第83話 今日の終わりに
真希はゆっくりと脚を伸ばし、高く伸びる竹の隙間から差し込む陽射しが、オリーブグリーンのワンピースの裾に繊細な模様を描くのを眺めていた。小さく息をついてから、ゆっくりと俺の方へ向き直る。
俺が何か言うより先に、彼女は両腕で俺の腕をそっと抱き寄せ、そのまま頬を肩に預けた。かすかに伝わる吐息の温もりがオックスフォードシャツ越しに感じられ、心臓が少しだけ早く鼓動する。
「慧翔くん……」
「どうした、真希?」
答えを待ちながら、俺は動かなかった。
こんなふうに寄り添ってくれる彼女のぬくもりが、不思議なくらい心地いい。
周囲では、風に揺れる竹の葉のかすかなざわめきだけが、二人の静かな時間を包み込んでいた。
真希はしばらく黙っていた。
無意識に俺のシャツの袖を指先でもてあそびながら、その視線は石畳の小道へ落ちている。
やがて穏やかだった表情が、少しずつ真剣なものへと変わっていった。
「全部終わった後のことを考えてたの……また都会のあの部屋に戻らなきゃいけない日が来るんだなって」
彼女の声は、かすかに聞こえるほど小さかった。
「ここにいると、時間が止まったみたいで……でも、向こうには現実が待ってる。特に、お父さんがね」
確かに、その通りだった。
お母さんがくれた猶予は、ほんの一か月少しだけ。
その先はいずれ、向き合わなければならない現実が待っている。
彼女と離れたくなかった。
まして、こんなにも時間をかけて、ようやく恋人同士になれたばかりなのに。
彼女が望まない限り、俺から手放すつもりはない。
そして、彼女もそれを望んではいないはずだった。
俺はそっと彼女の手を握り、指を絡めた。
それだけで不安を消せるとは思わない。
それでも、少なくとも一人で抱え込まなくていいことだけは伝えたかった。
「君のお父さんとお母さんに、君を任せても大丈夫だって思ってもらえるように頑張る。だから……俺を信じてくれないか?」
真希はゆっくりと顔を上げた。
「ありがとう、慧翔くん」
そう言うと、何も言わずにもう一度俺を抱きしめた。
穏やかな抱擁だった。
まるで、その一言だけで胸の奥に抱えていた重荷が少し軽くなったかのように。
俺も同じように抱き返し、風が竹林を吹き抜けていく音を聞きながら、その静かな時間を味わった。
しばらくして、彼女はゆっくりと体を離した。
その顔には、また穏やかな笑みが戻っていた。
そして小道へ視線を向けると、何かを思いついたように、その瞳にはいつもの輝きが宿っていた。
「ねえ、今ちょっと面白いこと思いついたかも」
「面白いこと?」
彼女は立ち上がると、竹を見上げた。
まるで葉の隙間に浮かんだ考えを捕まえようとしているみたいだった。
俺は黙ってその姿を見つめる。
どうやら言葉にする前に、頭の中で整理しているらしい。
「あなたがお父さんに会った時のことが心配なの。あの人……あんまり優しい人じゃないから」
「俺たちのことを知った時の反応が心配ってことか? たぶん、お母さんからはもう話が伝わってるだろうしな。うまくいくといいんだけど」
真希は小さく微笑んだ。
「そうなったら一番いいんだけど……でも、お父さんは昔から私の将来を決めたがる人だったの。何をするかも、誰と一緒にいるかも」
彼女の視線はゆっくりと足元へ落ちた。
「都会のあの部屋だけが、私が小説を書いて、自分らしくいられる場所だった。でも今は、あなたがこんなにも私の人生の一部になってる……だから、簡単には受け入れてくれないと思う」
一度言葉を切ってから、静かに続ける。
「お父さんは、自分の思い描いた通りに進まないことを嫌う人だから」
「その思い描いた未来から外れた存在の一つが、俺ってことか」
彼女はゆっくりとうなずいた。
少し考え込むように黙り込んだあと、小さく笑みを浮かべる。
「でも、考えようによっては……お母さんに気に入ってもらえたんだから、お父さんとも上手くいく可能性はあるよね」
少し間を置いてから、真面目な顔で人差し指を立てた。
「でも……確率は一パーセントくらいかな」
一パーセント……?
