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微笑む皇女と嘘つき公爵子息の働かないための国家改革  作者: 伊丹 宝


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2/5

公爵子息は、今日も笑顔で嘘をつく


アストレイア帝国には、皇族に次ぐ名門と称される公爵家が四つ存在する。その筆頭に名を連ねるのが、建国以来、代々皇帝を支え続けてきたグランセル公爵家だった。武にも政にも秀で、数々の英雄や名臣を輩出してきた名門。現当主リヒャルト・グランセルは「帝国の盾」と称えられるほどの人格者であり、その妻イザベラは社交界を束ねる淑女たちの憧れである。そんな名門の屋敷は、朝早くから静かな活気に包まれていた。


庭師は花壇を整え、侍女たちは廊下を磨き、料理人たちは食堂から漂う香ばしい匂いを屋敷中へ運んでいく。規律正しく、それでいて温かな空気。それがグランセル家の日常だった。


「おはようございます、レオンハルト様」


回廊へ姿を現した青年に、使用人たちが一斉に頭を下げる。朝日に照らされた金色の髪、澄み切った蒼い瞳。穏やかな微笑みを絶やさぬ端正な顔立ち。グランセル公爵家次男、レオンハルト・ヴェルディオ・グランセル。帝都では『帝国一の貴公子』の名で知られ、社交界では彼と一曲踊ることを夢見る令嬢が後を絶たない。


「皆さん、おはようございます。今日もよろしくお願いします」


柔らかな声が響くだけで、その場の空気まで明るくなる。


「お、おはようございます!」

「今日も素敵…」

「見ているだけで幸せです」


若い侍女たちは顔を赤らめ、庭師の老人は目を細める。レオンは誰に対しても分け隔てなく接し、小さな仕事にも感謝を忘れない。だからこそ、屋敷中の者が彼を慕っていた。ー…もっとも。


(眠い)


本人の頭の中は、朝からそれだけだった。


(あと三時間………いや五時間寝られたら最高だった)


微笑みを浮かべながら歩きつつ、心の中では盛大なため息をつく。


(今日は休みにならないかな。できれば何もしない日が欲しい)


しかし、その本音が表情へ漏れることはない。幼い頃から染み付いた「理想の貴公子」という仮面は、今日も完璧だった。


「坊ちゃま」


落ち着いた声が後ろから聞こえる。振り返ると、一人の老紳士が静かに歩み寄ってきた。銀髪をきちんと撫でつけ、黒い燕尾服を寸分の乱れなく着こなす老執事、オズワルド・ベルモント。三代にわたりグランセル家へ仕え続ける名執事であり、レオンにとっては祖父のような存在でもあった。


