働かないための国家改革
翌朝。アストレイア帝国皇宮、謁見の間。
高い天井から差し込む朝日が赤い絨毯を照らし、多くの文官や貴族たちが静かに整列していた。最上段の玉座には、皇帝カシウス・アストレイアが堂々と腰掛けている。その傍らには第一皇子アルディオン。少し離れた位置には第一皇女エルシア。そして、グランセル公爵家次男レオンハルトも控えていた。居並ぶ貴族たちの視線が二人へ集まる。
「交易問題を解決した英雄……」
「さすが第一皇女殿下」
「レオンハルト殿も見事なお働きでしたな」
賞賛の声が聞こえるたびに、エルシアは優雅に微笑み、レオンも穏やかに会釈を返す。その姿は誰が見ても理想の皇女と理想の貴公子だった。
(違います)
(たまたまです)
二人の心の叫びは、もちろん誰にも届かない。やがて、カシウスが静かに立ち上がる。
「皆の者」
謁見の間が水を打ったように静まり返る。皇帝はゆっくりとエルシアとレオンを見つめた。
「先日の交易改革により、多くの混乱が解消された。この成果を一時のものに終わらせるつもりはない」
文官たちがざわめく、何か新しい発表がある。誰もがそう察した。
「よって本日より―…」
皇帝は高らかに宣言する。
「皇宮内に、新たな部署を設立する!」
ざわっ、と場がどよめく。
「その名を―…改革室とする」
空気が一変した。『改革室』聞いたこともない部署である。
「帝国中の無駄を見直し、民がより暮らしやすい国を築くための専門部署だ」
文官たちは顔を見合わせる。前例のない組織。だからこそ、誰が率いるのか気になって仕方がない。カシウスはゆっくりと視線を向けた。
「責任者には―…」
エルシアは嫌な予感しかしなかった。レオンも同じだった。
(違う人でありますように)
(どうか父上とか兄上で)
二人は人生でこれほど真剣に祈ったことがなかった。
「第一皇女エルシア」
「は、はい」
「そして、グランセル公爵家次男レオンハルト」
「…はい」
「以上二名を任命する」
静寂、ほんの数秒後。謁見の間は拍手と歓声に包まれた。
「おおっ!」
「当然のお二人だ!」
「まさに適任!」
「帝国の未来は安泰ですな!」
誰もが喜んでいる。ただしー…。
「辞退いたします」
「辞退します」
二人だけは、息ぴったりに頭を下げた。再び静寂。文官たちは耳を疑った。
「…今、辞退と?」
カシウスも目を丸くする。
「理由を聞こう」
エルシアは一歩前へ出た。
「恐れながら、私はまだ未熟でございます」
未熟者であるというのも本音ではある。だけと本当の本音は別にあった。
(働きたくありません)
レオンも続く。
「私には荷が重すぎます」
もちろん荷が重いというのも本音である。しかし本当の本音は別にある。
(帰って寝たいです)
もちろん、本音が漏れることはない。カシウスは腕を組み、小さく笑った。
「未熟だからこそ経験を積む、荷が重いからこそ、支え合う。辞退は認めん」
「「そんな。」」
エルシアが珍しく肩を落とす。レオンも同じだった。その様子を見たアルディオンが明るく笑う。
「二人なら大丈夫!」
「根拠は?」
思わずレオンが聞き返す。
「二人だから!」
「根拠になってません」
「でも事実だよ!」
アルディオンはどこまでも真っ直ぐだった。続いてクラウスも静かに口を開く。
「私も賛成です」
「兄上まで」
「君はいつも、自分では気づかないうちに周囲を助けている」
クラウスは穏やかに微笑む。
「エルシア殿下も同じです。二人とも、自分の力を過小評価しています」
エルシアはレオンを見る。レオンもエルシアを見る。二人とも、まったく納得していなかった。
「ではー…」
カシウスが手を叩く。侍従が一本の鍵を運んできた。
