第92話 真希が会いたくない人
* * *
「おや、何も言わずに手を繋いだままじゃないか。で、もう付き合ってるのか?」
彼のしつこい問いかけに、俺がうなずこうとした、その瞬間だった。真希が一歩近づいてきて、突然、俺の頬に軽くキスをした。
「これで十分な証明になった?」
一瞬、周囲の空気が止まったように感じた。
二人は真希の大胆な行動に、完全に言葉を失っていた。今まで見てきた彼女とは、まるで別人のようだった。頬を赤くしながらも堂々としたその姿は、恋に落ちたことで、いつの間にか自分の立場をしっかり理解しているようにも見えた。
「おい……お前の彼女、結構独占欲が強いんじゃないか?」
「真希はいつもこういうわけじゃないけど、別に嫌じゃないよ。むしろ、そういうところも可愛いと思う」
「お、おいおい……」
自分で言っておきながら、少し恥ずかしくなって頬を掻いた。真希も聞こえていたのか、さっきまで強気だった表情が少しずつ崩れていき、耳まで赤くなっている。
これ以上ここにいたら、こっちまで気まずくなりそうだ。
俺は小さく息を吐いて、できるだけ自然に話題を変えることにした。
「そういえば、坂本さんがこの前、一緒に遊ぼうって言ってたみたいだけど……二人はどういう関係なんだ?」
「何もないよ。ただ暇だったから誘っただけだ」
「なるほど……」
てっきり、二人が付き合っているのかと思っていた。
そう考えていたことが少し恥ずかしくなり、俺は視線を逸らした。
「そうか。でも、結構仲が良さそうに見えるけどな」
「そうか? 俺にはそんなふうには見えないけどな。くくくく」
相変わらず、彼の返答はどこか掴みどころがない。それでも、余計なことを言わないところを見ると、どうやら本当に何もないらしい。
「……まあ、そういうことならいいか」
そう呟いたところで、ふと時間を確認する。
「あ、急がないと遅刻する!」
思わず声が大きくなり、俺は真希の手を握り直した。彼女の指が自然に俺の指へ絡み、二人で顔を見合わせる。
「行こう、真希」
「うん!」
その返事を聞いて、俺たちは少しだけ歩調を速めた。走るほどではないものの、遅刻しないように小走りで学校へ向かっていく。
* * *
結局、なんとか学校には着いた。
だけど――。
予想していた通り、校門をくぐった瞬間から、周囲の視線が一斉に俺たちへ集まってきた。
まるで誰かが合図を出したかのように、あちこちから視線が飛んでくる。聞こえてくる声も少しずつ増え、俺たちが歩くたびに、その場の空気が妙に重くなっていくのを感じた。
真希はそんな周囲の様子を気にすることなく、俺の隣を歩き続けている。
むしろ、さっきよりも俺との距離を縮めていた。
繋いだ手にも、少しだけ力が込められている。
緊張しているのは俺だけじゃない。
彼女もきっと、同じくらい緊張しているはずだ。
それでも真希は顔を上げ、前をまっすぐ見つめていた。
時々、周囲から小さな囁き声が聞こえてくる。
「……あれ、真希じゃない?」
「隣にいるのって……」
「まさか……彼氏?」
そんな声が耳に入るたび、胸の奥が妙に落ち着かなくなる。
俺は思わず息を呑み、握っている手に少し力を込めた。
それに気づいたのか、真希がこちらを見上げる。
「周りのことは気にしないで。私だけを見てて」
その言葉に、一瞬だけ胸が熱くなった。
こんなに周囲から見られているのに、真希は俺の手を離そうとしない。
むしろ、まるで俺がここにいることを誇らしく思っているようだった。
だったら――。
彼女がそこまで勇気を出してくれているのなら、どうして俺が逃げられるんだ?