「おはよう、オズワルド」

「おはようございます。本日は笑顔が三割増しでございますね」

「眠気を誤魔化すには笑うしかないからね」

「なるほど。では本日は眠気が七割ということで」

「八割かな」

「残り二割で一日を乗り切っていただきましょう」


オズワルドは真顔で返す。レオンは苦笑した。


「やっぱり帰りたい」

「まだ一日の始まりでございます」

「部屋に戻って二度寝したい」

「侍女の皆様が泣きます」

「じゃあ、誰にも見つからない場所で寝たい」

「そのような場所がございましたら、私も老後に利用したく存じます」


二人は顔を見合わせ、小さく笑う。この屋敷でレオンの本音を知る者は、オズワルドだけだった。


「坊ちゃまは、第一皇女殿下とよく似ておられますな」

「エルシアに?」

「ええ。本日もきっと、同じことを考えておられるでしょう」


レオンは思わず吹き出した。


「今頃、『寝たい』って思ってるね」

「間違いございません」

「それなら少し安心した」

「何がでございます?」

「僕だけじゃないってこと」


二人は笑いながら食堂へ入る。大きな扉の向こうでは、すでに家族が揃っていた。


「おはよう、レオン」


穏やかな笑みを浮かべたのは長男クラウス。派手さこそないが、誠実で優しく、領民からの信頼も厚い次期公爵だ。


「おはようございます、兄上」

「昨夜も遅くまで本を読んでいただろう?少し眠そうだね」

「顔に出てた?」

「いや、笑顔が少しだけ柔らかい」

「兄上くらいしか分からないよ、それ」


そのやり取りを聞きながら、公爵リヒャルトは新聞を畳み、静かに頷いた。


「訓練中の者以外、全員揃ったな」


短い一言だったが、それだけで食卓の空気が引き締まる。厳格な父。しかし家族との朝食だけは欠かさない。それがリヒャルトという男だった。


「それでは―…」


イザベラが微笑みかけた、その瞬間。


「母上ぇぇぇぇぇぇ!」


勢いよく扉が開き、一人の少年が飛び込んできた。鍛え上げられた身体に、朝から汗だくの笑顔。三男ガイゼルだった。


「朝の鍛錬、一万回終わりました!」

「ガイゼル」


イザベラは優雅な笑顔を崩さない。


「昨日の歴史の課題は?」


ガイゼルの笑顔が止まった。


「えっと……筋肉に集中していたら…」

「勉強は?」

「明日の筋肉がやる予定です!」

「筋肉は字を書きません」

「ぐっ……!」

「食後、私と勉強部屋へ行きましょう」

「父上!助けてください!」


リヒャルトは静かに紅茶を飲む。


「母の言うことを聞きなさい」

「兄上!」

「僕も学生時代は勉強したよ」

「レオン兄!」


助けを求める視線が最後に向く。レオンはパンを口へ運びながら微笑んだ。


「頑張れ」

「裏切ったぁぁぁ!」


食堂は笑い声に包まれた。その穏やかな朝を切り裂くように、廊下から慌ただしい足音が響く。


「失礼いたします!」


一人の使用人が深く頭を下げた。


「皇宮より使者がお見えです」


食堂の空気が一変する。オズワルドは静かに扉へ向かい、差し出された封書を恭しく受け取った。漆黒の封蝋には、皇帝家の紋章が刻まれている。それを見たレオンは、まだ封も切られていないというのに、小さく肩を落とした。


(……嫌な予感しかしない)


食堂に漂っていた笑い声は、皇宮の紋章が刻まれた封書を前にして、ぴたりと止んだ。オズワルドは恭しく一礼すると、封蝋を丁寧に外し、中の書状へ目を通す。その表情は変わらない。しかし長年仕えてきたリヒャルトには、その僅かな眉の動きだけで内容がおおよそ察せられた。


「皇宮からか」

「はい、旦那様」


オズワルドは書状を閉じ、静かに読み上げる。


「第一皇女殿下との交易案件について協議を行うため、レオンハルト・グランセル―…至急、登城せよ、とのことにございます」


食堂が静まり返る。レオンだけが、深々と椅子へ沈み込んだ。


「……やっぱり」

「どうした?」


父リヒャルトが首を傾げる。


「嫌な予感、当たった」

「皇帝陛下から直々のお呼び出しだ。名誉なことではないか」

「父上はそう思えるんですね……」

「もちろんだ」


迷いのない返答だった。帝国を支える公爵として、皇帝に尽くすことを誇りとしてきた男らしい答えである。一方のレオンは、心の中で静かに天を仰いだ。


(休みが消えた。いや、最初から休みじゃなかったけど。精神的な休みが消えた。)


