第97話 今夜はちょっとだけ大胆に
結局、真昼ちゃんとの電話は終わった。慧翔くんはさっきからずっと俺をからかっていたせいか、すっかり満足したようで、今はスマホを手に取って画面に集中している。もう一度からかわれる前に、小説の第一話と第二話を公開してしまう必要があった。
もちろん、そんなに時間はかからないはずだ。これをやって、あれを確認して……。
「よし、第一話の公開完了。これで一つ目は終わり」
そう言ったのに、慧翔くんは顔すら上げなかった。スマホに集中しすぎて、周りのことが目に入らなくなっているらしい。
……これは、さっきの仕返しをする絶好のチャンスかもしれない。
今回は、もう少しだけ大胆にしてみよう。
私は静かにソファの後ろへ回り込み、驚かせるように声をかけた。
「慧翔くん」
「ん?」
振り返った彼の表情を見て、私は思わず笑いそうになった。
「これがお返しだよ。さっき私をからかったんだからね」
そう言うと、慧翔くんは一瞬だけ驚いたように目を見開いた。
その反応が面白くて、私は小さく笑った。
「そんなに驚かなくてもいいでしょ」
「いや……急だったからな」
彼はそう言いながら、少し困ったような顔をしている。
こんなふうに彼をからかうのは初めてだったから、私自身もどこまでやればいいのか分からなかった。やりすぎていないだろうかと少し不安になりながらも、彼の反応を見ていると、胸の奥にあった緊張が少しずつ解けていった。
「……でも、これでお互い様だからね」
そう言ってから、私は彼がさっきから何をそんなに真剣に見ているのか気になった。
肩越しに画面をのぞき込む。
すると、そこに表示されていたものを見て、私は思わず固まった。
結婚式のウェディングスーツ。
……ウェディングスーツ?
一瞬、何を見ているのか理解できなかった。
私たちはまだ付き合い始めたばかりだ。
そんな先のことなんて、まだ考えられるわけがない。
そう思った瞬間、急に恥ずかしくなって視線を逸らした。
「……バカ。そんなの、まだ早すぎるよ。だって、まだ父さんを説得できてないんだから」
できるだけ平静を装って言ったつもりだったけれど、自分でも分かるくらい声が小さくなってしまった。
ゆっくりと彼から離れる。
結局、さっきまで仕返しをしていたはずなのに、最後に恥ずかしい思いをしたのは私のほうだった。
頬に熱が集まっていくのを感じて、私は誤魔化すように別の話題を出した。
「ねえ、映画を観よう。今回はホラーじゃないやつで」
「うーん? いいけど、前と同じにするなら……」
「前と同じ?」
そう聞き返したところで、慧翔くんも何かを思い出したようだった。
ああ、どうやら分かったみたいだ。
「今は付き合ってるんだから、前より少しくらい距離が近くなってもいいんじゃない?」
もちろん、変な意味で言ったわけじゃない。
ただ、前回より少しだけ楽しく過ごしてみたかっただけだ。
前は映画を観ながら少し話したり、近くで過ごしたりしているうちに時間が経って、結局そのまま眠ってしまった。
でも今回は、まだ眠くなるような時間でもない。
だから、今度はもう少しだけ一緒にいる時間を楽しめる気がした。
……うまくできるといいな。
そう考えると、少しだけ緊張してしまう。
私は小さく息を吐いて気持ちを落ち着かせると、夜はまだ少し冷えることを思い出した。
「シーツ、持ってくるね」
そう言って、温かく過ごせるようにシーツと枕を取りに行った。
その間に、慧翔くんはテレビのチャンネルを探しながら、観る映画を選び始めていた。
「真希? どんな映画が観たい?」
どうやら、今度は私が選べるらしい。
それなら……。
このチャンスを逃すわけにはいかない。
「うーん……恋愛ものとホラーがいいな。前みたいに」
「そうか~。じゃあ、ホラーにしよう」
シーツと枕を抱えて戻ると、私はすでに今夜どうするかを決めていた。
「慧翔くん、キャッチ」
そう言って枕を投げると、予想通り彼は難なく受け止めた。
「捕まえたけど……もう一つあるんじゃないか?」
