第95話 誰かのそばにいるということ
入学式の日が終わり、真希と俺は部屋へ戻った。
帰り道、朝に雨宮が言っていたことを彼女に話すと、予想していた通り、真希はとても嬉しそうにしていた。
あれほど率直な意見をもらえたことが、俺たちにとってどれほど大きな意味を持つのか、彼女自身もちゃんと理解しているのだろう。
そんな彼女の嬉しそうな顔を見ていると、俺まで自然と気分が軽くなり、その日の疲れさえ少し遠のいていくような気がした。
部屋に着くと、真希は夕飯の準備を始め、俺は雨宮が指摘してくれた誤字を一つずつ確認していった。
数そのものは決して多くなかったが、改めて見直してみると、どれも確かに直しておいたほうがいいものばかりだった。
画面を見つめながら文字を追っていると、朝から張り詰めていた気持ちも少しずつ落ち着いていく。
「慧翔くん、夕飯の後に少し話せる?」
突然だった。
けれど、妙なお願いだとは思わなかった。むしろ、その声の調子を聞いた瞬間、彼女が何について話したいのか、なんとなく察していた。
「もちろん。構わないよ。……むしろ、俺も真希に話したいことがあったんだ」
そう答えて顔を上げると、真希はほんの少しだけ目を伏せた。
その表情を見れば、彼女も俺が何を考えているのか、大体は分かっているのだろう。
たぶん、父親のことを話すつもりなのだ。
俺も、以前交わしたあの約束を、彼女にもう一度思い出してほしかった。
もちろん、まだ話す準備ができていないことを無理に聞き出すつもりはなかった。彼女が自分から話そうと思えるまで待つべきだとも思っていた。
それでも、自分の中に生まれた好奇心を、いつまでも無視し続けることはできなかった。
それに何より、真希が何かに苦しんでいるのに、何もしてやれないまま隣にいるというのは、どうにも気分のいいものではなかった。
だからこそ、俺は彼女のそばにいたかった。
夕飯は、もうすっかり慣れてしまった静かな時間の中で進んでいった。
気まずい沈黙ではない。
どちらかが一言話せば、もう一方が自然に言葉を返し、そのまま会話が続いていく。そんな、二人にとってはむしろ心地よい静けさだった。
それでも、今日は少しだけ違っていた。
真希も俺も、心のどこかで夕飯が終わるのを待っているような気がした。
そして、ついにその時が来た。
食器を片付け終えた真希は、いつもより明らかに落ち着かなかった。
何度か小さく息を吐き、膝の上で指を組んでは、またほどく。
決心したはずなのに、それを言葉にするための勇気を見つけるのに苦労しているようだった。
俺はそんな彼女を急かさず、しばらく黙って見つめていた。
やがて、そっと彼女の肩に手を置く。
触れた瞬間、真希の肩がわずかに震えた。
俺はそのまま彼女の目をまっすぐ見つめた。
「真希、俺を信じてくれ」
短い言葉だった。
それでも、その言葉に込められるだけの気持ちを、俺は全部込めた。
真希は一瞬だけ迷うように視線を揺らした。
唇をわずかに噛み、何かを堪えるように息を止める。
けれど、やがて小さく息を吐くと、ほんの少しだけ微笑んで、静かにうなずいた。
「……迷ってごめんね。もうそろそろ、あなたに大事なことを話す時が来たんだと思う。あなたには……知る権利があるから」
その言葉と同時に、彼女の表情が変わった。
さっきまでの柔らかな雰囲気が消え、その瞳の奥に、懐かしさと痛みが入り混じる。
まるで、できることなら二度と思い出したくなかった記憶を、無理に心の奥から引きずり出そうとしているかのようだった。
「真希……大丈夫だ。無理に急がなくていい。話したいところから、好きなように始めてくれ」
俺がそう言うと、真希は小さくうなずいた。
そして、胸の奥に溜め込んでいたものを吐き出すように、ゆっくりと深く息を吸い込んだ。
その呼吸はわずかに震えていた。
