第87話 油断した代償
「やっと着いた〜〜!」
リビングのソファへ倒れ込むようにして声を上げた。慧翔くんは私のスーツケースを部屋まで運んでくれていた。
もう完全に疲れ切っていた。
それに……
電車の中で蘇ったあの記憶が、まだ頭の片隅に残っていて、妙な懐かしさを感じさせていた。
「え……真希? 君の部屋、ちょっと散らかってるけど……」
――忘れてた!!
勢いよく飛び起きると、慧翔くんが一歩踏み出すよりも早く部屋へ駆け込んだ。
「慧翔くん、ちょっと出てって! ……きゃっ!!」
晒しが床に落ちていた。
見られた。
「……何も見てないよな?」
今、自分がどんな顔をしているのかなんて想像もつかなかった。
ただ、頬が熱くなって、全身が強張っていることだけはわかった。
「……ああ。何も見てない」
その言葉を全部信じることはできなかった。
でも少なくとも、このことを後でからかったりするつもりはないんだろうということだけは伝わってきた。
それだけで、少し安心できた。
「ここから出てって、慧翔くん。あとは私がやるから」
慧翔くんはしばらく黙ったまま、ようやく状況を理解したようだった。
結局、何も言わずに小さくうなずくと、そのまま部屋を出ていった。
冗談も言わなかった。
誤魔化そうともしなかった。
ただ、いつものように自然に部屋を後にした。
ドアが閉まると同時に鍵をかけ、そのまま背中を預けた。
「……恥ずかしすぎる……」
彼も、今見た光景を遅かれ早かれ思い出すだろう。
そう思うだけで顔が熱くなる。
どうして彼を部屋へ入れる前に、ちゃんと片付けておかなかったんだろう。
「いや……そんなこと考えてる場合じゃない。片付けよう」
軽く首を振って気持ちを切り替え、そのまま部屋の片付けを始めた。
* * *
「やっと終わった!」
きれいに片付いた部屋を見渡しながら、大きく息をついた。
これでようやく安心して外に出られる。
ついでに、お風呂上がりに着る服も準備しておいた。
少しゆっくりしたかった。
「慧翔くん、お風呂沸かしてくれる?」
「もちろん。すぐにやるよ」
慧翔くんが風呂場へ向かうのを見送りながら、私は着替えを手に取って、お風呂の準備ができるのを待った。
お風呂から上がる頃には、慧翔くんの姿はもう近くになかった。
それでも……
タオル一枚で外へ出るなんて、絶対に無理だった。
もしそんな姿を見られたら、恥ずかしくて死んでしまう。
そんなの、絶対に耐えられない。
* * *
結局、全部うまくいった。
今はただ、眠りたかった。
夕食を食べる気力さえ残っていなかった。
疲れすぎて、食欲までなくなってしまっていた。
一行書く元気すら残っていない。
今日は……
もう無理だ。
まあ、いいか……
今日は思う存分眠ろう。
慧翔くんも、この旅の疲れで同じようなものだろう。
……………………… ………………… ……………
控えめなノックの音で目が覚めた。
ゆっくりと目を開けると、部屋の中はすっかり暗くなっていた。
間違いない。
日が暮れるまで眠ってしまったらしい。
「……慧翔くん、まだ起きてるかな。それとも、もう自分の部屋で休んでるのかな」
慎重にドアを開けて、そっとリビングを覗いた。
いた。
テーブルに向かって座り、ノートパソコンを開いたまま、画面から目を離さずに何かを書いていた。
一瞬、疲れていないようにも見えた。
……いや、それは言い過ぎか。
もちろん疲れているはずだ。
それでも手を止めることなく、黙々と書き続けている。
たぶん、まだ残っている仕事を片付けているんだろう。
明日に回してもよかったはずなのに。
それでも今日のうちに終わらせようとしている。
そんな彼の姿を見ていると、少しだけ罪悪感が込み上げてきた。
気づけば、ほとんどの仕事を彼に任せきりにしてしまっていた。
黙って見つめていると、不意に彼の指がキーボードから離れた。
ゆっくりと顔を上げる。
「おはよう、眠り姫。もう休めた?」
「もう〜! そんな呼び方しないでよ! 慧翔くんのいじわる」
「……?」
ちょっとからかってみようかな。
悪くないかも。
えへへ……
いいこと思いついちゃった。
ちょっと恥ずかしいけど。
「私ね……一緒に寝るの、ずっと待ってたんだよ。慧翔くんの温もりが恋しかったんだから♡」
ああ……
顔、真っ赤になってる。
恥ずかしい思いをした甲斐があった。
こんな反応が見られるなんて。
時間が経つにつれて、彼の顔はますます赤くなっていく。
それがなんだか嬉しかった。
「慧翔くん〜、大好き」
勢いよく駆け寄って、そのまま抱きついた。
でも……
抱きついた瞬間……
忘れてた。
完全に忘れてた。
どうして晒しを巻くのを忘れたの、私!?
全身が固まった。
うそ……
そんな……
彼を抱きしめたまま、頭の中が真っ白になった。
「……あっ」
慧翔くんも動かなかった。
一瞬、息をすることすら忘れたように固まっていた。
そして、ゆっくりと視線が下へ落ちる。
私もつられるように目を落とした。
その先にあったものは――
…………………… ……………… …………
「きゃああああっ!!」
飛び上がるように離れて、反射的に両腕で胸を隠した。
「あ、あ、あ、あっち向いて、慧翔くん!」
顔が熱すぎて、このまま倒れてしまいそうだった。
どうして……
どうしてこんな大事なことを、よりにもよって今になって忘れちゃったの!?
「ご、ごめん……」
慧翔くんは慌てて両手を上げ、そのまま勢いよく顔を背けた。
「わ、わざとじゃないんだ……」
「な、何も言わないで!」
もう無理だった。
彼の顔なんて見られない。
さっきまで彼が照れる姿を見て楽しんでいたのに。
それなのに今は……
世界から消えてしまいたいと思っているのは、私の方だった。
迷うことなく、自分の部屋へ駆け戻る。
「つ、ついてこないで!」
急いでドアを閉め、そのまま背中を預けた。
「……うぅ……」
両手で顔を覆う。
泣きたくなった。
悲しいからじゃない。
自分で招いた、このどうしようもない恥ずかしさのせいで。
「……バカだなあ、私」
これ……
どうすればいいんだろう。
そうだ……
少し時間を置こう。
落ち着いてから出ればいい。
うん……
それが一番いい。