そんなに難しい相手なのか。
それに、黒川さんは「あの人はどこか君に似ている」とも言っていた。
あれは、一体どういう意味だったんだろう。
真希は立ち上がると、ワンピースの裾を軽く整え、小さく微笑んだ。
「行こう、慧翔くん。連れてきてくれてありがとう……すごく楽しかった」
「真希、まだ終わりじゃないよ。今回はあの時みたいに途中で帰したりしないから」
返事を待たず、もう一度彼女の手を握った。
まだ見せたい場所が、一つ残っている。
竹林を後にし、風に揺れる竹のささやきを背中に聞きながら、石畳の道をゆっくりと戻っていく。
今回は、原稿を書くために慌てて帰るなんて言い訳をする隙は与えない。
このデートを、最後まで二人だけの思い出にしたかった。
「今度はどこへ連れて行ってくれるの、慧翔くん?」
好奇心いっぱいの笑みを浮かべながら、彼女は指を絡めたまま俺の隣を歩いた。
……………………
………………
………………
………
結局、彼女は何も言わず、ただ俺に身を委ねた。
まるで、俺が選ぶ道ならどこへでもついていくと決めたかのように。
そして正直なところ、彼女自身も抗うつもりはないようだった。
数分歩くと、見覚えのある建物の前で足を止めた。
昔通っていた中学校だ。
そこで友達ができたことは、一度もなかった。
でも、以前、真希がこういう場所に興味があると言っていたのを思い出した。
「もしかしたら見てみたいかなと思って。前に君が、こういう場所に興味があるって言ってただろ?」
真希は顔を上げ、黙ったまま校舎を見つめた。
「そう……ここだったんだ」
その声は、かすかに漏れるようだった。
「ずっと気になってたの」
「中に入ってもいいよ。卒業生が来ても、誰も気にしないと思うし」
真希は数秒考え込むように、フェンス越しの校庭を見つめていた。
やがて小さく笑って、静かに首を横へ振る。
「ううん……連れてきてくれてありがとう。でも、中には入らなくていい」
そう言って一歩近づき、また俺の腕にそっと抱きついた。
「あなたが一緒にいてくれるだけで十分だから」
そのまま肩に頬を預ける。
「好きな人が隣にいてくれる。それだけで十分だよ」
胸の奥が、じんわりと温かくなった。
「君の過去は、君自身の口から聞きたい」
真希はゆっくり顔を上げ、俺の目を見つめた。
「一人だったかどうかなんて、気にしないよ。だって……あなただけが一人だったわけじゃないんだから」
最後は小さく笑って締めくくったけれど、その言葉の意味は十分に伝わってきた。
そして、彼女の言う通りだった。
あの頃の俺は、ほとんどを一人で過ごしていた。
葵さんはいつも友達と一緒にいて、俺は他人に話しかけるのが得意じゃなかった。
でも、そう考えてみると……
不思議と、それはもう気にならなかった。
真希がどうしてそんな結論にたどり着いたのか、一瞬わからなかった。
……
いや。
そういえば思い出した。
あれは、自分から話したことだった。
深く考えるより先に、そっと彼女の頭を撫でた。
「ありがとう、真希」
自然と笑みがこぼれる。
「君がそう思ってくれて、本当に嬉しい」
彼女は顔を上げ、一瞬きょとんとした表情を浮かべた。
けれど、その頬はゆっくりと赤く染まっていく。
「な、なんでもないよ……」
照れくさそうに視線を逸らした。
「思ったことを、そのまま言っただけだし……」
少し間を置いて、もう一度空を見上げる。
「それに……暗くなる前に帰らないとね」
俺も小さく笑ってうなずいた。
「そうだな。そろそろ帰ろう」
それ以上は何も言わず、二人で家へ向かって歩き出した。
手を繋いだまま肩を並べて歩きながら、この一日がきっと、ずっと忘れられない思い出になるだろうと思った。
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