何度か息を整えようとして、それでも指先の震えまでは止められない。
それでも彼女は逃げなかった。
震える声を絞り出しながら、長い間誰にも話せなかった自分の過去を、少しずつ語り始めた。
◇◆◇◆◇
……………………………
………………………
…………………
私は……小さい頃から、父にとっては、いつも不十分な存在だった。
ううん……違う。
きっと、生まれた時からそうだった。
父は男の子を望んでいた。
なのに、生まれてきたのは私だった。
私がこの世に生まれたその日から、父は私に一瞬たりとも興味を向けようとはしなかった。
物心がついた頃には、もうそれが当たり前になっていた。
朝から夜まで、休む間もなく、何時間も勉強をさせられた。
勉強だけじゃない。
少しでも父の期待に届かなければ、また別のことを覚えさせられた。
どれだけ頑張っても、どれだけ努力しても、それで十分だと言われたことは一度もなかった。
それでも私は、必死になって父の期待に応えようとした。
褒めてもらえるかもしれない。
少しでも認めてもらえるかもしれない。
そんな淡い期待を抱いて、眠気で重くなった目をこすりながら、机に向かい続けた夜も何度もあった。
でも……結局、それで父が私を見てくれることはなかった。
今に至るまで、一度も。
まるで、本当に私を愛してくれた父親なんて最初から存在しなかったんじゃないか。
そう思ってしまうくらいだった。
……辛かった。
何度も眠れない夜を過ごした。
やっと良い点を取れたと思って、少しだけ期待して父の帰りを待っていたのに、父は何ヶ月も姿を見せなかったこともある。
最初は、何か理由があるんだと思っていた。
仕事が忙しいんだ。
きっと帰ってきたら、私のことを褒めてくれる。
そう思っていた。
でも、そんな期待をするたびに、胸の奥が冷たくなっていった。
時々、あんなに広い家の中に一人でいると、本当に自分だけが取り残されてしまったような気がした。
廊下を歩いても、部屋の中を見回しても、誰もいない。
静かすぎる家の中で、自分の足音だけがやけに大きく聞こえる。
そんな時は、胸の奥が締め付けられるように苦しくなって、何度も深呼吸をした。
それでも、孤独な気持ちは消えてくれなかった。
もし……私がお姉さんのように慕っている、あの人がいなかったら。
私は、どうなっていたのか分からない。
物心がついた頃から、彼女はずっと私のそばにいてくれた。
両親がいない時は、いつも一緒にいてくれた。
私が何も言わなくても、何かに怯えている時にはすぐに気づいてくれた。
何も話したくない時でさえ、無理に聞き出そうとはせず、ただ静かに隣にいてくれた。
だから私は、彼女のそばにいる時だけは、自分が一人じゃないと思えた。
あの人がいてくれたからこそ、私は何とかあの頃を乗り越えられたんだと思う。
父のせいで、私は男という存在そのものを憎まずに済んだ。それはきっと、彼女がずっと私のそばにいてくれたおかげだと言ってもいいだろう。
「彼女に会ったら、ちゃんとお礼を言わないとな」
あまりにも予想外の言葉だった。
胸の奥に重く沈んでいた憂鬱な気持ちが、一瞬でどこかへ吹き飛ばされる。思わず口元が緩み、私は小さく笑ってしまった。
「慧翔くん……バカ。そんなこと、今言う?」
呆れたようにそう言ったけれど、嫌な気持ちはしなかった。
むしろ、張り詰めていた胸の奥が少しだけ温かくなった。
慧翔くんは何か言いたそうに私の横からそっと抱き寄せてきた。強く抱きしめるわけでもなく、ただ私の肩に腕を回しただけだったけれど、それだけで十分だった。
言葉にしなくても、彼が何を伝えようとしているのか、なんとなく分かった。
「真希、俺はもう君のそばにいる。今は……君が全部話せる時が来るのを待つだけだ」
「……」
どうして、分かったんだろう……?
