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第90話 突然の独占欲

 …………………………

 ……………………

 ………………


「……え? パソコンのバッテリーが切れたみたい」


 どうやら、そのまま眠ってしまったようだ。


 今、何時なんだろう?


 枕元に置いてあったスマホを手に取り、画面を確認する。


「……午前四時二十一分」


 そこには、そう表示されていた。


 まだそんな時間なんだ……。


 そう思ったところで、画面に新しいメッセージが届いていることに気づいた。


「……あれ? 慧翔くんからメッセージが来てる」


 開いてみると、そこには短い一文が表示されていた。


 [制服、ちゃんと準備しておけよ。入学式があるのを忘れるなよ]


 そうだった。


 今日は入学式があるんだった。


 せっかくここまで起きているんだから、もう今のうちに準備しておこう。


 そう思って、ベッドから起き上がった。


 制服を取り出して、必要なものを一つずつ確認していく。鞄の中身も整えて、忘れ物がないか何度も確認した。


 結局、すべての準備が終わったのは、午前六時頃だった。


 あとは……慧翔くんを起こすだけ。


 そう思いながら、彼の部屋へ向かった。


 廊下を歩き、彼の部屋の前まで来る。


 そして、ドアをノックしようとした、その時だった。


 ふと足元に視線を落とした。


「……あれ?」


 ない。


 以前、ここに引いてあった赤い線が消えていた。


 たぶん、私がもう一度この家に来て、すでに彼の部屋へ入ったことがあるからだろう。


 今は付き合っている。


 でも、だからといって、彼が私の部屋に勝手に入っていいわけじゃない。


 もちろん私だって、彼の部屋に入る時は、ちゃんと本人に聞いてからにするつもりだった。


 ……本来なら。


 一歩後ろへ下がる。


 でも、目の前のドアを見ていると、なぜかどんどん気になってきた。


「…………」


 ちょっとだけ。


 ほんの少しだけ、中に入って起こすだけなら……。


 それに、鍵だってかかってない。


 ……そう。


 ただ起こしに行くだけ。


「……私、誰に言い訳してるんだろう」


 自分でも呆れて、小さくため息をついた。


「慧翔くんの部屋に……入りたいんだ」


 結局、私は自分の気持ちを抑えきれなかった。


 ゆっくりとドアノブに手を伸ばし、そのまま静かに回す。


 カチャッ。


 小さな音が響いた。


 やっぱり、鍵はかかっていなかった。


「……もう、後戻りはできないな」


 そう呟きながら、まるで泥棒にでもなったような気分で、できるだけ音を立てないように慎重に中へ入る。


 ただ……。


 どうか、気づかれませんように。


 そんなことを心の中で願いながら、一歩ずつ進んだ。


「……ん?」


 部屋の中を見回す。


 思っていたよりもずっときれいだった。


 必要なものがきちんと整理されていて、私の部屋とは大違いだ。


 さすが慧翔くん。


 そんなことを考えながら、もう少しだけ奥へ進もうとした、その瞬間だった。


「何してるんだ、俺の部屋で?」


「…………──」


 その声は……。


 すぐ後ろから聞こえてきた。


 一瞬で全身に鳥肌が立つ。


 まさか……。


 恐る恐る、ゆっくりと振り返った。


「…………」


 そして、そこには確かに彼が立っていた。


 白いシャツを着ていて、髪は少し濡れている。


 どうやら、シャワーを浴びたばかりらしい。


「……え?」


 どうして……。


 どうして後ろにいることに気づかなかったんだろう?


 それより、早く何か言い訳を考えないと……!


