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微笑む皇女と嘘つき公爵子息の働かないための国家改革  作者: 伊丹 宝


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完璧な微笑みを浮かべる皇女は、今日も働きたくない


大陸の中央に栄える大国、アストレイア帝国。


豊かな穀倉地帯と広大な森林、世界有数の魔導技術、そして千年以上続く皇統を誇るこの国には、一人の皇女がいた。


第一皇女、エルシア・ヴァルネリア・アストレイア。


彼女は人々から『白百合の皇女』と呼ばれている。雪よりも白い長髪は陽光を受けて銀糸のように輝き、紫水晶を思わせる双眸は見る者を魅了する。すらりと伸びた背筋に、無駄のない優雅な所作。誰に対しても分け隔てなく向けられる穏やかな微笑みは、幼子を安心させ、老いた者を励まし、気難しい貴族ですら思わず姿勢を正してしまうほどだった。知性、品格、慈愛。皇族に求められる全てを備えた理想の姫君。それが、世間の知るエルシアだった。


「皇女殿下、おはようございます!」


皇宮の庭園を歩けば、近衛騎士たちが一斉に敬礼するエルシアは柔らかな笑みを浮かべ、軽く頷いた。


「おはようございます。今日も帝国の平和を守ってくださり、ありがとうございます」

「はっ!」


騎士たちは感激したように胸を張る。


「なんとお優しい…」

「今日もお美しい……」

「まさに次代の女帝!」


そんな囁きが背後から聞こえてくる。エルシアは歩みを止めることなく、心の中で静かに呟いた。


(……眠い)


昨夜は外交文書を読まされ、ようやく眠れたのは深夜だった。


(あと三時間…いいえ、五時間は寝たいわ)


表情は微笑んだまま。しかし心の中では、盛大にため息をついていた。


(朝から笑顔って疲れるのよね。誰が決めたのかしら“皇族は朝から爽やかであるべし”なんて。決めた人、毎日実践してみなさいよ)


「殿下」


後ろから落ち着いた声がかかる。振り返ると、一人の老婦人が静かに頭を下げていた。エルシア付き筆頭メイド、マルティナ・オルフェリア。五十年以上皇宮に仕え、皇帝カシウスからも絶大な信頼を寄せられる名メイドである。


「おはようございます、マルティナ」

「本日も良い朝でございます」

「……そう思える人が羨ましいわ」


ぽつり、と漏れた本音。周囲に誰もいないことを確認すると、エルシアは肩から力を抜いた。


「眠いわ、マルティナ」

「存じております」

「帰りたいわ、マルティナ」

「まだ一日が始まったばかりでございます」

「始まったから帰りたいのよ」


マルティナは慣れたように微笑んだ。


「本日のご予定を確認いたします」

「聞きたくありません」

「確認でございます」

「聞いた瞬間、現実になるもの」

「現実から目を背けましても予定は減りません」


エルシアは空を見上げた。


「今日は雨にならないかしら」

「快晴でございます」

「体調を崩さないかしら…軽く咳してみようかしら」

「昨日、医師が『殿下は驚くほど健康です』と申しておりました」

「……敵しかいない」

「皆様、殿下がお元気で安心しているのでございます」


唯一、このやり取りをしても驚かない人物。それがマルティナだった。世間はエルシアを完璧な皇女と称える。しかし彼女は知っている。この皇女は怠け者なのではない。ただ、人一倍『無駄』が嫌いなのだ。必要なことは誰よりも完璧にこなす。だが、必要でないことには指一本動かしたくない。それがエルシアという少女だった。


「まずは孤児院への慰問、その後は貴族との謁見、昼食会、午後は騎士団視察、夕刻より外交資料の確認でございます」

「……今日は帰ってもいい?」

「最後まで終われば、帰っても問題ないかと」

「つまり帰れないのね」


そう言いながらも、エルシアは再び”第一皇女”の仮面をかぶる。孤児院では子どもたち一人ひとりに目を合わせ、膝を折って話を聞き、優しく頭を撫でる。


「勉強は楽しいですか?」

「はい!」

「たくさん遊んで、たくさん学んで、たくさん遊んで、元気に過ごしてくださいね」

「皇女さま、また来てね!」

「もちろんです」


子どもたちが歓声を上げる。付き添いの修道女は感極まり、涙を浮かべていた。


「なんと慈愛に満ちたお方でしょう……」


その頃、当の本人はー…。


(かわいい……でも眠い……。子どもたち、かわいい……寝たい……)