そんな息子を見ながら、イザベラはすでに侍女へ指示を出していた。


「レオンの正装を用意してちょうだい。髪も整えましょう。皇宮へ伺う以上、グランセル家の名に恥じない姿でなければなりません」

「かしこまりました」

「母上」

「何かしら?」

「普段着で行ったら駄目ですか」

「駄目です」

「即答だ」

「皇宮ですもの」


微笑みながら言う母に隙はない。レオンは静かに諦めた。その様子を見て、クラウスが苦笑する。


「そんな顔をしなくても大丈夫だよ」

「兄上」

「陛下がお呼びになるということは、それだけ信頼されている証拠だ」

「その信頼が怖いんだ」

「ははっ」


クラウスは穏やかに笑った。


「困ったことがあれば、私も力になる」

「ありがとう。でも、兄上まで巻き込まれそう」

「それでも家族だからね」


その優しい言葉に、レオンは少しだけ肩の力を抜いた。ー…その空気を壊したのは、もちろん。


「俺も行きます!」


ガイゼルだった。勢いよく立ち上がる。


「皇宮ですよね!」

「そうだ」

「俺も陛下に筋肉を披露したいです!」


レオンは嫌な予感しかしなかった。


「何を披露するの」

「腕立て伏せです!」

「皇帝陛下の御前で?」

「はい!」

「やめて」

「では腹筋!」

「そこじゃない」


リヒャルトが咳払いを一つする。


「ガイゼル」

「はい!」

「今日は勉強だ」

「……」

「歴史」

「……」

「数学」

「……」

「母と一緒にな」


ガイゼルの肩が、見る見る落ちていく。


「兄上……」

「頑張れ」

「レオン兄まで……」


今にも泣きそうな弟を見て、食堂は再び笑いに包まれた。そんな賑やかな光景を眺めながら、オズワルドはすでに出発の準備を終えていた。


「馬車の用意が整いました」

「仕事が早いね」

「坊ちゃまは支度がお済みですので」

「現実逃避する時間くらい欲しかった」

「馬車の中でお願いいたします」

「それは逃避じゃなくて移動だよ」

「違いは存じ上げません」


レオンは苦笑しながら屋敷を後にする。

門の前では使用人たちが一列に並び、深々と頭を下げていた。


「いってらっしゃいませ!」

「お気を付けて!」

「レオンハルト様なら大丈夫です!」


誰もが信頼の眼差しを向ける。レオンはいつものように微笑み返した。


「ありがとう。行ってきます」


馬車がゆっくりと動き出す。窓の外には、朝の帝都が広がっていた。市場には商人が集まり、子どもたちは元気に走り回る。平和な景色だった。レオンは背もたれに身体を預け、大きく息を吐く。


「仕事が増える予感しかしない」

「今回はかなり強く当たっております」

「やっぱり?」

「第一皇女殿下がお呼びであれば、十中八九でございます」

「エルシアも巻き込まれてるんだろうな」

「おそらく」

「今頃、同じ顔してそう」

「『帰りたい』と考えておられるでしょう」

「絶対そうだ」


二人は思わず笑った。本音を隠して生きる者同士。互いの気持ちが手に取るように分かる。


「坊ちゃま」

「何?」

「諦めも大切でございます」

「希望を捨てろって?」

「現実を受け入れていただければと」

「オズワルドって、たまに厳しいよね」

「長生きしておりますので」


馬車は皇宮へ続く大通りへ入る。白亜の城壁が朝日に照らされ、帝国の象徴たる皇宮がその威容を現した。門が開き、馬車がゆっくりと正門前へ止まる。レオンが降り立った、その瞬間。


「レオン!」


聞き覚えのある、よく通る声が響いた。振り向けば、黄金の髪を朝日に輝かせた青年が、大きく手を振っている。エルシアによく似た、美しい顔立ち。だが、その笑顔はどこまでも真っ直ぐだった。


「待っていたよ!」


第一皇子アルディオン・アストレイア。帝国の次代を担う皇太子であり、レオンの親しい友人でもある。その眩しすぎる笑顔を見たレオンは、微笑みを崩さないまま心の中で静かに呟いた。


(……逃げるなら、今かな)


黄金色の髪が風に揺れ、青く澄んだ瞳が嬉しそうに細められる。整った顔立ちは、第一皇女エルシアと驚くほどよく似ていた。兄妹であることを知らなくとも、「血の繋がりがある」と一目で分かるほどだ。だが、その雰囲気は正反対だった。エルシアが優雅で気品ある静かな美しさなら、この青年は太陽のように人を惹きつける温かさをまとっている。


アストレイア帝国第一皇子、アルディオン・アストレイア。次代の皇帝として帝国中から期待される人物であり、誰に対しても誠実で裏表のない性格から、貴族だけでなく兵士や使用人たちにも深く慕われていた。


「お久しぶりです、アルディオン殿下」


レオンはいつもの穏やかな笑みを浮かべ、一礼する。


「そんなに畏まらなくていいよ。幼馴染なんだから」


アルディオンは笑いながらレオンの肩を軽く叩いた。その力加減まで優しい。


(……相変わらず眩しい人だ)


レオンは心の中だけで呟く。この皇子には裏がない。誰に対しても同じ笑顔を向け、困っている人がいれば迷わず手を差し伸べる。だからこそ、人望は絶大だった。


「今日は急に呼び出してしまってごめんね」

「いえ、お気になさらず」


(気にはするけど)


