第94話 一つの壁を越えて
「慧翔くん……さっきのこと、考えてるんでしょ?」
真希……
「どうしてわかったんだ?」
「おーい、二人とも! どうやらうまくいったみたいだな」
窓際から二番目の席に座っていた雨宮が、こちらを見ながら片手を上げ、俺たちの注意を引いた。
「あ、雨宮くん。どうやら今は慧翔くんと私だけみたいだね」
……この機会を利用したほうがいい。
俺は一度だけ真希の顔を見てから、雨宮に声をかけた。
「雨宮、ちょっと来てくれないか?」
「くくくく……どうやら俺の助けが必要みたいだな? まさか……『あれ』のことか?」
そう言うと、雨宮は周囲にいる生徒たちに聞かれないよう、十分な距離まで近づいてきた。
その顔には、まるですべてを知っているかのような意味深な笑みが浮かんでいる。
……相変わらず、こいつはこういう時だけ妙に鋭い。
雨宮の言う通りだった。
本当に、今はそれについて話す必要がある。
俺は周囲を一度見回し、誰にも聞かれていないことを確認してから、声を落として口を開いた。
真希は何も言わず、じっと俺の顔を見つめている。
その視線を受けながら、俺は小さくうなずいた。
やはり、話題はそれで間違いない。
「最初の一章だけで十分か? それとも、他にも必要か?」
「最低でも三章は必要だな。物語の基礎や流れを判断するなら、それくらいは読んでおきたい。でも、ここを出てから読むよ」
「わかった。後でLINEで送る」
雨宮は満足そうにうなずいた。
その直後、彼のすぐ後ろから坂本さんが姿を現した。
彼女はいつもの落ち着いた様子でこちらを見ていたが、その姿を確認した真希はすぐに立ち上がり、坂本さんのほうへ向かった。
「慧翔くん、ちょっと行ってくるね。真昼ちゃんと少し話してくるから」
「……ああ、わかった。楽しんでこい」
「うん」
真希は小さく笑ってから、坂本さんと並んで教室を出ていった。
二人の姿がドアの向こうへ消えるまで見送ると、教室には俺と雨宮だけが残された。
雨宮は二人が完全に見えなくなったことを確認すると、俺の机の前に置かれていた椅子を引いた。
そして、何の遠慮もなくそこへ腰を下ろし、こちらに向き直る。
「今のうちに小説を読んでおくよ。まあ……前より多少は進歩してるんだろうな?」
「そう言えるかもしれない。特に真希は、いつも一定のペースを保つように俺にプレッシャーをかけてくるからな。間違いなく厳しい奴だよ」
「くくくく……想像できるよ。まあ、結局それが君の付き合ってる相手なんだ。そういうところも含めて、好みの問題ってことだな」
その言葉には、妙に納得させられるものがあった。
ただ、雨宮は口元に笑みを浮かべながら言っているので、半分くらいは冗談なのだろう。
俺も特に気にすることなく、小さく笑った。
「ある意味、君のおかげで今こうして付き合えてる。まるで、これから起こることを全部予言していたみたいだ」
「そんな大げさなものじゃないよ。俺はただ……あまりにもわかりやすかったから、少し背中を押しただけだ。恋に落ちたのは、あくまで君たち自身だろ?」
「……まあ、それはそうだな」
確かに、その通りだった。
雨宮が何を言おうと、最後に決断したのは俺たち自身だ。
それでも、こいつがいなければ、俺は今でも自分の気持ちに気づかないままだったかもしれない。
だから、感謝している。
だが――今はそれよりも、本題に入るべきだった。
俺には、雨宮に小説を読んでもらう必要がある。
これから本格的に出版を考えるのであれば、遠慮なく厳しい意見を言ってくれる相手が必要だ。
そして、俺が知る限り、それができるのはこいつしかいない。
もちろん、褒めてもらえれば嬉しい。
でも、欲しいのはただの優しい感想じゃない。
何が足りないのか。
どこが弱いのか。
読者に伝わりにくい部分はどこなのか。
そういうところまで、容赦なく指摘してほしい。
だからこそ――
間違いなく、その日が今日だった。
時間を無駄にすることなく、俺はすぐに章のデータを送って読み始めた。
彼は急ぐ様子もなく、書かれている内容を一つ一つ確かめるように、ゆっくりと読み進めていった。俺が彼を知ってから、こんなにも真剣な表情を見たのは初めてだった。いつものような笑みも、何かを企んでいるような特別な表情もない。ただ画面に視線を固定し、文章の一行一行を追いながら、最後まで黙々と読み続けている。
その様子を見ているうちに、俺のほうが少しずつ緊張してきた。
何を考えているのか知りたい。でも、あまりにも真剣な顔をしているせいで、その表情からは何も読み取れない。無意識に息を止めていたことに気づき、俺は小さく息を吐いた。
やがて、最後の一行を読み終える。
彼はしばらく画面を見つめたまま動かなかった。
そして――
ようやく、その口元に小さな笑みが浮かんだ。
まるで、読んだ内容に十分満足したかのような表情だった。
「へえ……ちょっと驚いたよ。思っていたより、ずっと良かった。あとは細かいところを少し校正すれば、かなり良い作品になると思う」
初めてだった。
彼がこんなふうに、誰かの書いた物語を素直に褒めるのを聞いたのは。
もちろん、まだ修正すべき細かな部分は残っている。それでも、その言葉を聞いただけで、胸の奥に張りつめていたものが少しずつほどけていくのを感じた。
今は、それだけで十分だった。
けれど、それでも気になった。
どうして彼がそこまで高く評価してくれたのか、その理由を正確に知りたかった。
「どうして、そう思ったんだ?」
そう尋ねると、彼はまるでその質問が来ることを最初から予想していたかのように、わずかに口元を上げた。
そして、あまりにも当然のことを説明するような自然な口調で答えた。
「読んだんだろ? だったら、どうして良いと思ったのかくらい、自分でもわかるはずだ。文章の組み立ても悪くないし、書き方だってほとんど完成してる。よくやったよ」
「……そうか」
その一言を聞いて、俺は思わず肩の力を抜いた。
どうやら、真希は本当にやり遂げたらしい。
いや――ついに、ここまで来たんだ。
俺たちの前に立ちはだかっていた大きな障害の一つが、ようやく消えた。
ここまで来るために、真希は何度も文章を書き直し、悩みながらも少しずつ前へ進んできた。俺も何度か彼女の原稿を見てきたけれど、今日の反応を聞けば、その努力が無駄ではなかったことがはっきりとわかる。
あとは、この作品を読んでくれる人を増やすだけだ。
そう考えると、不安が完全になくなったわけではない。それでも、今までとは違う確かな手応えがあった。
今日、俺たちは間違いなく、この小説を公開し始める。
その瞬間が、すぐそこまで来ていた。
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