「今日からこれがお前たちの執務室だ。案内しよう」
皇帝自ら立ち上がり、二人を案内する。廊下を進み、皇宮の一角へ。重厚な扉がゆっくりと開かれた。
「入ってみなさい」
二人は恐る恐る中へ入る。思わず立ち止まった。広い、広すぎる。窓からは皇都が一望でき、壁一面には本棚。大きな机が二つ並び、応接用のソファまで置かれている。執務室というより、小さな貴族の屋敷ほどの広さだった。エルシアがぽつりと呟く。
「広い……」
レオンも周囲を見回しながら、力なく笑う。ついつい小さく本音が漏れる。
「帰りたい」
その言葉に、部屋の外で控えていたマルティナとオズワルドは顔を見合わせ、小さく苦笑した。『改革室』それは後に帝国の歴史を変えることになる部署だった。しかし、その最初の責任者となった二人の頭の中にあったのは―…。
((どうすれば早く仕事を終わらせられるだろう))
ただ、それだけだった。改革室の扉が静かに閉まる。先ほどまで皇帝や文官たちの視線にさらされていた部屋とは思えないほど、室内は穏やかな空気に包まれていた。エルシアは扉が閉まるのを確認すると、淑やかな笑みを一瞬で消し去る。
「……疲れた」
隣ではレオンも深く息を吐く。
「朝から一日分の気力を使った気がする」
「まだ午前中よ」
「聞かなかったことにしたい」
二人はほぼ同時に机へ突っ伏した。大きな執務机には、まだ書類は一枚も置かれていない。それなのに、二人の表情はすでに一日の仕事を終えたような疲労感に満ちていた。
「この部屋……」
エルシアが天井を見上げる。
「広すぎるわ」
「掃除する人が大変そうだ」
「そこ?」
「働く人が増える」
「確かに」
二人は真剣に頷き合う。その様子を見ていたマルティナが、温かい紅茶を静かに机へ置いた。
「まずは一息つかれてはいかがでしょう」
「ありがとう、マルティナ…」
「生き返る」
続いてオズワルドも焼き菓子を並べる。
「糖分は思考を助けます」
「さすがオズワルド」
「分かってる」
レオンは感動したように頷いた。四人だけになると、皇女も貴公子もどこにもいない。いるのは、少し怠け者な幼馴染二人と、それを長年支えてきた二人の老従者だけだった。紅茶を一口飲み、ようやく人心地ついた頃。レオンが真面目な顔になる。
「さて…」
エルシアも姿勢を正した。
「会議を始めましょう」
マルティナとオズワルドも自然と向かい合って座る。改革室、最初の会議である。沈黙が流れた。最初に口を開いたのはエルシアだった。
「仕事を断ることは、できると思う?」
「無理」
即答だった。
「ですわよね」
「会議、終わり」
「終わったわね」
開始三十秒で結論が出てしまった。四人は揃ってため息をつく。
「皇帝陛下の命令だからなあ」
レオンがぼやく。
「逃げても捕まるでしょうね。お父様のことだから」
「間違いなく。」
オズワルドが淡々と頷く。
「マルティナ」
「はい」
「病気ってことにできない?」
「殿下は先ほどまで、とてもお元気そうにお振る舞いでした」
「失敗したわ……」
エルシアは肩を落とした。
「では…」
レオンが机を指で軽く叩く。
「仕事は断れない」
「うん」
「逃げられない」
「うん」
「だったら、やる事は一つ」
二人は自然と視線を合わせた。
「仕事自体を減らそう」
その一言に、マルティナとオズワルドが静かに顔を見合わせる。エルシアがゆっくり頷いた。
「私たちが働きたくない理由って…」
「無駄が多いからだよね」
「そうなの」
彼女は窓の外を見つめる。
「同じ書類を何枚も書く。同じ説明を何回もする。同じ手続きを何度も繰り返す」
レオンも続けた。
「つまり、必要なのは仕事じゃないのよ」
「無駄」