もちろん、そんな本音は胸の内だけにしまっておく。


「父上から聞いたよ。交易問題の件で協力してくれるんだって!」

「……そうみたいですね」

「ありがとう!」


満面の笑みが眩しい。


(断る選択肢があれば良かったんだけど)


レオンが苦笑した、その時だった。


「あっ」


アルディオンの手から、抱えていた書類の束が滑り落ちた。


「しまった!」


ーばさばさばさっー


大量の書類が風に舞い、石畳いっぱいに散らばる。


「あああっ!」


慌ててしゃがみ込むアルディオン。


「ご、ごめん!」

「お気になさらず」


レオンも自然に膝をつき、一枚ずつ丁寧に拾い集める。


「いつものことですから」

「慰めになってないよ!」


アルディオンは耳まで赤くなった。


「どうして僕はこうなんだろう……」

「殿下は少し慌てやすいだけです」

「少し?」


その時。


「いや、かなりだと思う」


落ち着いた声が二人の後ろから聞こえた。


「兄上!」


レオンが振り返る。そこに立っていたのは、グランセル公爵家長男クラウスだった。きちんと着こなした礼装に身を包み、穏やかな笑みを浮かべている。


「お待たせしました」

「クラウス!」


アルディオンの表情がぱっと明るくなる。


「ちょうど良かった!」

「また書類を落とされたのですか?」

「……うん」

「今回は何枚です?」

「全部」

「全部ですか」


クラウスは小さくため息をつきながらも、どこか慣れた様子で書類を拾い始めた。


「順番もばらばらですね」

「ごめん……」

「謝る前に、次はしっかり抱えてください」

「努力する!」

「その言葉は昨日も聞きました」


レオンは思わず吹き出しそうになる。アルディオンは帝国中で「理想の皇子」と称えられている。しかし、その実態は驚くほど天然だった。そしてクラウスは、そんな皇子を昔から支えてきた苦労人である。二人のやり取りは、兄弟のように自然だった。


「ありがとう、クラウス」

「いえ。殿下がお怪我をなさらなければ、それで十分です」

「君がいてくれて本当に助かるよ」

「こちらこそ」


互いに微笑み合う二人を見ていると、不思議と安心する。


(兄上、本当に殿下と息が合うな)


昔から変わらない。真っ直ぐすぎる皇子と、それをさりげなく支える兄。その関係を見ていると、自然と口元が緩んでしまう。


(やっぱり、この二人はいいコンビだ)


最後の一枚を拾い終えたアルディオンは、ようやく胸をなで下ろした。


「よし、これで全部!」

「今度は落とさないでくださいね」

「任せて!」


そう言って抱え直した瞬間、書類がぐらりと傾く。レオンとクラウスは反射的に両側から支えた。


「危ない」

「ありがとう!」


二人は顔を見合わせ、小さく笑う。そんな三人の姿を見ていた近衛騎士たちも、思わず頬を緩めていた。アルディオンは書類を抱え直すと、満面の笑みで言った。


「そうだ!」

「?」

「エルも来るはずなんだ!」


その一言を聞いたレオンは、微笑みを崩さないまま心の中で静かに呟いた。


(……嫌な予感しかしない)



アルディオンとクラウスのやり取りに和やかな空気が流れる中、廊下の向こうから近衛騎士たちが一斉に姿勢を正した。


「第一皇女殿下のお成りです」


その声とともに、一人の少女がゆっくりと歩いてくる。銀糸のように美しい長髪、澄み切った蒼い瞳。気品に満ちた立ち姿は、一枚の絵画のようだった。第一皇女エルシア・アストレイア。帝国中の人々から『アストレイアの至宝』と称えられる、美貌・知性・礼節を兼ね備えた理想の皇女である。


「皆様、おはようございます」


柔らかな微笑みを浮かべるだけで、その場の空気が華やぐ。騎士たちは胸に手を当て、侍女たちは思わず見惚れてしまう。


「今日もお美しい……」

「まさに理想の皇女様だ」

「皇女殿下とレオンハルト様が並ぶと、本当に絵になりますね」


周囲の囁きに、レオンは穏やかに一礼した。


「おはようございます、エルシア殿下」

「おはようございます、レオンハルト様」


互いに非の打ちどころのない笑顔、優雅な所作、完璧な距離感。その姿を見た若い騎士が、感動したように呟く。


「なんて気品あふれるお二人なんだ……」

「帝国を代表する若きお二人ですね」


アルディオンも満足そうに頷く。


「二人とも本当に立派になったなあ」


その言葉に、クラウスも微笑む。


「幼い頃から変わらず、お似合いのお二人です」


(全然変わってないけど)

