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第85話 帰路

 * * *


「真希、真希。起きて」


 肩を優しく揺すられ、ゆっくりと目を開けた。


「ん……? あ……」


 顔を上げると、慧翔くんが穏やかな笑みを浮かべてこちらを見ていた。


 周りを見渡すと、すぐに自分たちがどこにいるのか理解した。


 もう駅に着いていたんだ。


「……あっ! ごめん、まだすごく眠くて……」


「気にするな。でも、そろそろ起きたほうがいい。電車がもうすぐ出るから」


 慌ててうなずいて車を降りると、慧翔くんはいつものようにスーツケースを降ろしてくれた。


 ホームの向こうでは、一葉さんと誠一郎さんが温かい笑顔で私たちを見つめていた。まるで、私たちが何を考えているのか最初からわかっていたかのように。


 荷物を整え終えると、二人は私たちの前まで歩いてきた。


 この……この瞬間が来た。


 お礼を言おうと頭を下げかけたその時、一葉さんが少し横へ移動し、私にそっと手招きをした。


 どうやら二人きりで話したいみたいだった。


 少し戸惑いながらも彼女の後について車の反対側へ向かう。二人に声が届かないくらいまで離れると、ちょうどその頃には誠一郎さんが慧翔くんに話しかけていて、自然と私たちだけの時間を作ってくれていた。


 そこには、一葉さんと私だけがいた。


「真希ちゃん……ようやく二人が付き合えるようになって、本当に嬉しいわ」


 その笑顔はあまりにも優しくて、胸の奥がじんわりと温かくなった。


「本当に幸せな関係を築いてほしいの。うちの息子を……よろしくね」


「一葉さん……」


 胸がいっぱいになって、少しだけ言葉が詰まった。


「ありがとうございます。私、精一杯頑張ります。慧翔くんのために、できる限りのことをします」


 一葉さんは私の手をそっと両手で包み込んだ。


 その瞳には、安堵と希望が優しく宿っていた。


「ありがとう……その言葉を聞けて、本当に安心したわ」


 私は力強くうなずいた。


「私も……この関係を大切にしていきます」


 それ以上何も言わず、一葉さんは私をぎゅっと抱きしめてくれた。


 愛情に満ちた抱擁だった。


 子どもの頃、一度でいいから母に抱きしめてもらいたいと願っていた――そんな抱擁。


 堪えきれず、私も同じように強く抱き返した。


 ずっと求めていた温もりだった。


 しばらくして、ゆっくりと体を離す。


 離れたかったからじゃない。


 もう時間がなくなってしまったから。


「近いうちに、あなたのご両親にもお会いできるといいわね。よろしく伝えてくれる?」


 小さく笑ってうなずいた。


「はい、伝えます」


「真希、もう行かないと! 電車が出るよ!」


 その声は間違いなく慧翔くんだった。


 一葉さんは最後にもう一度、優しく微笑む。


「また今度ね、真希ちゃん」


「はい」


 二人のところへ戻ると、もう荷物の準備はすっかり終わっていた。


「一葉さん、誠一郎さん……本当にありがとうございました。この数日間、とても楽しかったです。またお会いしましょう」


「いいえ、こちらこそ。楽しんでもらえてよかったわ。またいつでも遊びに来てね」


「またね、母さん、父さん」


「ああ、気をつけてな」


 そう言って別れを告げ、急いで電車へ乗り込んだ。


 一葉さんと話している間に、二人が切符を買ってくれていたんだろう。


 そんなことまでしてくれたのが、また胸を温かくしてくれた。


 電車に乗り込み、席に腰を下ろした。


「雨宮くんと真昼ちゃんが知ったら、どんな反応するんだろう。二人の顔が目に浮かぶよ」


 慧翔くんが小さく笑った。


「きっと驚くだろうな。でもその前に……やっと帰れる。さすがに少し疲れたよ」


「当然でしょ。結局、私の大きなスーツケースをずっと持ってくれてたんだから」


「まあな……そういうのが紳士ってもんだろ」


 思わず笑ってしまった。


「特に、自分の彼女に対してはね」


 慧翔くんは少しだけ視線をそらし、平静を装うように肩をすくめた。


「じゃあ……せめてチップくらいはもらってもいいだろ?」


 ゆっくりと彼に近づき、そっと額にキスをした。


 それだけで、胸がどきどきした。


 こんなに人目のある場所でしたのは初めてだった。


「本当は頬のほうがよかったんだけどな……」


 言い終わる前に、もう一度顔を近づけて、そのまま唇にキスをした。


 彼が反応する暇もないほど、一瞬のキスだった。


 唇を離すと、今度は私のほうが恥ずかしくなってしまった。


「慣れないでよ……これで十分なチップだから。次がいつになるかはわからないけど……しばらくはなしだからね」


 慧翔くんは数秒かけてようやく我に返った。


 何度か瞬きをしてから、満足そうに笑ってうなずく。


「チップありがとう。もう十分満足したよ」


 平然を装っていたけれど、耳まで真っ赤になっているのが見えた。


 それが……


 あまりにも可愛かった。


 心の中でそっと微笑みながら、彼の肩に頭を預け、ゆっくりと目を閉じる。


「着いたら起こして」


 彼が小さくうなずいた気配が伝わってきた。


 そのささやかな安心感に包まれながら、私は再び眠りへと落ちていった。


 本当に楽しかった。


 こんなにも満たされた時間を過ごせたのは、久しぶりだった。


 最終日は少し疲れたけれど、それでも全部が報われた気がする。


 それに……


 私たちが生んでしまった誤解も、ようやく解けた。


 そして何より、想像していたよりもずっと幸せな結末になった。


 このまま順調にいけば……


 慧翔くんと一緒に描く未来は、もうすぐ手の届くところまで来ているのかもしれない。


 ああ……


 もう眠気には逆らえない。


 完全に眠りへ落ちる前に、最後の力を振り絞って呟いた。


「慧翔くん……連れてきてくれてありがとう。本当に……来てよかった」


 彼はすぐに答えてくれた。


 いつも私を安心させてくれる、あの穏やかな声で。


「もちろん。また連れてくるよ。君と過ごせる時間を逃すわけにはいかないだろ?」


 小さく笑ってうなずく。


 それからもう少しだけ彼の胸に身を寄せ、電車の穏やかな揺れに身を委ねた。


 今は……


 ゆっくり休むのに、ちょうどいい時間だった。


 少なくとも、その時の私はそう思っていた。


 …………………………………

 ……………………………

 ………………………







 次回予告


 第86話「現実のような夢と、痛みを宿した記憶」

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