「そう」
エルシアの瞳が少しだけ輝く。
「無駄があるから疲れる。無駄があるから残業になる。無駄があるから誰も幸せにならない」
オズワルドが腕を組む。
「なるほど」
「殿下方のお考えは一理ございます」
マルティナも微笑んだ。
「効率が上がれば、皆が早く帰れますね」
「それ!」
エルシアが勢いよく立ち上がる。
「それよ!」
レオンも立ち上がった。
「早く帰れる!」
二人は思わず顔を見合わせる。そしてー…。
「決まったわね」
「決まったね」
エルシアは近くにあった紙を取り、一番上へ大きく文字を書いた。レオンも横から覗き込む。そこには『改革室 基本理念』そして、その下に『楽をするために効率化する』と、大きく書かれていた。部屋の中が静まり返る。マルティナは一度その文字を見つめ、ふっと微笑む。
「殿下らしい理念でございます」
「褒めてる?」
「もちろんです」
オズワルドも頷いた。
「目的はどうあれ、結果として皆が楽になるのであれば、立派な改革でしょう」
「そうよね!」
エルシアは嬉しそうに笑う。
「私たちは怠けたいだけ」
「でも…」
レオンが続ける。
「みんなも楽になれば、一石二鳥」
「皆が楽になれば、最高よね」
二人は満足そうに頷き合った。その時だった。廊下の向こうから、何人もの足音が聞こえてくる。どんどん近づいてくる。やがて扉の前で止まった。コンコン、と控えめなノックが響く。
「失礼いたします!」
若い文官の声だった。
「改革室宛ての書類をお持ちしました!」
エルシアとレオンは固まる。ゆっくりと扉が開かれる。その向こうには、書類を抱えた文官たちが何人も並んでいた。しかも、その後ろにはさらに多くの人影が続いている。レオンは小さく呟いた。
「……まだ始まってもいないよね」
エルシアは遠い目をしながら答えた。
「ええ。でも、もう仕事が来たわ」
改革室の、本当の戦いが始まろうとしていた。
「失礼いたします!」
先頭に立つ若い文官が一礼すると、その後ろから次々と職員が入室してくる。一人、二人、三人…十人。全員が書類を抱えていた。しかも、その量は一人分ではない。腕いっぱいに積み上げられた書類の束が、机へ次々と置かれていく。
どさっ
どさっ
どささっ
静かだった改革室が、あっという間に紙の山に埋め尽くされていく。
「こちらは財務局より」
「こちらは商務局です」
「こちらは農政局」
「港湾管理局からも届いております」
「騎士団本部より確認依頼です」
「地方行政局から追加資料も」
文官たちは次々に説明しながら書類を積み重ねる。十分ほど経った頃には、机の姿はすっかり見えなくなっていた。ようやく最後の一人が退室すると、室内には奇妙な静寂が訪れる。エルシアは目の前の紙の山を見つめた。レオンも同じだった。しばらく誰も動かない。
「……」
「……」
そしてー…。
「多くない?」
「多いね」
それだけだった。マルティナが静かに紅茶を差し出す。
「まずは落ち着きましょう」
「ありがとう…」
エルシアは紅茶を受け取りながらも、視線は書類から離れない。
「これは夢よね?」
「現実ですね」
オズワルドが即答した。
「そう…」
レオンは紙の山を見上げる。
「帰りたい」
「私も」
二人の声は驚くほど揃っていた。しかし、逃げるわけにもいかない。エルシアは覚悟を決めるように一番上の書類を手に取った。
「まずは読んでみましょう」
レオンも隣で頷く。
「原因が分かれば減らせるかもしれない」
その一言に、二人の表情が少しだけ真剣になる。改革室の目的は、仕事を増やすことではない。仕事を減らすことだ。そのためには、まず敵を知らなければならない。最初の書類は、地方港湾の荷揚げに関する報告だった。エルシアが読み始める。