「あ、あなたを起こしに来たのよ!」


 慌てて声を上げる。


「べ、別に変なことなんて考えてないからね! ふん!」


 自分でも苦しすぎる言い訳だと思った。


 けれど、もう口から出てしまったものは仕方がない。


 慧翔くんは、明らかに疑わしそうな目で私を見つめていた。


 まるで、私の言葉のどこに矛盾があるのか探しているみたいだった。


「…………」


 その視線に耐えられない。


 何か言われる前に、私はぷいっと顔を背けた。


「もう! 知らない!」


 怒ったふりをしながら、そのまま急いで自分の部屋へ戻る。


 ドアを閉めた瞬間、背中を預けるようにして、その場に立ち尽くした。


「バカ……バ────カ!」


 顔が熱い。


 恥ずかしすぎる。


 あんなところを見られるなんて……。


 しかも、よりによって朝から。


 慧翔くんは、私のあまりにも子供じみた反応に、完全に戸惑っていたに違いない。


 でも……。


「見てなさいよ……!」


 ベッドの上に置いてある制服へ視線を向ける。


 今日は入学式。


 これから私は、この制服を着る。


 きっと慧翔くんは、制服姿の私を見た瞬間、驚いて言葉を失うはずだ。


 そうに決まっている。


 さっきのことなんて、すぐに忘れてしまうくらいに。


「……絶対だからね」


 そう自分に言い聞かせながら、私は制服へ手を伸ばした。


 朝からこんなことで慌てている場合じゃない。


 今日は、新しい学校生活が始まる大切な日なのだから。


 それに……。


 慧翔くんと一緒に迎える、初めての入学式でもある。


 そう考えると、さっきまでの恥ずかしさとは別の意味で、胸が少しだけ高鳴った。


 * * *


 ◇◆◇◆◇


 部屋を出てからも、真希は妙に距離を置いていた。今まで見せたことのないような冷たさというわけではなく、どちらかといえば、恥ずかしさを隠そうとしているような態度だった。


 あまり気にしないほうがいいだろう。ここで何か言えば、無視されるか、さらに怒らせるかのどちらかになりそうだ。


 今はとりあえず、そっとしておくことにした。


 でも、一つだけやりたいことがあった。


「真希」


 彼女がこちらを振り向いた瞬間、手を伸ばして、そっと頭を撫でた。


 真希の顔は一瞬で赤くなり、しばらくはされるがままになっていた。


 おとなしい猫。


 頭を撫でながら、最初にそんなことを思った。


 けれど、その大人しい表情が続いたのはほんのわずかだった。すぐに鋭い目つきが戻ってきて、今度はさっきよりもさらに険しくなっていた。


「ねえ、やめてよ。それに……もういい。バカ!」


 どうしたんだ?


 俺は何も悪いことをしていないはずなのに、ずっと怒っているように見える。


 エレベーターの前まで来ると、真希は俺の隣に立った。


 でも、いつものように近くに寄ってくることはなく、できるだけ距離を取るようにしていた。


「……何かあったのか?」


 返事はなかった。


 沈黙が続いたまま、エレベーターのドアが開く。


 そこへ、別の高校の女子生徒が三人乗り込んできた。


 すると、それまで保っていた距離を忘れたかのように、真希が突然俺のほうへ近づいてきた。


 そして、そのまま俺の腕にぎゅっとしがみついた。


「真希……?」


「黙って。あなたは私のものだって……私だけのものだって」


 顔はまだ真っ赤なままで、声もほとんど聞こえないほど小さかった。


 それでも、その言葉だけははっきりと俺の耳に届いた。


 その一言に、俺はますます戸惑った。


 一体、何が起きてるんだ?


 何もわからなかった。


 あまりにも小さな声だったから、おそらく今の言葉を聞き取れたのは俺だけだろう。


 真希はそのまま俺の腕にしがみついたまま、エレベーターが一階に着くのを待っていた。


 やがて、軽い音とともにエレベーターが停止する。


 ドアが開いた瞬間、真希は何事もなかったかのように、突然俺から離れた。


 その態度は、まるでさっきまで俺の腕にしがみついていたことなんて、最初からなかったかのようだった。


 そして何食わぬ顔で歩き出す。


「…………」


 俺はその背中を見つめながら、ただ呆然としていた。


 さっきまでの真希は、一体何だったんだ?


 怒っていたと思ったら、急に俺にしがみついてきた。


 それなのに、今は何事もなかったように振る舞っている。


 わけがわからない。


 でも……。


 なぜか、少しだけ嬉しかった。


 あんなことを言われたのは初めてだったからだ。


 ただ、それを本人に聞く勇気は、まだ俺にはなかった。


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