(変わってないわね)


二人は心の中だけで同時に返事をした。もちろん、表情は一切変わらない。やがてアルディオンが嬉しそうに言う。


「父上の準備が整うまで少し時間があるそうだよ」

「では、それまで庭園でお待ちいたしましょう」


エルシアが上品に微笑む。レオンも静かに頷いた。


「ご一緒いたします」


二人が並んで歩き出すと、周囲からはため息が漏れた。


「なんて美しい光景……」

「帝国の宝だ」

「見ているだけで心が洗われる」


そんな賞賛を背に受けながら、二人は人気のない中庭へと足を運ぶ。噴水の水音だけが静かに響く。誰もいないことを確認すると。


「はぁぁぁ……」

「はぁぁぁ……」


二人同時に大きなため息をついた。そして同時に近くの石造りのベンチへ腰を下ろす。


「眠いわ」


エルシアが真っ先に呟く。


「僕も」


レオンも即答した。


「朝から公務って、人間の生活じゃないわ」

「分かる」

「もう、部屋に帰りたい」

「僕も帰りたい」

「今日は何もしたくないわ」

「奇遇だね。僕も何もしたくない」


二人は顔を見合わせる。


「やっぱり幼馴染ね」

「考えることが一緒だ」


再び同時にため息。


「それにしてもー…」


エルシアは空を見上げた。


「仕事、増えそう」

「間違いなく増える」

「交易問題だけじゃ済まない気がする」

「僕もそう思う」

「嫌ねぇ」

「嫌だねぇ」


どこまでも息の合う二人だった。少し離れた場所では、マルティナとオズワルドがその様子を見守っている。


「相変わらずでございますね」


オズワルドが小さく笑う。マルティナも肩をすくめた。


「人前では完璧なお二人ですのに」

「二人きりになると、途端に気が抜けます」

「幼い頃から何一つ変わっておりません」

「その方が安心いたします」


二人は顔を見合わせ、優しく微笑んだ。誰よりも二人の本性を知る者同士。だからこそ、この気の抜けた姿が微笑ましかった。


「そういえば!」


エルシアがレオンを見る。


「さっき、お兄様に捕まったでしょう」

「うん」

「ご愁傷様」

「エルシアもこれからだよ」

「……」


一瞬、沈黙が流れる。アルディオンの事は好きだが、巻き込まれると仕事が増える事を知っているエルシアなりの慰めの言葉。巻き込まれる時は一緒だと、遠回しにレオンは言う。


「逃げる?」

「無理だと思う」

「よね」

「残念だけど」


二人は同時に立ち上がった。ちょうどその時、重厚な扉が静かに開く。姿を現した侍従長が、深々と頭を下げた。


「第一皇女殿下、レオンハルト様」


二人は自然と背筋を伸ばす。先ほどまでの気の抜けた空気は、一瞬で消え去った。再び『完璧な皇女』と『理想の貴公子』の仮面を被る。


「皇帝陛下がお呼びです」


二人は視線を交わし、小さく頷く。


(仕事だ)

(仕事だね)


心の中だけで同じ言葉を交わしながら、二人は皇帝の待つ執務室へ足を向けた。皇帝カシウスの執務室は、帝国中の重要事項が集まる場所であるにもかかわらず、不思議と張り詰めた空気はなかった。壁一面に並ぶ書棚、大きな窓から差し込む柔らかな陽光。そして執務机の向こうで穏やかに微笑む皇帝。


「よく来てくれた、エルシア、レオン」


二人は美しい所作で一礼する。


「お呼びいただき、光栄に存じます」


完璧な皇女、完璧な貴公子。誰が見ても非の打ちどころのない姿だった。


(帰りたい)

(早く終わらないかな)


もちろん、本音は誰にも聞こえない。


「さっそくだが、先日の交易問題についてだ」


カシウスは机の上の書類を軽く叩いた。


「お前たちの助言で、国境の混乱はかなり落ち着いた」

「恐れ入ります」


エルシアは静かに微笑む。


「ですが、まだ根本的な問題は残っている」


皇帝の合図で、侍従が分厚い資料の束を机へ積み上げた。


ーどさりー

ーどさりー

ーどさりー


レオンは笑顔のまま固まる。


(多い)