「港へ商船三隻が到着…」
次のページ。
「到着時刻の報告」
さらに次。
「積み荷確認報告」
さらに次。
「積み荷確認完了報告」
「……ん?」
エルシアの手が止まる。レオンも隣から覗き込む。
「確認完了報告?」
「その前にも確認報告がある」
二人は続きを読み進める。
「荷揚げ開始報告」
「荷揚げ中間報告」
「荷揚げ終了報告」
「終了確認報告」
「終了確認受領報告」
「受領確認済報告」
レオンがそっと書類を閉じた。
「確認が好きなんだね」
「好きすぎるわ」
エルシアは遠い目をした。
「しかも全部、同じ内容じゃない?」
「うん」
レオンは一枚ずつ並べていく。
「港へ船が来た。荷物を降ろした。終わった…以上。三行で終わる」
二人は顔を見合わせた。オズワルドも資料を確認し、小さく頷く。
「確かに、重複しております」
マルティナも静かにページをめくる。
「こちらは署名だけが違いますね」
「え?」
エルシアが受け取る。本当だった。文章はほぼ同じ、違うのは担当部署の印と署名だけ。
「同じ内容を六回書いてる…しかも部署ごとに」
レオンは次の束へ手を伸ばす。今度は農政局。しかし結果は同じだった。
「種を配りました。配布確認、配布確認終了、終了報告、受領確認、受領済確認、確認の確認…」
レオンは思わず机へ突っ伏した。
「これ、本当に必要?」
エルシアも頭を抱える。
「誰が考えたのかしら…」
さらに財務局、騎士団、地方行政局。どれも似たようなものだった。一つの案件につき、十数枚の報告書。内容はほとんど変わらない。同じことを違う部署が書き写しているだけだった。レオンは静かに紙の束を揃える。
「原因が分かった」
「ええ」
エルシアも頷いた。
「仕事が多いんじゃない」
「書類が多いわ」
「しかも…」
二人はまた同時に口を開く。
「「ほとんど無駄」」
マルティナとオズワルドは苦笑する。これほど大量の書類を前にしても、二人は悲観していなかった。むしろ少し安心しているようにも見える。原因が見つかったからだ。問題が見えれば、解決策も見えてくる。エルシアは机いっぱいに広がる書類を見回し、ぽつりと呟いた。
「…誰が読むのかしら、これ」
部屋が静まり返る。誰も答えられなかった。その沈黙こそが、帝国中に積み重なってきた”無駄”の重さを物語っていた。レオンは一枚の報告書を手に取り、小さく笑う。
「じゃあ」
「うん」
「読まなくていいようにしよう」
エルシアの口元にも、いたずらを思いついた子どものような笑みが浮かんだ。改革室初の本格的な改革は、山のような書類との戦いから始まろうとしていた。改革室の机いっぱいに並べられた報告書。エルシアとレオンは、それらを種類ごとに積み直していた。
「港湾関係」…とん。
「農政」…とん。
「財務」…とん。
「騎士団」…とん。
気づけば、部屋の床には紙の塔がいくつも出来上がっていた。マルティナはその様子を見て、小さく笑う。
「ずいぶん整理されましたね」
「ええ」
エルシアは肩を回しながら頷く。
「でも、問題はここから」
レオンは港湾局の書類を一束手に取る。
「同じ案件だけ抜き出してみよう」
そう言って、一枚ずつ机へ並べていく。
一枚目『商船三隻、入港』
二枚目『商船三隻、入港確認』
三枚目『商船三隻、荷揚げ開始』
四枚目『荷揚げ開始を確認』
五枚目『荷揚げ終了』
六枚目『荷揚げ終了確認』
七枚目『終了確認受領』
八枚目『受領済』
九枚目『以上を確認』
十枚目『最終確認』
部屋に沈黙が流れた。レオンは十枚の書類を順番に眺める。そして、小さく呟く。
「……全部同じこと書いてる」
エルシアも頷いた。
