第86話 現実のような夢と、痛みを宿した記憶
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「ねえ、もうこの子にご飯は食べさせたの?」
「そんな時間はないだろう。使用人を雇っているんだから」
完璧にアイロンのかかった黒いスーツを身にまとった男は、二十歳ほどの若い女性へと視線を向けた。彼女は幼い女の子を抱きかかえていた。
その視線は一瞬だけ赤ん坊へ落ちる。
無邪気な笑顔は、大人たちが何を話しているのかなど何ひとつ理解していないようだった。
「君との子供は欲しかった……だが、期待していたのは男の子だった」
「そんなの選べるものじゃないよ。それに、ほら……この子、とても幸せそうじゃない。ねえ、真希?」
言葉の意味などわからないまま、小さな手を伸ばし、隣にいた若い使用人へ向かって無邪気に笑いかける。
その女性の名は、香織だった。
彼女は思わず優しく微笑んだ。
男は数秒の沈黙のあと、再び口を開く。
「香織……この子がこれから待ち受ける未来に耐えられることを願う。もし耐えられなければ、黒川の名を継ぐ資格はない」
「……もう、そんなこと言わないで」
香織は幼い真希へ視線を向け、優しく頭を撫でながら、希望に満ちた笑みを浮かべた。
「この子なら、きっと大丈夫だから……」
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「……ん……?」
ゆっくりと目を開けた。
隣を見ると、慧翔くんはまだ眠っていた。どうやら彼も疲れには勝てなかったみたいだ。
ポケットからスマホを取り出し、時間を確認する。
電車に乗ってから、まだ一時間半しか経っていなかった。
「…………」
もう一度眠れることはわかっていた。
それでも、眠れなかった。
あの記憶が何度も何度も蘇り、私を離してくれなかったから。
どれだけ忘れようとしても、心の奥に深くこびりついたままだった。
あの頃の日々……
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「パパ、パパ! 百点取ったよ! 見て!」
テスト用紙を両手で抱えながら、私は父のもとへ駆け寄った。
あの光景は今でもはっきり覚えている。
まだ四歳だった頃のことだ。
父は電話をしていて、私が近づいても、用紙へ一瞬だけ目を向けただけだった。
「真希。満点を取るのは当然だ。当然のことをわざわざ自慢しに来るな」
今でも……
あの言葉は、はっきりと耳に残っている。
あの頃の私は、その意味を理解できなかった。
もっと頑張れば、いつか褒めてもらえる。
そう信じていた。
……本当に、子供だった。
その日、私は母のところへ駆けていき、父に言われたことを全部話した。
母は私をぎゅっと抱きしめ、父にそのことを話してくれた。
それから優しく頭を撫でながら、
――頑張り続ければ、いつかきっと認めてもらえる。
そう励ましてくれた。
私も、それを信じたかった。
だから頑張り続けた。
もっと、もっと。
父の期待が大きくなるたびに、それに応えようと必死になった。
けれど……
父の言葉が変わることは、一度もなかった。
いつも少しずつ、さらに多くを求められた。
どれだけ頑張っても……
いつも足りなかった。
年月が経つにつれて、母は家にいる時間が少しずつ減っていった。
何日も顔を合わせられないこともあった。
そして……
一番そばにいてほしかった時ほど、私は一番孤独だった。
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「お母さん、お母さん! すごく会いたかったよ……本当に、すごく会いたかった──」
久しぶりに会えた嬉しさのまま、大きな笑顔で駆け寄った。
でも、何かを言うより早く――
パシッ!
頬に平手打ちが飛んだ。
理由なんてわからなかった。
何もしていない。
自分が何をしたのかさえ、わからなかった。
「真希……お願いだから……今は機嫌が良くないの。私……急いでるの。また後で話しましょう。だから今は部屋へ戻っていて」
目いっぱい涙があふれた。
こらえようとした。
でも、無理だった。
どうして……?
どうして、いつもこうなんだろう……?
母は抱きしめてくれることも、謝ってくれることもなく、そのまま私に背を向けて歩き去っていった。
その背中が遠ざかっていくほど、胸の痛みは大きくなっていった。
「真希さま……大丈夫ですか?」
その優しい声は、両親が私の世話係として雇っていた若い使用人のものだった。
「香織さまも、わざとあんなことをしたわけじゃないと思います。きっと何か事情があったんです。少しだけ時間をあげましょう? その間は……一緒に遊びませんか?」
彼女は……
私が笑顔でいられた、数少ない理由の一人だった。
私にとっては、本当のお姉さんみたいな存在だった。
当時、彼女は十二歳。
私はまだ八歳だった。
それに彼女は、この家の筆頭使用人の娘でもあり、両親が母娘そろって信頼していたからこそ、二人で私の世話を任されていた。
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「真希……真希、着いたよ」
「あ……慧翔くん……?」
ゆっくりと目を開けた。
窓の外の景色は、もうすっかり変わっていた。
「よく眠れたか? 着いたぞ」
穏やかに微笑みながら、慧翔くんがそっと私の髪を撫でる。
まるで、あの夢の重さを優しく消してくれるみたいに。
「……どれくらい寝てたの?」
「結構寝てたよ。さあ、降りよう。家に帰るぞ」
私は黙ってうなずいた。
立ち上がってスーツケースを取ろうとしたけれど、慧翔くんはいつものように自然と先回りして、私が触れる前に下ろしてしまう。
「……ありがとう。でも、もうご褒美はないからね。さっきので前払いは終わりだから」
「はいはい。さあ行こう。この旅でたまった疲れを、家でゆっくり癒やしたいしな」
思わず笑みがこぼれた。
ついさっきまで、忘れたい記憶に苦しんでいたはずなのに。
気づけば、一番心を落ち着かせてくれる人の隣で目を覚ましていた。
不思議だった……
でも、慧翔くんがそばにいてくれるだけで、あの記憶は少しずつ力を失っていく。
そんな気がした。
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