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第88話 過去を打ち明ける夜

 その間……やっぱり、晒しを付け直しておいたほうがいいのだろうか?


 もうすっかり慣れてしまっていたせいか、長い間付けていないと、どこか落ち着かないような妙な感じがした。最初の頃は少し面倒に思うこともあったけれど、今ではそれを身につけること自体が当たり前になっている。気づかないうちに、すっかり習慣になっていたのだろう。


 迷うことなく手に取り、いつものように身につける。


 きちんと収まったのを確認すると、それだけでようやく安心して息ができるような気がした。


 ……やっぱり、これが一番落ち着く。


 長い間使い続けてきたものだから、今さら外したままでいるほうが、かえって違和感があるのかもしれない。


 それに……さっきのことを思い出すと、これ以上恥ずかしい思いをするのは絶対に避けたかった。


 数分ほどその場で気持ちを落ち着かせてから、ようやく勇気を振り絞って部屋を出た。


 恐る恐るリビングへ向かう。


 すると、慧翔くんはまだそこに座っていた。


 さっきと変わらない様子で、何事もなかったかのようにノートパソコンへ視線を向けている。


 まるで、先ほどの出来事を最初からなかったことにしてくれているようだった。


 その気遣いが、かえってありがたかった。


「……慧翔くん……さっきのことなんだけど……」


 少しだけためらいながら声をかける。


 慧翔くんはすぐに顔を上げたけれど、私を責めるような様子はまったくなかった。


「君にも何か理由があるんだろ。気にするなよ。どんな理由があったとしても、君が俺の彼女であることに変わりはないんだから」


「──……そうだね。ありがとう、慧翔くん。わかってくれて……」


 その言葉を聞いて、胸の奥に残っていた緊張が少しずつほどけていく。


 やっぱり、この人は優しい。


 私がどんなに恥ずかしい失敗をしても、無理に聞き出そうとはしない。


「……ところで、もし付けているのが苦しいとか、付け心地が悪いなら……無理に付けなくてもいいんじゃないか?」


「やだ!」


 思わず即答してしまった。


「そういう意味じゃないの。慧翔くんを信じてないわけじゃない。ただ……これが気になって集中できなくなったり、今までみたいに一緒に過ごせなくなったりするのが怖いの」


 自分でも、少し変な言い方だと思った。


 でも、これまでの生活の中で当たり前になっていたものが変わってしまうことが、私は少し怖かった。


 慧翔くんと過ごす時間まで、何かを意識しながら過ごすようになってしまうのは嫌だった。


「俺は……じゃあ、いつになったら?」


 少しだけ期待するような目で見つめられて、思わず笑ってしまった。


「いつかね。時が来たら、ね〜♡」


 そう言って微笑みながら、そのままキッチンへ向かった。


 けれど正直なところ、その「いつか」がいつになるのかは、私自身にもわからなかった。


 ただ……


 いつか、そんな日が来ることだけは、なぜか確信していた。


 その瞬間、ふと何年も先のことを想像してしまった。


 大人になっても、慧翔くんの隣にいる自分。


 今と同じように笑いながら、一緒に食事をして、くだらない話をして……そんな日々を当たり前のように過ごしている自分。


 そんな未来が、ほんの一瞬だけ頭の中に浮かんだ。


 けれど、すぐに軽く首を振る。


 ……まだ早い。


 そんな先のことまで考えるには、私たちはまだ始まったばかりだ。


 それに……


 まだ父の承諾だって得ていない。


 母がうまく説得してくれるといいのだけれど。


 でも、物心ついた頃から見てきた父の性格を考えると、そう簡単にはいかない気もする。


 それでも……きっと、大丈夫。


 たぶん……大丈夫だよね?