「ええ。違うのは書いた人だけだわ」
オズワルドも眼鏡を外し、静かに息を吐く。マルティナも頷く。
「これはさすがに効率が悪うございます」
「本当に」
レオンは白紙を一枚取り出した。
「だったら…」
さらさらと羽ペンを走らせる。書いた内容は驚くほど簡潔だった。
1.入港
2.荷揚げ
3.完了
最後に確認者の署名欄を三つ。
「終わり」
エルシアが思わず笑う。
「一枚になったわ」
「うん」
レオンは肩をすくめた。
「読む人も書く人も楽」
「最高ね」
二人は満足そうに頷いた。マルティナは完成した様式を手に取り、何度も見返す。
「確かに必要な情報はすべてございます」
「無駄がありません」
オズワルドも感心したように頷いた。その日の午後。改革室へ各役所の責任者たちが集められた。第一皇子をはじめ、財務局長、商務局長、農政局長、港湾局長。帝国でも指折りの官僚たちである。エルシアが新しい報告書を示した。
「こちらを提案いたします」
部屋が静まり返る。最初に口を開いたのは財務局長だった。
「……一枚?」
「はい」
「これだけですか?」
「はい」
商務局長も困惑している。
「確認書類は?」
「ここです」
「受領書は?」
「同じ紙です」
「完了報告は?」
「同じ紙です」
「えっ?」
官僚たちは顔を見合わせた。ざわざわと部屋が騒がしくなる。
「前例がありません!」
「部署ごとの記録が!」
「責任の所在が!」
「書式が!」
「印章が!」
次々と反対の声が上がる。レオンは静かにその様子を見ていた。予想どおりだった。長年続いた仕組みは、それだけで変えにくい。その時…。
「皆…」
穏やかな声が響いた。アルディオンだった。
「少し考えてほしい」
彼は一枚の新様式と、十数枚の旧書類を並べる。
「必要な情報は減っていますか?」
官僚たちは黙る。
「……減っておりません」
「では、困るのは誰でしょう」
誰も答えられない。そこへクラウスが一歩前へ出る。
「私は公爵家で領地の報告も見ています」
落ち着いた声が部屋に響く。
「領民が苦労して提出した書類を、役所で何度も書き写す必要があるでしょうか」
その問いに、何人もの官僚が視線を落とした。クラウスは静かに続ける。
「民のため、それが我々の仕事です。形式を守るためではありません」
部屋の空気が変わっていく。反対していた官僚たちも、少しずつ表情を和らげ始めた。その時だった。扉が開く。
「皇帝陛下、ご入室」
一同が立ち上がる。カシウスは新しい様式を手に取ると、しばらく眺めた。そして穏やかに微笑む。
「良い」
その一言だけだった。
「この書式を採用する」
誰も異論を唱えなかった。
「まずは皇都の役所から開始する。成果が確認できれば、帝国全土へ広げよう」
官僚たちは一斉に頭を下げる。
「御意」
エルシアとレオンは顔を見合わせた。
(通っちゃった)
(本当に一枚になった)
二人は心の中で同じことを思う。仕事を減らしたかっただけ。その願いが、帝国初の文書改革として動き始めようとしていた。改革室が提案した新しい報告書は、皇帝カシウスの裁可を受け、その日のうちに皇都の各役所へ通達された。最初は誰もが半信半疑だった。
「本当に一枚でいいのか?」
「確認書類は?」
「追加報告は必要ないのか?」
戸惑いの声があちこちで上がる。だが、皇帝直々の命令である。逆らう者はいなかった。
翌朝、商務局。若い役人のエドガーは、いつものように机へ向かった。そこには毎朝のように積み上げられているはずの書類の山が―…なかった。
「……あれ?」
思わず周囲を見回す。同僚たちも首をかしげていた。
「まだ運ばれてきていないのか?」
「いや、もう届いているぞ」
「え?」
局長が一枚の紙を掲げる。
