第98話 君となら、少しずつ
よし、私も横になろう。
そう思って、慧翔くんの隣に寝転んだ。ただ距離を空けるのではなく、そのまま頭を彼の胸元に預ける。すると、すぐに彼の体がわずかに強張ったのが分かった。
「どうしたの、慧翔くん? なんでそんなに緊張してるの?」
そう尋ねても、彼はなかなか私と目を合わせようとしなかった。さっきまでよりも、その反応がはっきりと分かる。
「ほら、慧翔くん。せっかく映画を観てるんだから、そんなに緊張してる場合じゃないよ」
「緊張してるわけじゃない。ただ……君が急にこんなふうに横になるのが、ちょっと新鮮で……」
「ふふ、そんなに気にしなくてもいいのに」
私は大したことではないと思いながら、猫のように彼の胸元へ寄り添った。さすがに本物の猫みたいに喉をゴロゴロ鳴らすことはできないけれど、こうしていると妙に落ち着く。
「ねえ、今日の映画ってどんな話なの?」
「映画? ああ。ゾンビの蔓延した世界で、生き残ろうとする二人の学生の話だ。まだどうなるかは分からない。実際、始まったばかりだからな」
「へえ……面白そう。きっといい映画なんだろうね」
ゾンビ映画を一緒に観るのは、これで二回目だった。
前回よりもずっと落ち着いているし、隣には慧翔くんがいる。
だからなのか、不思議なくらい安心して画面を見ることができた。
主人公たちと、その仲間たちが必死になって生き残ろうとする姿を、私たちはしばらく黙って見つめていた。
最初はまだ大勢いた仲間たちも、物語が進むにつれて少しずつ減っていく。
一人、また一人と仲間がいなくなるたびに、残された二人の表情から余裕が消えていった。
逃げ場も、頼れる人も、時間さえも少なくなっていく。
そして、ついには二人だけになった。
他のみんなは、二人を先へ進ませるために、自分たちの命を犠牲にした。
その結果、最後に残ったのは彼らだけだった。
画面の中に重苦しい空気が流れる。
二人とも緊張しているのが、こちらにまで伝わってくるようだった。
それでも、もう後戻りできないことを分かっている。
これが最後のチャンスかもしれない。
そんな覚悟を決めたように、少女がゆっくりと彼のほうへ歩み寄っていく。
そして、ほんの少しだけ震える声で、ついに口を開いた。
「ユキさん……私、あなたのことが好きです。ずっと前から」
ついに、主人公が告白した。
その瞬間、胸の奥が妙にざわついた。
……そういえば。
もしかすると、私も慧翔くんから先に告白してもらったほうがよかったのかもしれない。
もし、あの時そうだったら……。
私たちは、今とは違う関係になっていたのだろうか。
そんなことを考えていると、隣から慧翔くんの声が聞こえた。
「真希、気に入ったみたいだな……」
けれど、彼が最後まで言い終わるより先に、画面の中の二人は互いの気持ちを確かめるように、激しくキスを交わし始めた。
「……っ」
一気に顔が熱くなる。
さっきまで普通に映画を観ていたはずなのに、突然こんな場面になるなんて聞いていない。
頬がどんどん熱くなっていくのを感じて、私は真っ赤になりながら慌てて画面から視線を逸らした。
もう見られない。
というより……今は、見たくない。
心臓まで妙に速くなっている気がして、私は誤魔化すように小さく息を吐いた。
それでも耳に入ってくる映画の音が気になって、さらに恥ずかしくなる。
「……もう、なんでこんなタイミングで……」
小さく呟きながら、私は隣にいる慧翔くんの顔も見られないまま、しばらく俯いていた。
慧翔くんと私は、まだそんなに急いで先へ進む必要はない。付き合い始めたばかりなんだから、これからだって時間はたくさんある。
でも、あの二人は……。
まだ告白したばかりだというのに、慧翔くんと私がこれまでにしてきたことよりも、ずっと大胆なことをしていた。
二人が嬉しそうにキスをしている姿を見ていると、以前感じたあの感覚を思い出してしまう。
一瞬だけ周りの世界が消えて、目の前にいる相手と自分だけが残ったように感じる、あの不思議な感覚。
今、もう一度あんな気持ちになれたらと思った。
でも、そのためには……まず、この映画が終わるのを待たなきゃいけない。
* * *
結局、映画はそのまま最後まで続き、思っていた以上に面白かった。
気づけばすっかり物語に引き込まれていて、画面から目を離すことすらできなかった。あまりにも集中していたせいで、まばたきをすることさえ忘れてしまいそうなくらいだった。
そして最後には、主人公たちは無事に生き残り、ついに飛行機で救助された。
分かりやすいハッピーエンドだった。
それを見届けて、ほっと息を吐いたところで、ふと一つのことを考えてしまった。
もし、こんなことが現実の世界で起きたら……。
私たちは、本当に生き残れるだろうか?