「うん。まだあるよ」
私は彼のところまで歩いていき、ソファを指差した。
「そこに置いておいて。すぐに持っていくから」
「そこに置いておいて。すぐに戻るから」
慧翔くんは少し戸惑ったような顔をしていたけれど、それ以上は何も聞かなかった。私はそのまま自分の部屋へ戻った。
……髪を結んだほうがいいかもしれない。
確か、慧翔くんは私が髪を後ろで結んでいる姿が好きだと言っていた。今まで何度かしかそうしたことはなかったけれど、今ならきっと喜んでくれるはずだ。
そう思いながら、引き出しからヘアゴムを取り出し、髪を後ろでまとめる。結び終わったところで、念のため鏡の前に立って自分の姿を確認した。
「あ……」
そこで、ようやく気づいた。
今すぐ何とかしないと。
一日中、まったく気づかなかった。
目の下に、うっすらと隈ができている。
これはさすがに隠しておいたほうがいい。
確か、この辺りにまだ化粧品が残っていたはずだ。
最近はほとんど使っていなかった。慧翔くんは、私が化粧をしているよりも、そのままのほうが好きだと言ってくれていたからだ。口紅だって、何もつけていないほうがいいと言っていた。
そんなふうに私を見てくれることが嬉しくて、彼のことをますます好きになってしまう。
……でも、今はそんなことを考えている場合じゃない。
戻る前に、これだけは隠しておかないと。
私は急いで化粧品を取り出し、目の下にほんの少しだけ塗った。厚くなりすぎないように気をつけながら、指先で丁寧になじませていく。
鏡を見て、何度も角度を変えて確認する。
これなら大丈夫。
……たぶん。
気づかれませんように。
昨夜は真昼ちゃんと遅くまで話していたとはいえ、これだけ寝たのにまだ隈が残っているなんて……。
少し不思議だった。
けれど、今はそんなことを考えている暇はない。
私は小さく息を吐いて気持ちを落ち着かせると、急いでリビングへ戻った。
部屋の照明を消すと、テレビの画面だけが暗い室内を照らした。
青白い光が慧翔くんの横顔を照らしている。
彼はすっかり映画に夢中になっていた。
……絶好のチャンスだ。
私は足音を立てないようにゆっくりと後ろから近づいた。そして、突然両手で彼の目を覆った。
「誰だか分かる? ……ダーリン」
自分で言っておきながら、恥ずかしさで胸が少しだけ高鳴った。
やっぱり、これはちょっと大胆すぎたかもしれない。
でも、たまにはこういうことをしてみてもいいだろう。
慧翔くんが私のこういう姿をどう思うのか、確かめてみたかった。それに、ほんの少しだけ彼をからかってみたかった。
……いや。
もしかすると、本当に少しやりすぎたかもしれない。
しばらくすると、彼の顔が少しずつ赤くなっていくのが分かった。
そして、振り返った瞬間の反応は、私が想像していた以上だった。
完全に戸惑っている。
頬は恥ずかしそうに赤く染まり、何を言えばいいのか分からないといった様子で、私のことを見つめていた。
その視線を受けているうちに、私まで恥ずかしくなってしまう。
「どう? 似合ってる? 気に入った?」
私は少し照れながら、その場でくるりと一回だけ回ってみせた。
けれど、慧翔くんはまだ呆然としていた。
その反応を見ていると、だんだん不安になってくる。
……もしかして、本当に変だった?
何か言いたそうにしているのに、なかなか言葉が出てこない。
「……気に入らなかった?」
恐る恐る尋ねると、ようやく慧翔くんが我に返った。
「違う、そうじゃない!」
慌てたように両手を振る。
「ただ……その、すごく似合ってて……綺麗だと思ったから……」
「……そ、そう?」
今度は私のほうが何も言えなくなった。
二人とも恥ずかしそうに視線を逸らす。
静かな部屋の中に、映画の音だけが流れていた。
それでも、少なくとも私がやりたかったことは成功した。
慧翔くんが喜んでくれた。
それだけで十分だった。
胸の奥がじんわりと温かくなって、思わず頬が緩む。
……うまくいった。
「ありがとう、慧翔くん~♡」