「これだ」
一同が固まった。
「……一枚?」
「これだけだ」
恐る恐る受け取って読む。入港時刻、積み荷、担当者、確認欄、必要事項はすべて書かれている。
「終わり……?」
「終わりだ」
役人たちは顔を見合わせた。いつもなら十数枚あった書類が、本当に一枚しかない。半信半疑のまま処理を始める。十分後ー…。
「終わりました」
「私もです」
「こちらも」
局内が静まり返った。
「……早くないか?」
別の役人が時計を見る。
「まだ午前中ですよ」
「嘘だろ……」
一方、農政局でも同じことが起きていた。
「種子配布報告、終了しました」
「確認しました」
「以上です」
「以上?」
「以上です」
「もう終わり?」
「終わりです」
局長は何度も書類をめくる。しかし、裏にも続きはない。本当に一枚だけだった。
「……」
「……」
「終わった」
誰かが呟いた。その一言が局中へ広がる。
「終わった」
「終わったぞ!」
「昼前に!」
驚きと戸惑いが入り混じった歓声が上がった。港湾局でも、財務局でも、騎士団本部でも。同じ光景が繰り返されていた。書く時間が減る。読む時間も減る。判を押す回数まで減った。今まで一日かかっていた仕事が、半日もかからず終わってしまう。役人たちは嬉しいというより、困っていた。
「……仕事が終わった」
「終わったな」
「何か忘れていないか?」
「いや、確認した」
「確認した確認は?」
「もう要らない」
「……」
「……本当に?」
誰もが落ち着かない。長年「仕事は終わらないもの」だと思っていた。だから終わってしまうことの方が不安だった。
午後、改革室にも各役所から報告が届き始める。エルシアは一枚ずつ目を通した。
「不備なし」
「こちらも問題なし」
レオンも頷く。
「苦情もない」
「意外ね」
「もっと反発されると思ってた」
その時、商務局長が改革室を訪れた。二人は身構える。何か問題が起きたのだろうか。しかし局長は深々と頭を下げた。
「ありがとうございました」
「……え?」
エルシアは思わず聞き返す。
「若い役人たちが、今日は昼食をゆっくり食べられたと喜んでおります。家族と夕食を囲めるとも。」
局長は穏やかに笑った。
「今まで当たり前だと思っていた無駄に、ようやく気づきました。感謝いたします」
そう言って去っていく。エルシアとレオンはしばらく黙っていた。
「……感謝されたわ」
「うん」
「私たち、仕事を減らしただけなのに」
二人は少しだけ照れくさそうに笑う。その頃、皇都の役所では、もう一つ大きな変化が起きていた。
「定時です」
鐘の音が鳴る。いつもなら誰も席を立たない時間だった。だが今日は違う。一人、また一人と立ち上がる。
「お先に失礼します」
「お疲れさまでした」
「明日もよろしくお願いします」
誰も慌てていない。残業のための書類もない。役所の灯りは、夕暮れとともに次々と消えていく。家へ帰る役人たちの表情は、どこか晴れやかだった。その光景を改革室の窓から眺めながら、レオンは静かに呟く。
「みんな、帰ってる」
エルシアも窓辺へ歩み寄る。
「いい光景ね」
「うん」
二人は自然と微笑み合う。…早く帰れる。それは自分たちだけの願いだったはずなのに。いつの間にか、その願いは帝国中の役人たちの笑顔へと繋がっていた。しかし、そのことに二人はまだ気づいていなかった。文書改革が始まってから数日。皇都では、小さな変化が確かな実感へと変わり始めていた。
「今日はもう終わりか」
「ええ、定時です」
「信じられないな」
役所では、日が沈む前に帰宅する役人の姿が当たり前になりつつあった。商人たちは長時間待たされることもなくなり、申請は以前よりずっと早く受理される。自然と、人々の口から同じ言葉が聞こえるようになった。
