第96話 新しい名前、新しい物語
結局、俺たちは同じペンネームで一緒に作品を公開することになった。けれど、そう決まったからこそ、今のままでは変えておかなければならないことが一つあった。
今使っているペンネームは、真昼ちゃんが参加する前に決めたものだ。最初は私と慧翔くんの二人で始めたものだったから、今では三人で活動している以上、そろそろ新しい名前に変えたほうがいい。
たぶん、明日にでも三人で話し合えば決められるだろう。今はとりあえず、仮の名前として「K.M.M.」に変更しておくことにした。
(慧翔、真昼、真希)
今は三人だからこその、仮の名前。
まだ正式に決めたわけではないけれど、明日みんなで相談して、三人が納得できる名前を考えればいい。
「慧翔くん」
水を飲もうとキッチンへ向かっていた彼が、呼びかけに気づいて振り返った。
「どうした、真希? 何かあったのか?」
「えっと……名前を変えようと思ってるんだ。最初の小説を始めてから、新しいものに変えてなかったから」
「ペンネームのことか?」
「うん。ともかく……今のままじゃなくて、変えたほうがいいと思う。これからは三人でやっていくんだから、みんなが納得できる新しい名前を使うべきだと思う」
「それで、小説のほうはどうするんだ? 明日、公開するのか?」
予想していなかった質問だったけれど、そこについてはもう決めていた。
小説そのものはペンネームに依存するものではない。だから、名前を変えたところで大きな問題はないはずだ。
それでも、真昼ちゃんにもちゃんと相談してから決めたほうがいいだろう。
「真昼ちゃんに電話して、全部説明するよ。それでいい?」
「ああ。それがいいと思うよ、真希」
そう言って彼が微笑んだのを見て、胸の奥が少しだけ温かくなった。
どうやら、私が思い立ってすぐに決めたことも、彼にとっては悪いものではなかったらしい。
安心したように小さく息を吐き、私はすぐにスマートフォンを手に取った。
真昼ちゃんの名前を画面に表示させ、少しだけ迷ったあと、そのまま通話ボタンを押す。
呼び出し音が一度、二度と鳴る。
そして、すぐに彼女が電話に出た。
「もしもし、真希ちゃん。どうしたの?」
よかった。
いつもと変わらない、明るく自然な声だった。
その声を聞いただけで、知らないうちに力が入っていた肩から少しだけ力が抜けた。
これなら落ち着いて話せそうだ。
「真昼ちゃん、最初の二話を公開する前に、ちょっと聞いてほしいことがあるんだ」
「うん、いいよ。今、五話目のイラストを描いてるところなんだ」
「そうなんだ。じゃあ、ちょうどいいかも。実はね、ペンネームを変えようと思ってるんだ。少なくとも、今は一時的にね」
電話の向こうで、真昼ちゃんの手が止まったのがなんとなく想像できた。
「どんな名前を考えてるの?」
「えっと……『K.M.M.』っていうのはどうかな。つまり、私たち三人の名前のイニシャルだよ」
「おお……それ、偶然だね。もし私に聞いてくれてたら、たぶん同じ名前を考えてたと思うよ」
その答えは、私にとってこれ以上ないものだった。まさか真昼ちゃんまで同じことを考えていたなんて、それだけで胸の奥に残っていた不安がすっと消えていくのを感じた。
「じゃあ、その名前にする?」
電話の向こうで、真昼ちゃんが数秒ほど考え込む気配がした。まるで私の提案を頭の中でじっくり確かめているようだった。
「和泉くんは、その名前でいいって言ってるの?」
そういえば、慧翔くんにはまだちゃんと聞いていなかった。
本人に確認するべきだろう。きっと了承してくれるとは思うけれど、もし反対されたら……その時はどうしよう?
……いや、それは後で考えればいい。
たぶん、彼なら大丈夫だ。
「彼ならきっと了承してくれるよ。ね、慧翔くん?」
声をかけると、慧翔くんはようやくこちらに意識を向けた。
どうやら今まで、私たちが何について話しているのか、詳しくは分かっていなかったらしい。
それでも少しこちらへ近づいてくる。
「新しいペンネームのことか? 君たちが決めた名前でいいよ。俺のことは気にしなくていい」
「聞こえたでしょ、真昼ちゃん~。じゃあ、それが新しい名前ってことで決まりね」
私は少し嬉しくなりながら、電話を耳元から離した。
そして、慧翔くんにだけ聞こえるように、少し声を落として伝える。
「私のためにそう言ってくれたんでしょ。……ありがとう」
そう言うと、慧翔くんはまるで予想していなかった言葉を聞いたように、その場でぴたりと固まった。
頬が少し赤くなっている。
やっぱり、図星だったのだろう。
彼は照れたように小さくうなずくと、誤魔化すようにその場から立ち上がった。
そんな反応がおかしくて、私は思わず笑いそうになる。
けれど、その直後だった。
突然、後ろから気配を感じて、私は驚いて肩を揺らした。
慧翔くんだった。
どうやら、さっき私がからかったことへの仕返しらしい。
……本当に、もう。
正直に言えば、そんな彼の反応が嫌なわけではなかった。
いつも私ばかりが積極的になっているわけではない。
彼も彼なりに、この関係を大切に思ってくれている。
そう感じられるだけで、胸の奥が少しだけ温かくなった。
もちろん、恥ずかしくないわけではない。
むしろ、かなり恥ずかしい。
何しろ、真昼ちゃんはまだ電話の向こうにいるのだから。
「もう~。慧翔くん、そういうことしちゃダメだよ。真昼ちゃんが聞いてるんだから。……後でなら、その……続きはしてもいいけどね……」
自分でも何を言っているのか分からなくなり、顔が一気に熱くなった。
恥ずかしさをごまかすように視線を逸らしながら、できるだけ平静を装って言葉を続ける。
けれど、私の声が普段よりずっと小さく、柔らかくなってしまったことには、自分でも気づいていた。
その瞬間、慧翔くんが予想以上に驚いているのが分かった。
彼はしばらく固まったまま、信じられないものを見るような顔でこちらを見つめていた。
そして、何か言おうとして口を開きかけたものの、結局何も言えないまま、少し距離を取った。
彼の顔まで赤くなっている。
……ふふ。
その反応を見ると、さっきまでの恥ずかしさも少しだけ吹き飛んだ。
でも、ちょうどそんな瞬間に、電話の向こうの真昼ちゃんにも聞かれてしまったことに気づいた。
……やってしまった。
急に恥ずかしさがぶり返して、顔がさらに熱くなる。
私は誤魔化すように小さく咳払いをして、スマートフォンを握り直した。
けれど、心の中では別のことを考えていた。
よし……今夜は、さっきあんなに恥ずかしい思いをさせられた分、ちゃんと仕返ししてやろう。
覚悟しておいてね、慧翔くん。
今まで以上に恥ずかしい思いをさせてあげるんだから。
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