 今はそんなことを考えていても仕方がない。


 とにかく、夕飯を用意しよう。


 慧翔くんは今日も十分頑張ってくれた。


 このくらいは私がやらなきゃ。


 そう思ってキッチンへ向かおうと、一歩踏み出した、その時だった。


 ポケットの中で、スマホが突然鳴り始めた。


「……誰だろう?」


 足を止め、スマホを取り出す。


 画面に表示された名前を見た瞬間、少しだけ目を見開いた。


 そこに表示されていたのは――


 真昼ちゃんの名前だった。


「わあ〜〜、すごく会いたかったよ──。出たほうがいいかな?」


「出たほうがいいんじゃないか。何しろ、君の大切な友達なんだろ?」


「もう、慧翔くん。真昼ちゃんはあなたの友達でもあるし、私たちのイラストレーターでもあるんだからね。忘れないでよ」


 少しだけ頬を膨らませて叱ってから、私はスマホを耳に当てた。


「もしもし、真昼ちゃん。久しぶり。こうして声が聞けて嬉しいよ」


「よかった。もう修善寺から戻ってきたんだね。どうだった? 二人は……」


 その声には、明らかに興味津々といった様子が混ざっていた。


 たぶん、私たちが何をしていたのかを聞きたくて仕方がないんだろう。


「えっと……それについては、後でゆっくり話したいな。今は夕飯の準備をしないと。慧翔くんに仕事をたくさん任せちゃってるし……へへ」


「ははは、真希ちゃんは意外と意地悪だね。まあ、いいや。それじゃあ、また後で。落ち着いたら電話してね」


「うん。必ずするよ」


 そう約束して、通話を切った。


 スマホをポケットにしまいながら、思わず小さく息を吐く。


 真昼ちゃんと話すのが、今から少し楽しみだった。


 今回の旅行で起きたことを、最初から最後まで全部話したい。


 特に……慧翔くんと私の間に起きたことを知ったら、真昼ちゃんがどんな反応をするのか。


 きっと驚くだろう。


 もしかしたら、からかわれるかもしれない。


 それでも、早く話したかった。


 そんなことを考えながら、私は急いで夕飯の準備を始めた。


 * * *


 夕食を食べ終える頃には、ようやく一日の疲れも少しだけ落ち着いてきていた。


 食器を片付けて、洗い物をしようとしたところで、慧翔くんが立ち上がった。


「坂本さんと話してきなよ。これ以上待たせるのも悪いだろ。皿洗いは俺がやるから」


「でも……」


「いいって。今日はもう十分働いただろ。君は友達と話してきなよ」


 そう言われてしまうと、断る理由なんてなかった。


「……ありがとう、慧翔くん」


 それだけ伝えると、私は一瞬も無駄にせず自分の部屋へ向かった。


 ドアを閉めるなり、すぐにスマホを取り出して真昼ちゃんへ電話をかける。


 三秒も経たないうちに、すぐに電話がつながった。


「もしもし?」


「よし、やっとゆっくり話せるね」


 その声を聞いた瞬間、なんだか少し安心した。


 やっぱり、真昼ちゃんと話すのは久しぶりだ。


「で、二人の間はどうだった? もちろん、いい話が聞けるんだよね?」


 期待を隠そうともしない声に、思わず苦笑してしまう。


 やっぱり簡単には逃がしてくれない。


「えっと……その……慧翔くんと私……もう、付き合ってるの」


「えっ――本当に!? それはすごくいい知らせじゃん! おめでとう、真希ちゃん!」


 電話越しでも、真昼ちゃんが本気で喜んでいるのが伝わってきた。


「でも……正直、遅かれ早かれそうなるとは思ってたよ。もし二人がいつまでも進展しなかったら、私が自分で暴露してたかもしれないけどね」


「え? どういう意味? 真昼ちゃん?」


「つまり、今度みんなで集まった時に、二人にはそれぞれ自分の気持ちをちゃんと告白してもらおうと思ってたの。私から見ても、二人ともお互いのことが好きなのはわかりやすかったからね。でも、どうやら私が手を出す必要はなかったみたい」


「そ、そうだったんだ……」


「それで? どっちから告白したの?」


「…………──」


 答えようとして、言葉が止まった。


 やっぱりそこを聞いてくるんだ。


「真希ちゃん……まさか、君から?」


「……うん」


「すごいじゃん! でも、和泉くんには後でちゃんと叱っておくからね。男のほうからも、ちゃんと気持ちを伝えるべきなんだから」


「もう、もう……。でも、大事なのはちゃんとうまくいったってことでしょ?」


「それはそうだけど……」


 真昼ちゃんはまだ何か言いたそうだった。


 でも、私は小さく笑ってから、少しだけ声の調子を落とした。


「細かい話をする前に……もう一つ、隠したくないことがあるんだ」


 その瞬間、電話の向こうの空気が変わった。


 さっきまで冗談を言っていた真昼ちゃんが、すぐに黙った。


 私の声が急に真剣になったことに気づいたのだろう。


「……うん。どうしたの?」


 その優しい声を聞いて、少しだけ胸が苦しくなった。


 でも、もう話してもいいと思った。


 ずっと自分の中だけに抱えておく必要はない。


「実は……お母さんが私のところに来た日のことなんだけど……」


 私はゆっくりと話し始めた。


 母が突然訪ねてきたこと。


 そこで聞かされたこと。


 婚約の話。


 そして、それをきっかけにして、これまでずっと胸の奥に抱えていたこと。


 途中で何度か言葉に詰まりそうになったけれど、それでも一つずつ話していった。


 真昼ちゃんは途中で口を挟まなかった。


 ただ黙って、私の話を聞いてくれていた。


 電話の向こうから聞こえるのは、時々小さく息をする音だけだった。


 その沈黙が、不思議と嫌ではなかった。


 むしろ、最後まで話していいのだと、そう思わせてくれた。


 だから私は、今まで起きたことを一つずつ思い出しながら、彼女にすべてを話し続けた。


 * * *


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