そんな考えが頭をよぎった。
でも、少なくとも今は、それを理由にして伝えたいことが一つある。
「もし、本当にそんなことが起きたら……その時は、ちゃんと伝えておきたいんだ」
私はそう言って、一度だけ小さく息を吸った。
「慧翔くん。私は、あなたのことが好きだよ。……すごく好き」
口にする前から、彼の顔をまともに見ることができなかった。
けれど、最初からそのつもりだった。
だから、今さら逃げるわけにはいかない。
彼の表情は見えない。
それでも、隣から伝わってくる空気が少しだけ変わったことで、慧翔くんも緊張しているのが分かった。
「俺も……真希のことが好きだよ。それに……一緒にいてくれて、ありがとう」
「どういう意味? 私にはよく分からないよ」
「君にお金ができた時、それでもここを離れなかったことだよ。だから……俺のそばにいてくれて、ありがとう」
「そうだったの?」
思わず首を傾げる。
「実は、そんなこと全然覚えてなかった。でも……慧翔くんと離れたくなかったのは確かだよ」
少しだけ間を置いてから、私は続けた。
「これからも、いろいろあるかもしれない。でも、無理に答えを急がずに、その時が来るのを待ちたいと思ってる」
彼は以前から、私がどういう事情を抱えているのかを知ったうえで、それでも私のそばにいることを選んでくれた。
だからこそ、彼の隣にいると安心できる。
今はただ、そのことに感謝していた。
ただ……このままだと、彼のそばにいることが当たり前になりすぎてしまいそうな気もする。
それくらい、彼と一緒にいる時間が心地よかった。
だから、こんなにも思いやりのある彼に、ほんの小さなご褒美をあげたかった。
でも、その前に……。
私は自分のスマホの電源を切った。
そして、彼が気づかないうちに、慧翔くんのスマホも通知が鳴らないように設定しておいた。
これで、今は誰にも邪魔されない。
私は小さく息を吐いてから、ずっと聞いてみたかった質問を口にした。
「ねえ。もし私がここを離れるって言ったら、慧翔くんはどうしてた?」
一度言葉を止める。
「私をそのまま行かせてくれた? それとも……説得しようとしてくれた?」
それが、私にとって一番聞きたかったことだった。
今度は逃げずに、彼の目をまっすぐ見つめる。
慧翔くんは少しだけ考えるように視線を落とし、それから静かに答えた。
「俺は……たぶん、説得するためにできることは全部やったと思う。少なくとも、できる限りのことはしてみる。でも、それでも君が決めたことなら……最後には、その決断を尊重したと思う」
その答えを聞いた瞬間、胸の奥がじんわりと温かくなった。
やっぱり……この人には、それだけの価値がある。
私は少しだけ彼との距離を縮めた。
「正直に話してくれてありがとう。……そういうところが、私は好きだよ」
そう伝えてから、短く気持ちを伝えるように触れ、すぐに離れた。
それ以上のことをする準備は、まだできていない。
不思議な感じだった。
少し恥ずかしいのに、嫌ではない。
胸の奥には、どこか温かなものが残っている。
こういう時間にも、私は少しずつ慣れてきているのかもしれない。
「次は、もう少し先に進めるかもしれない……。それとも、このままかもしれない」
私は少し照れながら、彼に笑いかけた。
「どっちになるかは分からないけど……分かってくれてありがとう、慧翔くん」
慧翔くんは穏やかに微笑むと、私をそっと抱きしめた。
突然だったから、私は思わず驚いて目を見開いた。
けれど、その驚きはすぐに小さな安心へと変わっていった。
どうやら慧翔くんも、こういう距離感に少しずつ慣れてきているらしい。
「ありがとう、真希」
その一言を聞いて、私は小さく笑った。
……うん。
今は、これで十分だった。
* * *




