第84話 帰る朝
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まだ夜明けの気配が残る朝だった。
ベッドに横たわり、窓から差し込む淡い朝の光をぼんやりと眺めていた。
今日は帰る日……
慧翔くんが昔通っていた中学校に連れて行ってもらってから、もう数日が経った。そして今日、ついにあの部屋へ戻る日がやって来た。
あっという間だった……
本当に楽しい時間だった。
この休暇中にあった出来事――葵さんと出会ったことから、慧翔くんと恋人になれたことまで――を思い返すと、自然と笑みがこぼれた。
まだ信じられない。
本当に私たち、付き合ってるんだ……
私から彼に告白したのに、それなのに、恋人なら当たり前にするようなことを、私の方から拒んでしまった。
したくないわけじゃない。
ただ……まだ、それが自然になる時じゃない気がした。
あのキスは、想いを伝えたいという衝動から生まれたものだった。ただ、彼に私の気持ちを知ってほしかっただけ。
あれは……本当に自然に生まれたものだった。
考え込む間もなく、ドアが三回ノックされた。
「お姉ちゃん、もう起きてる?」
ドアの向こうから、真夜ちゃんの声が聞こえた。
「あ、真夜ちゃん。うん、今起きたところ。どうしたの?」
「お兄ちゃんが、荷物の準備は終わったかって。それと、お母さんが朝ごはんだから下に来てって」
そういうことか……
納得した。新学期の準備もあるし、早めに東京へ戻らないといけない。
「慧翔くんに、すぐ行くって伝えて。それと、一葉さんにも」
「はーい!」
廊下を駆けていき、そのまま階段を下りていく足音が聞こえた。
気持ちを切り替えるように体を起こし、目を覚ましたばかりの猫みたいに大きく伸びをする。
枕元の時計を見る。
朝の七時五分。
最近は、この時間に起きるのがすっかり習慣になっていた。
東京に戻ってからも、もしある日この時間に起きなかったら、慧翔くんはきっと心配するだろう。
それに……
今日は走りに行こうか。それともやめておこうか。
このままだと太ってしまいそうで、そんな姿を慧翔くんには見せたくなかった。
「……今日はやめておこう」
もし彼が探しに来て、私がいなかったら心配させてしまうだろうし。
荷物をスーツケースにまとめ終えると、リビングへ下りた。
思った通り、みんなもう待っていた。
少しだけ気まずい。
せめて何か手伝えばよかったかな。
「おっ、どうやらぐっすり眠れたみたいだな」
慧翔くんが穏やかに笑いながら言った。
「慧翔くん、真希ちゃんにだってゆっくり寝る権利くらいあるんだからね?」
一葉さんがすぐにかばってくれて、その一言に少し肩の力が抜けた。
「ありがとうございます、一葉さん。お待たせしてしまってすみません」
彼女は親指を立てて、にっこり笑う。
「今日は東京に戻るのよね?」
「はい、お義母さん。休みも終わりですし、戻らないと」
一葉さんは、この数日が終わってしまうことを惜しむように、少しだけ寂しそうな目をした。
それでも、優しく微笑んでくれる。
「今度はもっとゆっくり泊まりに来てね。みんなで待ってるから」
「うん、そうだな。慧翔くん?」
慧翔くんは朝ごはんを食べるのに夢中で、まるでそれ以外は耳に入っていないみたいに、もぐもぐと頬張りながら何度もうなずいていた。
そんな日が、早くまた来るといいな。
きっと、次の夏休みには。
何しろ、正式に付き合い始めてから、まだ二人きりでどこにも出かけていない。
残りの朝は穏やかに過ぎていった。
他愛もない話を続け、ときおり笑い声が混ざり、小さな思い出話に花を咲かせる。
昨日までと大きく変わったことは何もなかったけれど、不思議とそんな時間が、この家の空気をよりいっそう温かく感じさせてくれた。
* * *
朝ごはんを食べ終えた後、スーツケースを取りに部屋へ戻った。
もう帰る時間だった。
でも、部屋を出ようとした時、背後に誰かの気配を感じた。
振り返ると、真夜ちゃんがいつもより少しだけ寂しそうな表情で立っていた。
その瞳には隠しきれない名残惜しさが浮かび、本当にお別れの時間が来てしまったことを受け入れたくないようだった。
まるで、何も言わずに「行かないで」と訴えてくる子犬みたいだった。
「お姉ちゃ〜ん……本当に行っちゃうの? 行ってほしくないよ……この何日か、本当に楽しかったのに」
思わず優しく微笑んでしまう。
そっと頭を撫でながら、乱れた髪を整えてあげた。
年下の女の子に、こんなにも懐いてもらえたのは初めてだった。
「次のお休みには、また遊びに来るよ。もし来られなかったら、今度は一葉さんと一緒に私たちのところへ遊びに来て。ね?」
その一言で、彼女の表情はぱっと明るくなった。
満面の笑みを浮かべ、嬉しそうに何度もうなずく。
「うん! それいい! また会えるなら、それで十分!」
そう約束を交わしてから、スーツケースを手に取り、階段を下りていった。
真夜ちゃんは最後まで荷物を持とうとしてくれた。
正直、それほど手伝いは必要なかったけれど、一生懸命になってくれる姿がなんだか可愛らしかった。
「ほら、真夜。真希ちゃんにちゃんとお別れを言いなさい」
外へ出ると、慧翔くんが車のトランクに荷物を積み込んでいた。
真夜ちゃんは駆け寄ると、そのまま勢いよく私に抱きついてきた。
「すっごく寂しいよ、お姉ちゃん。お兄ちゃん、お姉ちゃんに何か文句でも言われたら、私は絶対お兄ちゃんの味方しないからね」
慧翔くんは一瞬息をのみ、そのまま固まってしまった。
どうやら、その一言はかなり効いたらしい。
思わず小さく笑みがこぼれる。
真夜ちゃんは私から離れると、今度は慧翔くんにも抱きついた。
そして離れる前に、つま先立ちになって彼の耳元で何かをそっと囁く。
何を言ったのかは聞こえなかった。
ただ、慧翔くんが数秒間その場で固まり、それから我に返ったように車のドアを開けたのが見えた。
「ありがとう、慧翔くん」
前の席には一葉さんと誠一郎さん。
後ろの席には、慧翔くんと私が並んで座った。
「真夜、家を頼んだぞ。この恋人たちを駅まで送ってくるからな」
「はーい!」
その言葉を聞くたびに、まだ少し照れてしまう。
でも……
本当のことだった。
今の私たちは、恋人同士なんだから。
「またね、真夜ちゃん」
「うん! またね、お姉ちゃん!」
それが最後の言葉だった。
車はゆっくりと駅へ向かって走り出す。
窓の外では、両手を大きく振る真夜ちゃんの姿が、少しずつ小さくなっていった。
気づけば、私は慧翔くんの手を探し、そっと指を絡めていた。
まだ少し眠たかった。
ゆっくりと彼の肩へ頭を預ける。
気づけば、そのまま彼の身体にもたれかかっていた。
彼の温もりがあまりにも心地よくて、起きている理由なんてどこにも見つからなかった。
車が修善寺の街を抜けていく中、私はもう一度そっと目を閉じ、その温もりに包まれながら、再び眠りへと落ちていった。