エルシアも笑顔を崩さない。


(見なかったことにしたい)


「これが現在の交易手続きだ」


皇帝が言う。


「各地方で書式が異なり、申請も重複している。商人からも改善を求める声が多くてな」

「拝見いたします」


二人は席につき、資料をめくり始めた。最初は真剣に読んでいたアルディオンも、途中から首をかしげる。


「……同じ内容の申請書が三種類ある?」

「しかも提出先が全部違いますね」


クラウスも冷静に指摘した。


「こちらもです。一度許可を受けた内容を、別部署で再確認しています」

「無駄ですね」


レオンがぽつりと呟く。


「ええ」


エルシアも即座に頷いた。二人は無言のまま資料をめくる。一冊、二冊、三冊。やがて、ぴたりと手が止まった。二人は同時に顔を上げる。


「……」

「……」


そしてー…。


「これ…」

「全部……」


二人は声を揃えた。


「「なくせばいい」」


執務室が静まり返る。アルディオンが目を丸くする。


「えっ?」


クラウスも資料を見直した。エルシアは淡々と説明を始める。


「内容が重複している手続きを一本化すれば、商人の負担は大幅に減ります」


レオンも続ける。


「審査を一度にまとめれば、人員も時間も節約できます」

「なるほど……」


アルディオンが感心したように頷く。


「難しく考えすぎていたのか」

「人は昔から続いている仕組みほど、変えることを恐れます」


クラウスが静かに言う。


「だからこそ、外から見る視点が必要なのでしょう」


皇帝も満足そうに頷いた。


「続けてくれ」


レオンは紙へ簡単な図を書き始めた。


「申請は一枚、審査も一度、担当部署は合同、期限も統一しましょう」


書き終える頃には、複雑だった流れが誰の目にも分かるほど簡潔になっていた。


「これなら仕事量も減ります」


エルシアが微笑む。


「商人も役人も楽になります」

「素晴らしいよ、二人とも!」


アルディオンは目を輝かせた。


「これなら帝国中が助かる!」


その時だった。執務室の扉が勢いよく開く。


「父上ー!」


元気いっぱいの声が響く。全員が振り向くと、そこにはガイゼルが立っていた。後ろではリヒャルトが申し訳なさそうに額へ手を当てている。


「申し訳ございません、陛下。…勉強部屋を抜け出して…情けないが、追いつけなかった」

「ガイゼル……」


リヒャルトは申し訳なさで項垂れ、クラウスが苦笑する。本来咎めなければならないはずが、皇帝カシウスは面白そうに微笑んでいる。


「兄上!」


ガイゼルは机いっぱいの資料を見るなり、不思議そうに首をかしげた。


「そんな難しいこと考えなくても、筋肉みたいに鍛えればいいじゃないですか」

「……筋肉?」


全員の視線が集まる。


「筋肉って、無駄な動きが多いと力が逃げるでしょう?」


ガイゼルは両腕を曲げながら真剣な顔で続けた。


「だから一番動きやすい形にするんです!」


執務室が静まり返る。レオンはゆっくりと図面を見た。エルシアも資料を見返す。


「……動線」


レオンが呟く。


「手続きの流れも同じね」


エルシアの瞳が輝いた。


「役所の配置まで見直せば、人の移動も減らせる」

「商人は一か所で全部終わる」

「役人も移動しなくて済む」


アルディオンが立ち上がる。


「それだ!」


クラウスも頷いた。


「無駄な動きをなくす……か」


リヒャルトは息子を見つめ、小さく笑う。


「筋肉も、時には役に立つものだな」

「でしょう!」


ガイゼルは胸を張った。本人は何が起きたのか分かっていない様子だったが、その一言が改革の最後の欠けた一片を埋めていた。レオンは新しい図面を見つめ、小さく息を吐く。


「終わらせよう」


エルシアも穏やかに微笑む。


「早く帰るために」


新たにまとめられた改革案を前に、皇帝カシウスは静かに目を通していた。執務室には紙をめくる音だけが響く。誰も口を開かない。やがて最後の一枚まで読み終えた皇帝は、ゆっくりと資料を閉じた。


