第91話 気づいてほしかったこと
「おーい、二人とも!」
「……ん? あ、坂本さんか」
ようやく、この意味のない言い争いの最中に頼れる人が現れた。
真希のほうを見ると、彼女も坂本さんを見つめていた。まさかここで会うとは思っていなかったのか、少し驚いたように目を見開き、それから戸惑ったような表情を浮かべている。
「真昼ちゃん……来るなら言ってくれればよかったのに」
二人はまるで昔からの親友のように、嬉しそうに抱き合った。
「えへへ〜。サプライズにしたかったんだよ。それより、ほら、急がないと遅刻しちゃうよ」
「そうだね」
その言葉を聞くと、真希は慌てたように歩き出した。少し早足になっているせいか、スカートの裾が軽く揺れている。
坂本さんはそんな真希の背中を一度見送ってから、今度は俺のほうへ歩いてきた。
その目はまるで雨宮のように鋭く、俺の様子をじっと観察している。何かを見逃すつもりはない、とでも言いたげな視線だった。
「何かあったんじゃない? 彼女、あなたに気づいてほしいみたいだよ。だから、ちゃんと見て。気づくまでよく観察しないと」
「『気づく』って……何に?」
俺には本当に心当たりがなかった。
それに……まさか、そんなことだとは思ってもみなかった。
「……髪を切ったんじゃないか?」
俺がそう答えると、坂本さんは信じられないものを見るような目で俺を見た。
数秒間、何も言わなかった。
そして、小さく息を吐く。
「……違うよ。ちゃんと見て」
「違うのか……」
俺は改めて真希の姿を見た。
坂本さんに言われるまま、目を細めながら頭の先から足元までゆっくりと確認する。
髪……いつも通り。
顔も……特に変わってない。
制服は……。
そこで一瞬、視線が止まった。
でも、それだけでは何が違うのかまったくわからない。
額にうっすら汗が浮かぶ。
「……何か、いつもと違うもの……」
小さく呟きながら、必死に考えた。
でも、いくら考えても答えが出てこない。
あ、もしかして……。
「靴か? そうだろ、絶対そうだ」
自信満々に答えたつもりだった。
けれど、坂本さんは額に手を当て、そのまま深いため息をついた。
「……違うよ」
「違うのか……」
「彼女をちゃんと見て。何が違うのか言える? 何か気になるところはない?」
その言葉が、今度は妙に重くのしかかった。
俺はもう一度、真希を見る。
彼女は少し離れたところで俺たちを待っていた。
そして、こちらを振り返った。
その瞬間、目が合った。
真希はすぐに視線を逸らした。
「……何か……」
何か違う。
そう言われれば、確かにいつもとは少し違う気がする。
制服が似合っている。
それは間違いない。
二週間前にも、似たようなことがあった。
あの時も真希は、青いワンピースが自分にどう見えるのか、俺の意見を気にしていた。
もしかしたら、今回も同じなのかもしれない。
俺が何も言わないから、真希は怒っている。
そう考えれば、さっきから妙によそよそしかったことにも説明がつく。
だったら……今からでも言えるはずだ。
「真希」
声をかけると、彼女がこちらを振り返った。
その目はまだ少し冷たかった。
一瞬だけためらった。
けれど、ここで引くわけにはいかない。
俺はゆっくりと彼女へ近づいた。
何と言えばいいのか考えているうちに、妙に緊張して喉が乾いていく。
それでも、ようやく口を開いた。
「えっと……今さら言うのもどうかと思うけど……春の制服、すごく似合ってるよ」
「…………」
一瞬、真希の動きが止まった。
次の瞬間、顔が一気に赤くなった。
まるで、そんな言葉を俺から聞くとは思っていなかったかのようだった。
真希は何も言わずに俯いた。
耳まで赤くなっている。
指先を落ち着かせるように、そわそわと弄っているのが見えた。
「バカ……今になって気づいたの……? でも……ありがとう」
その恥ずかしそうな声を聞いた瞬間、胸の奥が強く跳ねた。
心臓がドクン、ドクンと音を立てる。
俺まで妙に緊張してしまい、思わず視線を逸らした。