感情が半々だった。午後の貴族との面会でも、鋭い質問を投げかけられれば即座に答え、曖昧な政策案には的確な指摘を入れる。


「殿下のお考えは実に見事です。」

「勉強になります。」


そんな賞賛を受けても、エルシアは穏やかに微笑むだけ。


(褒められると仕事が増えるのよね……。お願いだから普通だと思って……)


夕方になり、ようやく部屋へ戻れると思った、その時だった。一人の近衛騎士が膝をつく。


「第一皇女殿下」

「何かありましたか」

「皇帝陛下がお呼びです」


その一言で、エルシアの笑顔が一瞬だけ固まった。


(……来た)


嫌な予感というものは、どうしてこうもよく当たるのだろう。






皇帝執務室。重厚な扉の向こうでは、現皇帝カシウス・ヴァルネリア・アストレイアが書類に目を通していた。威厳に満ちた壮年の皇帝は、娘を見ると穏やかに笑う。


「来たか、エルシア」

「お呼びと伺いました、お父様」

「仕事中だ」

「……失礼いたしました、陛下」

「ははは、冗談だ。そう畏まらなくてもよい」


カシウスは書類を机に置く。


「実は、お前に頼みたいことがある」


その瞬間、エルシアの胸中に警鐘が鳴った。


(相談したい、頼みたい、任せたい。この3つの言葉に、ろくな思い出がない)


それでも表情一つ変えず、優雅に微笑む。


「内容をお聞かせください」

「隣国ラウゼン王国との交易問題だ」


その言葉を聞いた瞬間。エルシアは心の中だけで、静かに天を仰いだ。


(……聞かなければよかった)


だが、皇帝の次の一言は、彼女の予想をさらに上回るものだった。


「この件、お前に任せたい」


―…こうして、第一皇女エルシアの「できれば働きたくない一日」は、まだ終わるどころか、ようやく始まろうとしていた。







グランセル公爵家。帝国建国の時代より皇家を支え続ける名門中の名門であり、その名は幼い子どもですら知っている。そして、その公爵家には「帝都で最も優雅な青年」と称される人物がいた。


レオンハルト・ヴェルディオ・グランセル。


公爵家の次男。柔らかな金髪に、澄み渡る蒼い瞳。誰に対しても分け隔てなく接し、穏やかな笑みを絶やさない姿から、「春風の貴公子」とまで呼ばれている。


「レオンハルト様、おはようございます」

「おはようございます。今日も良い一日になりますように」


廊下ですれ違った侍女へ自然に微笑みかける。その笑顔だけで、侍女は頬を赤く染めた。


「なんて素敵なお方…」

「殿方ならレオンハルト様のようでなくては」

「皇女殿下と並ぶと、まるで一枚の絵画よね」


そんな囁きを背に受けながらも、レオンハルトの笑顔は一分の隙も崩れない。―…もっとも、心の中では。


(……朝から元気だな、みんな。その元気、半分くらい分けてほしい。僕は部屋で本でも読んでいたいんだけど)


心の中では、見事なまでにやる気がなかった。笑顔は処世術だ。波風を立てないための仮面。本音を隠しておけば、余計な面倒事は減る。幼い頃にそう学んできた。……はずだった。


「レオンハルト様」


近衛騎士が一礼する。


「皇帝陛下よりお呼びでございます。第一皇女殿下もお待ちです」


レオンハルトは笑顔のまま固まった。


(嫌な予感しかしない)


 ◇


皇帝執務室。エルシアは優雅に椅子へ腰掛け、レオンハルトを迎えた。


「お久しぶりです、レオンハルト様」

「ご機嫌麗しゅうございます、皇女殿下」


完璧な礼。完璧な笑顔。皇帝も側近たちも満足そうに頷く。


「やはり、この二人は実に絵になる」

「帝国の未来は安泰ですな。」


そんな声が聞こえる。エルシアもレオンハルトも、微笑みを崩さない。ただし、内心だけは別だった。


(助けて)

(帰りたい)