私は何も言っていない。
それなのに、まるで私の心の中を見透かしているみたいだった。
胸の奥がまた熱くなって、思わず視線を逸らす。恥ずかしさをごまかすように小さく息を吐いた。
……くそっ。
この人は、本当にずるい。
「……分かった。その時が来たら、ちゃんと話すよ」
少し間を置いてから、私は気持ちを切り替えるように息を吸った。
「今は……もう、物語を公開する時だと思わない?」
「え? ああ、いいと思うよ。坂本さんも、もうイラストを描き終えてるはずだ」
「うん。彼女はそういうのが得意だから、もう終わってると思う。送ってもらって、物語の内容に合わせて掲載しよう」
「うん。それがいいと思う」
そう話していると、まるでタイミングを見計らったかのように、真昼ちゃんからすぐにイラストが送られてきた。
画面に表示されたのは、森の中で花々に囲まれながら、こちらに向かって優しく微笑んでいるヒロインの姿だった。
柔らかな雰囲気の森と色とりどりの花、その中央で微笑む彼女。
私たちの物語を紹介するには、これ以上ないくらいぴったりの一枚だった。
「……すごい。やっぱり真昼ちゃん、上手だね」
「本当だな。これなら目を引くと思う」
しばらく二人で画面を眺めた後、私は早速、物語を公開するための準備を始めた。
あらすじを考えて、タイトルを付ける。
それから本文を確認し、必要な部分をコピーして貼り付ける。
やること自体は、それほど難しいものではなかった。
けれど、指先がキーボードの上を動くたびに、胸の奥では別の感情が膨らんでいった。
ついに、この時が来た。
ずっと頭の中で考え続けていた物語を、ようやく誰かに届けることができる。
それが嬉しいような、怖いような、不思議な感覚だった。
もし誰にも読まれなかったら。
もし、何の反応もなかったら。
そんな考えが頭をよぎるたびに、心臓が少しだけ強く脈打った。
それでも、私は手を止めなかった。
「慧翔くん、準備できたよ。あとは章をアップロードするだけ」
そう言うと、慧翔くんは静かにうなずいた。
けれど、アップロードを始める前に、私はどうしても一つだけ確認しておきたいことがあった。
「慧翔くん、今回は小説を宣伝する投稿はしないでほしい」
「どうして? それじゃあ、読者が集まらないんじゃないか?」
「うん。だからこそ、やってみたいの」
私は画面を見つめたまま、ゆっくりと言葉を続けた。
「この物語は、作者がすでに知られているから読まれるんじゃなくて、物語そのものの力で見つけてもらいたい」
それは、私が最初に経験したことを、慧翔くんにも見てもらいたかったからだ。
何も知られていない状態から作品を公開して、誰かに見つけてもらう。
その難しさを、彼にも実際に知ってほしかった。
小説を公開しただけで、自然に人が集まってくれるわけではない。
どれだけ一生懸命書いても、誰にも見つけてもらえなければ、その存在すら知られないまま終わってしまうことだってある。
もちろん、最初から大きく注目される例外だってある。
でも、それが本当に起こるのかどうかを確かめるためには、少なくとも二話くらいは公開してみないと分からない。
「……決めたよ。二話公開する。それで、しばらく様子を見ようと思う。どう思う、慧翔くん?」
返事を待つ間、無意識に指先を握りしめていた。
反対されたらどうしよう。
そう考えると、胸の奥が少しだけ締め付けられるようだった。
けれど同時に、心のどこかでは、彼ならきっと分かってくれるという確信もあった。
慧翔くんは少しだけ考えるように画面を見つめ、それからいつもの穏やかな表情でうなずいた。
「いいと思うよ。そうしよう」
「……慧翔くん」
張り詰めていたものが、一気にほどけていく。
思わず頬が緩み、胸の奥から温かいものが込み上げてきた。
「ありがとう。大好き」
そう言った瞬間、自分でも少し恥ずかしくなった。
けれど、慧翔くんが何か反応するより先に、私は逃げるようにパソコンへ向き直った。
「よし……やろう」
少し震える指で本文をコピーして、投稿画面へ貼り付ける。
タイトル、あらすじ、イラスト、そして本文。
一つずつ確認していく。
誤字はない。
画像も問題ない。
必要な設定も終わっている。
あとは、公開ボタンを押すだけだった。
マウスを握る手に、じんわりと汗が滲んだ。
ほんの少しだけ、指先が震える。
何度か深呼吸をしてから、私は意を決してボタンをクリックした。
――公開。
画面が切り替わる。
ついに、公開された。
ずっと待っていた瞬間だった。
胸の奥で、心臓が大きく跳ねる。
「……終わった」
思わず小さく呟いた。
これで、私たちの物語はもう私たちだけのものじゃない。
誰かの目に触れる可能性が生まれた。
誰かが読んで、何かを感じてくれるかもしれない。
あるいは……誰にも見つけてもらえないかもしれない。
期待と不安が入り混じり、胸の奥が落ち着かない。
それでも、今できることはもうない。
あとは、待つだけだ。
どうか、誰かが読んでくれますように。
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