そう思った瞬間、迷いが少しずつ消えていった。
「そうだな、真希。それに、いつかは知られることだし。君が一人だと思われたくないからな」
そう言って、俺も周囲を気にせず前を向いた。
すると、真希の表情が少しだけ柔らかくなった。
繋いだ手から伝わってくる温もりが、妙に心地よかった。
その一方で、周囲から向けられる視線はさらに強くなっていった。
真希の隠れたファンたちの間では、今にも不満が爆発しそうな空気が漂っている。
けれど、誰も俺たちに声をかけようとはしなかった。
俺たちの前に立ちはだかる者もいない。
ただ、遠くから驚いたようにこちらを見つめているだけだった。
今まで、そんな人たちが存在していることすら知らなかった。
真希に近づきたいと思っている人間は、思っていたよりずっと多かったのだ。
ただ、みんな同じだった。
彼女に話しかける勇気がなかった。
だから、誰にも知られないまま、遠くから彼女を見ていた。
そんな彼らにとって、今日の光景はあまりにも突然だったのだろう。
俺はそんな周囲の視線を感じながらも、真希の手を離さなかった。
そして真希もまた、俺の手を握ったまま、一歩ずつ学校の中へ進んでいった。
「おーい、待ってくれよ!」
後ろから雨宮の声が聞こえてきた。どうやらずっと追いかけてきたらしく、少し息を切らしている。肩を上下させながら、額にはうっすらと汗まで浮かんでいた。
まさか……こいつ、普段から運動してないのか?
そう思った直後、俺は彼が体育の授業にすらまともに参加していないことを思い出した。というより、いつも授業の終わる数分前になると、どこかへ抜け出していた気がする。
……確かに、もう少し運動したほうがいいな。俺も気をつけないと、いつかこいつみたいになるかもしれない。
そんなことを考えていると、ふと気づいた。
そういえば、坂本さんはどこだ?
振り返ってみると、少し後ろから彼女が雨宮に追いつこうと走ってきていた。けれど、その姿を見た雨宮は、面倒そうに振り返る。
「そんなに急いで走らなくてもいいだろ。汗をかいたまま教室に入りたくないだろ?」
その言葉を聞いた瞬間、坂本さんはぴたりと足を止めた。そして何事もなかったかのように、ゆっくりと歩き始める。
真希はその様子を見て、思わず小さく笑った。
その笑顔は、いつもの彼女からは想像できないほど自然で、どこか上品だった。
その瞬間だった。
周囲の視線が一斉に真希へ集まった。
普段、冷たい印象を持たれている彼女が、あんなふうに柔らかく笑う姿を目にして、何人もの生徒が思わず足を止めている。
新入生の中には、その笑顔にすっかり見惚れてしまったのか、口を開けたままこちらを見ている者までいた。
俺はそんな視線を見ても、不思議と嫌な気持ちにはならなかった。
むしろ……少しだけ誇らしい気持ちになった。
「ほら、もうすぐ着くぞ。時間を無駄にしてる場合じゃない」
「うん。行こう、慧翔くん……」
真希はいつものように落ち着いた声で答えた。
けれど――。
校門の近くに停められている、一台の黒い車が視界に入った瞬間、その表情が変わった。
ほんの一瞬だった。
けれど、俺にははっきりとわかった。
さっきまで穏やかだった瞳から、温度が消えていく。
まるで氷のように冷たい目。
俺はその表情を見たことがある。
そうだ。
以前、彼女の母親が突然訪ねてきた時と、まったく同じだった。
……待て。
まさか……。
俺は一瞬、母親がまた来たのかと思った。
だったら、真希に母親を嫌う必要なんてないと伝えなければならない。
そう思ったところで、すぐに違和感に気づいた。
……違う。
あの車から降りてきたのは、女性じゃない。
車内にいたのは、一人の男だった。
ドアがゆっくりと開く。
そして、その男が何事もなかったかのように車から降りてきた。
仕立てのいい黒いスーツ。
冷たく、揺るぎのない表情。
周囲の視線など一切気にする様子もなく、ただ真っ直ぐにこちらを見つめている。
その姿を見た瞬間、真希の呼吸がわずかに止まった。
冷たい汗が、彼女のこめかみを伝っていく。
繋いでいた手にも、ほんの少しだけ力が入った。
身体が小さく震えている。
それでも、真希はその男から目を逸らさなかった。
まるで、目の前にいる人物から逃げることすら許されないかのように。
俺は思わず真希の横顔を見つめた。
そこには、俺の知らない過去があった。
そして――。
あの男が、その過去と深く関わっていることだけは、すぐにわかった。
真希は震える唇をわずかに動かし、誰にも聞こえないほど小さな声で呟いた。
「……なんで父さんが、ここに……?」