「いや……大したことじゃないよ……」
そう言って一歩踏み出そうとした、その時だった。
真希が俺の手をそっと握った。
そして、そのまま指を絡めてくる。
「真希、もしこんなふうに歩いてたら……」
俺が言い終わる前に、真希は少しだけ顔を背けた。
「気にしないよ。隠すことなんて何もないし。それに……みんなに、あなたが私の彼氏だって知ってもらいたいの」
「…………」
この子は……。
そんなことを、こんな平然と言えるのか。
俺は思わず息を呑んだ。
握られた手から伝わってくる温かさに、さっきまでとは別の意味で緊張してしまう。
そして、少し先にいる坂本さんを見る。
案の定、彼女は何かを察したような顔で、こちらをじっと見ていた。
もう、こんな姿を見られたら、どんな質問が飛んでくるのか想像するだけで頭が痛くなりそうだった。
電車に乗り込むと、坂本さんが、どうして朝からこんなに早く駅に来ていたのかを説明してくれた。どうやら、お母さんに頼まれた用事があって、駅の近くに住んでいる友達のところへ荷物を届けに来ただけらしい。それで用事を終えたあと、せっかくだから俺たちを待っていてくれたそうだ。
「なるほど……そういうことだったのか」
「うん。まさか二人がこんなところで会うとは思わなかったけどね」
そんな話をしながら駅に着くと、そこには誰かが笑顔で俺たちを待っていた。
「久しぶりだな。どうやら俺の予想は当たったようだ。くくく……」
その声は……間違いなく雨宮だった。
相変わらず、何かを企んでいるような、どこか人の考えを見透かしているような神秘的な笑みを浮かべている。その表情のせいで、ただ立っているだけなのに妙に目を引いた。
「おや、元気にしてたか? この前、遊びに誘ったのに返事がなかったな」
「え?」
「え?」
俺と真希の声が、ほとんど同時に重なった。
それはどういう意味だ?
俺は思わず真希のほうを見た。
真希も同じように俺を見ていて、二人とも何が何だかわからないという顔をしている。
けれど、俺が結論を出すより先に、雨宮はまるでそのことを思い出すだけでも疲れたと言わんばかりに、大きく息を吐いた。
「いや〜、単純に外へ出るのが面倒だったんだよ。それに、自分の実力がどれくらい落ちたのか確かめたくて、短編を書いてたんだ」
「お前が短編を書いてたのか?」
俺たち三人は、ほとんど同時に声を上げた。
あまりにも自然に言われたせいで、一瞬、聞き間違えたのかと思った。
雨宮はそんな俺たちの反応を気にする様子もなく、いつもの調子で肩をすくめた。
「俺の実力は完全に落ちたよ。何しろ、たった五つの出版社からしか声がかからなかったからな」
「…………」
それを……「実力が落ちた」と言うのか?
俺は思わず言葉を失った。
むしろ、それだけ声がかかっている時点で、普通の人間とは比べものにならないだろ。
隣を見ると、真希も呆れたような顔をしていた。坂本さんに至っては、何か言う気すら失ったのか、額に手を当てながら小さくため息をついている。
「五つって……それで落ちたって言ってるの?」
「そうだよ。昔なら、もっと多かったからな」
「……それを普通だと思わないほうがいいよ」
坂本さんの冷静なツッコミに、雨宮は楽しそうに笑った。
俺はそんな二人のやり取りを見ながら、改めて思った。
もし真希の助けを借りることなく、雨宮が完全に自分一人の才能だけで小説を書いたとしたら……一体、どれほどの作品を作り上げるのだろう。
正直、想像したくもなかった。
それほどまでに、こいつの実力は普通じゃない。
……いや、今はそんなことを考えている場合じゃない。
今日は入学式だ。
これ以上遅れるわけにはいかない。
「ああ、そうだ。急がないと。小説の話は後で聞かせてくれ」
「もちろん。お前たちの新しい話も、いずれ聞かせてもらうとしよう」
雨宮が意味深に笑う。
また何か企んでいるような気がしたけれど、今は気にしている暇がなかった。
俺たちはそのまま駅を出て、高校へ向かって歩き始めた。