「……見事だ」


その一言に、室内の空気が一変する。


「重複する手続きを統合し、人の流れまで整理するとはー…」


カシウスは穏やかに微笑んだ。


「商人にも役人にも利益がある。無理なく続けられる改革だ」

「恐れ入ります」


エルシアは優雅に頭を下げる。レオンも一礼した。


「皆様のお力添えがあってこそです」


それは紛れもない本音だった。資料を整理したのはクラウス。現場の事情を補足したのはアルディオン。最後の発想のきっかけは、ガイゼルの何気ない一言だった。自分たちだけの功績ではない。そう思っていた。しかしー…。


「さすが第一皇女殿下です!」

「レオンハルト様もまさに帝国一の俊英!」

「お二人だからこそ思いついた改革です!」


居並ぶ文官たちは感嘆の声を上げる。近衛騎士たちも感心したように頷いていた。


「まさしく帝国の未来を担うお二人…」

「なんという慧眼だ」


称賛は止まらない。エルシアは笑顔を崩さない。


(違うのよ!)


レオンも微笑み続ける。


(みんなで考えたんだけど)


二人の心の声が重なる。だが、その思いは誰にも届かない。アルディオンはまるで自分のことのように嬉しそうだった。


「やっぱり二人はすごいな!」


クラウスも穏やかに微笑む。


「幼い頃から、お二人なら必ず成し遂げると思っていました」

「兄上まで……」


レオンは苦笑するしかない。その時だった。ガイゼルが勢いよく前へ出る。


「つまり!」


全員が振り向く。


「筋肉のおかげですね!」


しん、と室内が静まり返る。リヒャルトは目を閉じて額を押さえた。イザベラがこの場にいなくて本当に良かった、と誰もが思った。アルディオンは真剣な顔で首を傾げる。


「……筋肉?」

「はい!」


ガイゼルは自信満々に胸を張る。


「筋肉は無駄を嫌いますから!」

「そういうものなのか……」

「違います。」


クラウスが即座に訂正した。執務室に笑いが広がる。張り詰めていた空気が一気に和らぎ、皇帝までもが肩を震わせて笑っていた。


「ははは……。」


カシウスは目元を拭いながら頷く。


「ガイゼル、お前もなかなか面白い」

「ありがとうございます!」


本人は褒められたと思っている。その姿に再び笑いが起こった。ひとしきり騒ぎが落ち着いた頃。エルシアはレオンへ小さく視線を送る。レオンも同じことを考えていた。


―…今なら逃げられる。


二人は誰にも気づかれぬよう静かに一礼し、執務室を後にした。向かった先は、皇宮の庭園。色鮮やかな花々が咲き誇り、噴水の水音だけが静かに響いている。人気のない場所まで歩くと。


「はぁぁぁ……」

「はぁぁぁ……」


またしても二人同時に深いため息をついた。しばらく沈黙が続く。やがてエルシアがぽつりと呟いた。


「私たち」

「うん」

「何かした?」


レオンは少し考え、真面目な顔で答えた。


「したことになってる」

「よね」

「うん」


再び沈黙。風が木々を揺らし、小鳥が楽しそうにさえずる。それとは対照的に、二人の心は少しも晴れなかった。


「嫌な予感しかしない」


エルシアが空を見上げる。


「僕も」


レオンも同じように空を見る。


「今日で終わる気がしない」

「私も」

「帰れない気がする」

「私も」


息ぴったりだった。その時…。


「殿下」


聞き慣れた落ち着いた声が響く。二人が振り返ると、マルティナが書類を抱えて立っていた。その後ろにはオズワルドも控えている。二人とも、どこか申し訳なさそうな表情だった。


「……何でしょう」


エルシアが恐る恐る尋ねる。マルティナは静かに一礼した。


「皇帝陛下がお呼びです」


一瞬、時間が止まる。エルシアとレオンは顔を見合わせた。何も言わない。ただ同時に空を見上げる。雲ひとつない青空は、どこまでも美しかった。


「……」

「……」


そして二人はまったく同じタイミングで、大きく息を吐いた。


「「はぁぁぁぁぁ……」」


そのため息は、皇宮の庭園に静かに溶けていった。こうして今日もまた。働きたくない二人は、働かないために働く道を歩み始める。それが、後に帝国中を巻き込む『国家改革』の始まりになることを、この時の二人はまだ知らなかった。



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