ほぼ同時に思っていた。カシウス皇帝は二人へ書類を差し出す。


「交易問題について、お前たちの意見を聞きたい」

「承知いたしました」


二人は揃って頭を下げた。


「別室を使って、お前たちの意見をまとめるといい」


その一言に救われる思いだった。





応接室。扉が閉まる。足音が遠ざかる。完全に二人きりになった、その瞬間。


「レオン」

「エル」


二人とも同時に深いため息をついた。


「疲れたわ」

「疲れた」


見事に声まで揃う。エルシアは机へ突っ伏した。


「もう帰りたい」

「まだ始まって十分も経ってないよ」

「十分も働いたもの」

「十分しか働いてないよ」


レオンハルトも椅子へ腰を下ろし、笑顔を消した。これが本来の彼だった。


「それで?」

「助けて」

「予想どおりだった」

「交易問題なんですって」

「知ってる」

「任されたの」

「ご愁傷様」

「他人事ね」

「他人事じゃない気がしてるけど、他人事にしたい」


エルシアはじっと幼馴染を見つめた。


「手伝って」

「嫌」

「即答だなんて、ひどいわ」

「嫌なものは嫌」

「昔はもう少し優しかったわ」

「昔は君も、もう少し遠慮があった」

「気のせいよ」

「いや、本当に」


二人は顔を見合わせる。そして同時に笑った。幼い頃から変わらない空気だった。皇女と公爵家次男。本来なら礼儀を崩すことなど許されない関係。しかし二人だけは違う。まだ七歳だった頃。初めて顔を合わせた茶会で、二人は完璧な子どもを演じていた。


『お会いできて光栄です』

『こちらこそ』


そう微笑み合った直後。庭園で偶然二人きりになり、エルシアが誰にも聞こえないと思って呟いた。


「疲れた……」


すると背後から。


「僕も」


その一言で、お互いが仮面を被っていることを知った。それ以来、唯一、本音を隠さない相手になったのだ。


「さてー…」


レオンハルトは書類を手に取る。


「面倒だけど終わらせよう」

「やっとやる気になったの?」

「長引く方がもっと面倒だから」

「その考え方、好きよ」


二人は向かい合って資料を読み始めた。部屋は静かになる。紙をめくる音だけが響く。十分ほど経った頃。エルシアが口を開いた。


「変ね」

「君も気付いた?」

「ええ」


レオンハルトは別の資料を取り出す。


「輸入量は減っていない」

「輸送路も正常」

「港も問題なし」

「でも利益だけ落ちている」


二人は同時に一枚の書類を指差した。


「ここ」

「ここだね」


価格表だった。特定の商会だけが、不自然な利益を上げている。


「独占してるわ」

「価格操作もね」


答えは簡単だった。一部の有力商人が裏で結託し、交易価格を意図的に吊り上げている。その結果、周囲の商人が利益を失い、交易全体が停滞していたのだ。レオンハルトは肩を竦める。


「思ったより単純だった」

「だから陛下は私たちを呼んだのね」

「いやー…」


レオンハルトは苦笑する。


「君を呼んだんだよ」

「……そうだった。忘れたいから、忘れていたわ」

「僕は巻き添え」

「ごめんなさい」

「その謝罪に反省が感じられない」

「だって、あなたなら手伝ってくれるもの」

「その信頼、重いなあ」


そう言いながらも、レオンハルトは新しい紙を引き寄せ、解決策を書き始めていた。結局、断りきれない。それもまた、幼い頃から変わらないことだった。





「失礼いたします」


皇帝執務室の扉が静かに開かれる。第一皇女エルシアと、グランセル公爵家次男レオンハルトは揃って一礼した。執務机の向こうでは、皇帝カシウスが静かに二人を見つめている。


「もう結論は出たか」

「はい、陛下」


エルシアは一歩前へ出る。隣ではレオンハルトがいつもの柔らかな笑みを浮かべたまま控えていた。


「交易量そのものには問題はございません。港湾機能も輸送路も正常です」


エルシアは落ち着いた声で続ける。


「停滞の原因は、一部有力商会による価格操作でございます」


側近たちがざわめいた。


「価格操作……」

「やはり商会か」


エルシアは資料を机へ広げる。


「こちらをご覧ください。同時期にもかかわらず、利益率に大きな偏りがあります。複数の商会が結託し、市場価格を意図的に引き上げています。その結果、中小商会が取引から排除され、交易全体が停滞しておりました。」


