが、これ一つでは小鳥の餌にもなりませんね。次です!)
シルフィは空になった弁当箱を音も立てずに重ねると、二つ目の箱に手を伸ばした。
そして三つ目、四つ目。
陣内が「大食い界の未来について」の熱い演説をぶち上げている約十分間の間に、シルフィの背後では、恐るべきスピードで弁当箱の山が解体され、空箱の塔が築き上げられていったのである。
「――というわけでだ、篠原代表!」
陣内がビシッと結衣を指差し、演説の締めくくりに入った。
「私は君たちに、テレビ界の常識をぶっ壊してほしいんだ! やってくれるね!?」
「は、はいっ! 私たち、全身全霊で挑ませていただきます!」
結衣が深く頭を下げた。
「よし! 交渉成立だ! いやぁ、熱く語ってしまったら腹が減ったな! 昼食を兼ねて、具体的なギャラの交渉とスケジュールの打ち合わせをしようじゃないか」
陣内はネクタイを緩め、後ろに立つADを振り返った。
「おい、みんなの分の弁当を開けてくれ。今日は奮発して、特上の叙々苑ロケ弁を十個も用意しておいたんだ。シルフィちゃんもたくさん食べるだろうと思って……あれ?」
陣内の言葉が途切れた。
ADの青年が、長机の方を見たまま、幽霊でも見たかのように顔面を蒼白にし、全身をガタガタと震わせていたのだ。
「ど、どうした? 弁当がないのか?」
陣内と結衣が、ADの視線の先――長机の方を振り返る。
そこには。
「……ふぅ。大変美味しゅうございました。冷めてもなお、あれほどお肉が柔らかいとは、現代の調理魔法の奥深さに感服いたしました」
口元を上品にハンカチで拭いながら、満足げに微笑むシルフィリアの姿があった。
そして、彼女の横には。
綺麗に洗ったように米一粒すら残されていない、十個の『叙々苑弁当の空き箱』が、ジェンガのように美しく積み上げられていたのである。
「えっ」
結衣の口から、間の抜けた声が漏れた。
「なっ……」
陣内の目が、色付き眼鏡の奥で限界まで見開かれた。
「ぼ、ぼぼぼ、僕の……僕が昨日から並んで予約して、朝一番で受け取ってきた、スタッフ全員分の……三万円分の叙々苑ロケ弁がぁぁぁぁぁぁっ!?」
過労ギリギリのADの青年が、ついに膝から崩れ落ちて絶叫した。
「し、シルフィィィィィィィッ!!!」
結衣が頭を抱えて悲鳴を上げた。
「あんた、私が話を聞いてる間に、用意されてたお弁当全部食べちゃったの!? ちょっと、どういうこと!? あれ十人前よ!? いつの間に!?」
「えっ? あ、あれは私のためのウェルカム・前菜ではなかったのですか?」
シルフィは目をパチクリと瞬かせ、心底不思議そうに首を傾げた。
「陣内殿が、『用意しておいた』と仰っていたので、お言葉に甘えて……。とても美味しかったです! しかし、あれ十人前もあったのですね。エルフの腹八分目にも満たなかったので、気づきませんでした」
「バカエルフ!! テレビ局の偉い人のお弁当を勝手に全部食い尽くすなんて、大事件よ! ああもう、終わった……私たちのテレビ出演、始まる前に終わったぁぁ……!」
結衣は青ざめ、陣内に向かって土下座の勢いで頭を下げようとした。
「じ、陣内プロデューサー! 本当に、本当に申し訳ありません! お弁当代は私がお支払いしますし、今すぐ別のものを買って走らせますから……!」
しかし。
陣内は怒るどころか、積み上げられた十個の空き箱と、ペタンと平らなままのシルフィのお腹を交互に見比べた後――。
「……っはっはっはっはっは!! あっはっはっはっはっはっは!!」
天井が震えるほどの、割れんばかりの爆笑を巻き起こしたのだ。
「じ、陣内さん?」
「いやぁ、傑作だ! 私が話しているたった十分の間に、あのボリュームの叙々苑弁当十個を、音も立てずに完食してしまうとは! しかも、口の周りにタレ一滴つけていない! なんだその恐ろしいまでの美しさと吸引力は!」
陣内は笑い涙を拭いながら、シルフィに向かって親指を突き立てた。
「合格だ、シルフィちゃん! 君の胃袋は、本物のバケモンだよ! 弁当の十個や二十個、安いもんだ! これは、スタジオ収録が俄然楽しみになってきたぜ!」
「おお! では、スタジオに行けば、これ以上の美味しいご飯が待っているのですね! 任せてください、陣内殿!」
満面の笑みでガッツポーズをするシルフィ。
腰を抜かして泣き崩れているADと、心労で寿命が十年は縮んだ結衣をよそに、プロデューサーとエルフの間には、奇妙な信頼関係(?)が築かれたのであった。
素人のYouTuberが、テレビ界のド真ん中へ。
十個の高級ロケ弁を前菜代わりにして、はらぺこエルフの新たなる戦いが、今、幕を開ける。
次なる舞台は、華やかなテレビスタジオ。そして待ち受けるのは、裏表の激しいアイドル大食いクイーン・姫野くるみとの、バチバチの直接対決である。