「改革室のおかげだ」
「第一皇女殿下は素晴らしい」
「レオンハルト様も本当にお優しい」
噂は皇都から地方へ。地方から帝国全土へ。まるで風に乗るように広がっていった。
その頃、改革室。エルシアは窓際の椅子に座り、紅茶を口にしていた。
「平和ね」
「平和だね」
レオンもソファへ身を預ける。机の上には数枚の書類しかない。改革室が発足して以来、初めてと言っていいほど静かな時間だった。
「このまま何も起きなければ…」
「今日は早く帰れそうよね」
二人は穏やかに微笑む。マルティナもその様子を見て、小さく頷いた。
「ようやく殿下方も一息つけそうですね」
「ええ」
オズワルドも珍しく安堵した表情を浮かべる。
「仕事が減るというのは、良いことでございます」
その瞬間だった。コンコン…扉がノックされる。
「失礼いたします!」
若い文官が大きな封筒を抱えて入ってきた。
「改革室宛てのお手紙です」
「ありがとう」
エルシアは受け取り、中身を確認する。
「……陳情書?」
レオンも覗き込む。
『我が町の道路も改善していただけませんか』
『用水路を整備していただきたいです』
『税の申請をもっと簡単にしてください』
『橋の修繕をお願いしたく存じます』
二人は顔を見合わせる。
「増えたね」
「一通だけなら」
そう言った直後だった。再び扉が叩かれる。
「追加です!」…どさり
「こちらも!」…どさり
「南部地方からです!」…どさり。
「西方領です!」…どさり。
次から次へと運び込まれる封筒。改革室の机は、あっという間に紙で埋まっていく。文官たちは汗を流しながら運び続ける。
「北方からも届いております!」
「港町からも!」
「孤児院からです!」
「騎士団からも要望が!」
十分後、二十分後、三十分後。ようやく最後の文官が退室した頃には、部屋の様子は一変していた。机は見えない。椅子にも積まれている。床にも整然と積み上げられた封筒の山。部屋の隅にまで紙の塔が築かれていた。レオンが一番近くの山を見上げる。
「……高い」
「私より高いわ」
エルシアが呆然と呟く。マルティナは封筒を一つ開き、中を確認した。
「すべて改善のご相談ですね」
「『改革室なら何とかしてくれる』と書かれています」
オズワルドも別の封筒を開く。
「こちらは東部地方」
「こちらは山岳地帯」
「こちらは離島」
「帝国中から届いております」
レオンは机へ突っ伏した。
「人気って怖い」
「とても怖いわ」
エルシアも同じように突っ伏す。ほんの数日前。二人が望んでいたのは、仕事を減らすことだけだった。その結果…仕事を頼みたい人が、帝国中から集まってきたのである。静寂が流れる。やがてエルシアがゆっくり顔を上げた。
「……増えてる」
レオンも遠い目をしながら頷く。
「仕事が減ったはずなのに」
マルティナは紅茶を注ぎながら、穏やかに微笑んだ。
「人気者は大変でございますね」
オズワルドも眼鏡を整え、淡々と言う。
「自業自得、と申します」
二人は勢いよく立ち上がった。
「「違う!」」
声が改革室いっぱいに響き渡る。その叫びを聞いた廊下の文官たちは、
「今日も改革室は熱心に議論されている」
「帝国の未来を真剣に考えておられるのだ」
と感動した様子で頷き合っていた。もちろん、その勘違いを正す者は誰もいない。こうして改革室は、帝国中から期待を寄せられる存在となった。そしてエルシアとレオンの「働かないための国家改革」は、本人たちの願いとは裏腹に、さらに大きな仕事へと発展していくのだった。
1話ごとが少し長いかなと思いつつ、少しでも楽しんでもらえたら嬉しいです。