レオンハルトが自然に補足する。


「独占状態を解消し、監査官を派遣すれば市場は正常化するかと」


説明は数分で終わった。部屋は静まり返る。やがてカシウスはゆっくり頷いた。


「見事だ」


その一言で空気が変わった。


「短時間でここまで見抜くとは…」

「さすが第一皇女殿下」

「グランセル卿も実に優秀ですな」


側近たちが次々と感嘆の声を漏らす。エルシアは微笑みを崩さない。しかし心の中ではー…。


(違うわ!半分以上はレオンが見つけたのよ)


隣を見る。レオンハルトも笑顔のまま。


(説明したのは君だからね)


そんな顔をしていた。





翌日、皇帝の命により監査官が各商会へ派遣された。調査は驚くほど早く進み、価格操作の証拠が次々と見つかる。違法な契約は破棄され、新たな取引制度が整えられた。数週間後、帝都の市場は活気を取り戻す。


「魚が安くなった!」

「布も仕入れやすいぞ!」

「商売が戻ってきた!」


商人たちは笑顔を浮かべ、街には久しぶりの賑わいが戻った。



その頃、皇宮では別の意味で賑わっていた。


「お聞きになりましたか?」

「第一皇女殿下が交易問題を解決されたそうです!」

「さすが『白百合の皇女』!」

「陛下も大変お喜びだとか」


噂はあっという間に帝都中へ広がる。新聞には大きく見出しが踊った。


ー『第一皇女、卓越した慧眼で交易危機を救う』ー

ー『未来の女帝、早くも歴史的功績』ー


もちろん、その記事を読んだ本人はー…。


「……」


エルシアは新聞を閉じた。


「マルティナ」

「はい」

「私、何かしたかしら」


老メイドは紅茶を注ぎながら答える。


「ご説明はなさいました」

「説明しただけよ?」

「それも才能でございます」

「そんな才能いらないわ」

「皆様は殿下を信頼しておりますから」

「その信頼、重たいのよ……」


マルティナは小さく笑う。


「ですが、今回はレオンハルト様もご活躍でした」

「ええ」

「公爵家では『皇女殿下を支える天才』と評判になっております」

「……本人が聞いたら倒れるわね」





一方その頃、グランセル公爵邸。


「レオンハルト」


父である公爵が満足そうに息子を見る。


「皇女殿下をよく支えた」

「ありがとうございます」

「これからも殿下の右腕として励みなさい」

「……善処いたします」


部屋を出た瞬間。


「はぁ……」


深いため息が漏れた。廊下の先では老執事オズワルドが待っている。


「お疲れ様でございます」

「疲れたよ」

「新聞もご覧になりました」

「見た」

「帝都中がレオンハルト様を称賛しております」

「何もしてないのに」

「ご活躍なさいました」

「資料を読んだだけだよ」

「それも才能でございます」

「マルティナさんも同じことを言いそうだよね」


オズワルドは静かに微笑んだ。


「長年仕えておりますと、似てくるものです」





その夜、皇宮の庭園。夜風が花々を揺らし、月明かりが白い石畳を照らしていた。人目を避けるように歩く二つの影。エルシアとレオンハルトだった。二人きりになると、揃って大きく息を吐く。


「疲れたわ」

「疲れた」


また同時だった。エルシアは噴水の縁へ腰掛ける。


「新聞、見た?」

「見た」

「私、英雄らしいわ」

「僕も天才らしい」

「私たち、何かした?」


レオンハルトは夜空を見上げる。


「したことになっているね」


しばらく沈黙が流れる。虫の音だけが響く庭園。エルシアはぽつりと呟いた。


「……嫌な予感がするわ」

「僕も同じだ」


その瞬間だった。近衛騎士が庭園へ駆け込んでくる。


「皇女殿下! レオンハルト様!」


二人は同時に嫌そうな顔をしたが、すぐに完璧な笑顔へ戻す。


「どうしました?」

「陛下がお呼びです!」


エルシアとレオンハルトは顔を見合わせる。


(ほら来たわ)

(絶対に仕事だ)


二人の予感は、今回も外れなかった。皇帝カシウスは満面の笑みで二人を迎えた。


「よく来た。実はな、交易問題の手腕を見て確信した。これから帝国全体の改革について、お前たち二人に協力してもらいたい」


部屋が静まり返る。当の本人たちも、完全に固まっていた。


(増えたわ)

(仕事が増えた)


こうして帝国史に名を刻むことになる二人の改革は、本人たちの願いとは正反対の理由で幕を開ける。


それはー…『できるだけ働かずに生きるため』の国家改革だった。




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